言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「声」を聴く人が必要である。

2016年11月12日 10時31分24秒 | 日記

 なし崩しに事が変化していく姿を見て、とても重い気分になることがある。今まで築いてきたものを何も意味がないかのやうに否定され、何もなかつたかのやうに事が進められていく。

 悲しみとはさういふところに生まれる感情なのであらう。

 あちらこちらで、さういふ悲しい訴へを聴くことが多い。ある人は強い調子で、ある人は言葉に出来ずに苦しんだ表情で、そしてある人は立ち止まるといふ行動で。

 先日も紹介したが、西田幾多郎の哲学は、驚きによつて始まつたのではなく、悲哀によつて生まれたものである。絶望に耐へる心境に言葉を駆使して形を与へ、それを積み上げて人間論にまで高めていつたものである。さういふ経過を経て、私心を普遍にまで純粋化していくことで自らの心を解放していつたのであらう。

 『善の研究』には、悲しみが沈潜してゐる。決してその悲しみは疾走してゐない。それが見事に日本の近代の歩みを象徴してゐる。

 私たちの民族の、最も良質な部分は、きつと悲しみのなかに潜んでゐるのではないか、さう思ふ。

 事を急いてはいけない。事を急く気持ちは、恐らく疲れてゐる証拠である。疲れてゐるときは結論を出してはいけない。立ち止まることが最善の行動であるといふ時もあるはずだからである。

 結論を出すべく激しく動くことが必ずしも活力の証明になつてゐるのではなく、ほとんどの場合はその逆である。性急さを求めるときには、力の蓄積をこそ求めなければならない。

 そして、私たちは、さういふ自分や他者を見る余裕を持たなければならない。

 福祉とは、「存在と関係への配慮である」と思ふ。それを私は、西田幾多郎の後継者でもある田辺元の哲学をもとに考へたことがある。福祉といふ視点が、あるいは言つてよければ、「福祉哲学」といふ発想が、私たちの近代から失はれてきてゐるのではないか、さう感じてゐる。

 悲しみの声を聴く人がもつと必要である。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする