言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

生きにくい人がゐる。

2016年11月17日 13時35分16秒 | 日記

 生まれてから一度も深刻な悩みを抱いたことがないといふ人に、これまで何人もあつたことがある。

 もちろん、出会つたすべての人との間にさういふ話をしたわけではないから、もつとゐるかも知れないが、少なくとも数人はゐた。

 さういふ人には考へられない事柄だらうが、毎日生活するといふだけで苦しいときがこれまでにも何度もあつた。年とともにさういふ感覚がにぶつて来てありがたいのであるが、思ひ出すだけでも手に汗が滲んでくる年月がこれまでにあつた。

 それをここに記さうと思つてゐるわけではない。

 さういふ時にどうすればいいのか、さういふ方法があればありがたいなといふことを言ひたかつたまでである。

 本を読む力はない。寝ても寝られず、起きても何もやる気が起きずに、ただ耐えてゐるといふことだけである。話をするにも、頭を整理することができないので、何から話せばよいのか分からない。

 ただ私の場合には、部屋を整理することか、あるいはものを書くといふことさへできれば、何とかやつていけるなといふ気持ちだつた。

 それから、少し離れたところでいつも見てくれてゐる人がゐたといふことを今にして感じる。そして、その人たちがきつと祈つてくれてゐたのであらうといふことを感じる。

 話を聴くのも大事だが、祈り合ふといふことも大事だと思ふ。お百度参りといふのは、今はきつと流行らない風習だらうが、祈り続けるといふ作法は、私たちの文化にこれからも保存しておいていいものだと思ふ。

 生きにくいと思ひながら、辛うじて生きてゐる人がゐる。さういふ人を言葉で救はうとする人がゐてくれるのはありがたいが、それだけではたぶん不十分だらう。心に届くものは、言葉だけではない。

 祈りの力には驚くべきものがある。感謝してゐる。

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