水がない
印南新村の話です。
印南新村の土地は、一段高くなっています。
高い土地であると言うことは、当然水が得にくい地域ということです。
土地が高くても、田を潤す川があればよいのですが、ここにはそんな川はありません。
そのためか、開発も他の地域よりも遅れてはじまりました。
明細帳によれば、印南新村の開発は正徳二年(1727)のことです。
『加古郡史』によれば、「・・正徳元年、摂津境の嘉右衛門というものが開発し、大庄屋に任命された」とあります。
印南新村:民間委託事業
加古新村の開発と違うのは、印南新村の開発は商人による開発であったことです。
17世紀の新田の開発は、多くの場合藩の援助でおこなわれています。
やがて藩の財政は、火の車となり、開発の援助どころではなくなりました。
18世紀の新田開発は、もっぱら商人の財力による開発にたよるようになります。今日の言葉では、民間委託です。
印南新田もこのような新田開発の一つでした。
もう一度、強調しておきます。印南新田は、高い土地の新田でした。
灌漑用水の確保はきわめて困難でした。
印南新田では、新たに池をつくろうとすると、その都度、近隣の村々から抗議がありました。
近隣の村としても、自分たちの村に流れてくる水が少なくなることは死活問題ですから当然です。
しかし、印南新村には、民間委託の開発のため加古新村の場合のような藩のバックアップがありません。
そのため、新村をつくり、それまでの用水権に入りこむことは容易なことではありませんでした。
それでも、印南新村の百姓は、水に苦しみながらも印南野台地に夢を託しました。しかし、天は非情でした。
台地を湿らせる、わずかばかりの雨さえ奪うことが、しばしばでした。(no5019)
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