言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

もはやマスコミはない。

2016年11月10日 08時22分07秒 | 日記

 アメリカ大統領選の結果について、私の職場でも大いに盛り上がつた。率直に不満を言ふ人も、おちやらける人もゐた。企業の支援を受けてゐる職場なので、株や円の相場について気にする発言もあつた。

 その言葉はいづれも他人事であつて、当のアメリカの人々の心情には迫つてゐない。もちろん、当然である。それを伝へるはずのマスコミの報道がただの一つも正確ではなかつたからである。

 その中で、ただ一人正鵠を得てゐたのが、フジテレビの木村太郎氏である。大手新聞社テレビ局の報道に違和感を持ち、インターネット情報を駆使して、最後にはアメリカまで赴き取材した結果、一年前から直前までずつと「トランプ勝利」を語つてゐた。

 トランプの言葉「私の主張はグローバリズムではなく、アメリカニズムだ」の言葉に象徴されるやうに、不安を抱へる国民に安心を与へようとしたのが彼の政治理念であつた。その動きを「ポピュリズム」として一蹴したマスコミは、もはや現実を見ずに観念を語つてゐただけなのであらう。大衆の声を代弁するのがマスコミの意味であらうが、かうなるとマスコミとは大衆をつかめてゐない幻想報道機関といふことになる。

 現実を見てゐないから、それを批評する知識人の言論も空を切るばかり。今回の大統領選は、大衆の勝利といふことになる。それが丁と出るか半と出るかは今後の課題であるが、大衆の動きをつかめてゐない言論の体たらくは喫緊の課題である。

 しかし、知識人やマスコミの編集委員は決して自己否定はしない。自己欺瞞を継続的に続け、その信頼性をますます失つていく。かくして大衆の完全勝利となるのである。

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