私の主張・ひとりの日本人として

新聞やテレビの報道で特に偏向マスコミや反日日本人などに憤慨することが多くなり、暇な時に思いつくまま書き綴ったブログです。

今日のコラム総目次(2011年分)

2011年12月31日 23時55分09秒 | 今日のコラム総目次
今日のコラム総目次(2011年分)

12月
◆民主党から逃げ出す人も出始めたようで(12/31)
◆英霊たちの遺書(1)(12/31)
◆英霊たちの遺書(2)(12/31)
◆英霊たちの遺書(3)(12/31)
◆「反日・韓国」「親日・台湾」の比較(12/31)
◆【李登輝氏の慶応大学講演原稿】「日本人の精神」(12/31)
◆【講演録】李登輝理念とはなにか(12/31)
◆沖縄県はまさに「ゆすり・たかりの名人」ではないか(12/29)
◆今や日本国民の敵となったフジテレビ(12/27)
◆沖縄特権と言うべき県独自の一括交付金制度とは(12/25)
◆那覇空港が軍民共用で危険だと言うのであれば(12/23)
◆北朝鮮住民が泣くふりならば政府も弔意を示すふりを(12/21)
◆金総書記の冥福を祈る気持ちにはなれないが(12/19)
◆韓国は日本との国交を断絶したいのか(12/18)
◆男女共同参画の流れに逆らわず女性宮家の創設とは(12/17)
◆平岡法相が死刑制度に関して勉強するのは勝手だが(12/16)
◆普天間固定化で困る方は誰もいないかも(12/14)
◆森田知事の親日国を大事にすべきだとの見解は正しい(12/12)
◆いくら韓国が好きな売国民主党の外相だとしても(12/10)
◆民主党の党員資格見直し案は姑息なごまかし(12/08)
◆防衛大臣として資質を欠いているのが致命的では(12/06)
◆戦略物資である石油の外国備蓄は狂気の沙汰(12/04)
◆皇統を守るには女性宮家の創設より旧皇族の皇籍復帰((12/02)

11月
◆民主党は韓国民団の影響下にある売国政党(11/30)
◆なぜか宮城県女川町に住んでいた朝鮮人元慰安婦(11/28)
◆支那はなぜ反日デモを起こさなかったのか(11/26)
◆支那の空母型カジノに制動用ワイヤーが必要なのか(11/24)
◆職責を果たせず、適材適所ではなかった平岡法相(11/22)
◆外国人の代表選投票が違憲ならば参政権も違憲では(11/20)
◆NHKにテレビ所有の有無を伝える必要はない(11/18)
◆民主党所属議員に対する違法献金は止むことはない(11/16)
◆フジは韓流と心中する道を選択するのか(11/14)
◆黒岩知事は朝鮮人が誠意を示したと思っているのか(11/12)
◆「九条を守ろう」と叫べば戦争の惨禍から免れるのか(11/10)
◆韓国で製造された車となれば日本人が買う理由はない(11/09)
◆支那人船長逮捕で国民は仙谷氏の動向を注視している(11/07)
◆偏向マスコミからの電話に安易に答える者とは(11/06)
◆野田総理が朝鮮人式飲み方をしているとなれば(11/04)
◆佐藤市長が辞職しても小金井市のゴミ問題は解決しない(11/02)

10月
◆韓国と組んだことが「ソニー」没落の始まり(10/31)
◆捏造写真を展示した「ピースおおさか」は閉館すべき(10/29)
◆今頃になって鳩山氏の県外移設発言を批判する玄葉外相(10/27)
◆韓国に在日向けの集落の建設が予定されているとは(10/25)
◆日本はいつまでも外国人に優しい国であってはならない(10/23)
◆世の中を悪くしているのは民主党と偏向マスコミでは(10/21)
◆当ブログご愛読の皆様へ ブログの再開について(10/20)

9月
◆チョーヤ梅酒は顧客の信用を優先し当然な対応をした(09/17)
◆70円程度の値下げで誤魔化そうとするNHK(09/15)
◆偏向マスコミは民主党にとっては大恩人の筈だが(09/13)
◆問題を抱えている閣僚ばかりで長くは持たない野田内閣(09/10)
◆見るべき番組もないとなれば解約は当然(09/08)
◆日本人を装うための在日朝鮮人による偽名問題について(09/06)
◆国民目線の防衛政策などあり得ない(09/04)
◆叶うならば選挙の際に政治家ではなく自衛隊に投票したい(09/02)

8月
◆輿石幹事長が顔を晒せば晒すほど内閣支持率は下がる(08/31)
◆極左政党である民主党内には右翼などいない(08/29)
◆韓国は外国人参政権の危険性を認識したようだ(08/28)
◆在日朝鮮人に代表選出馬を報告するような前原氏では(08/26)
◆民主党は犯罪者でなければ党代表にはなれないようだが(08/24)
◆国の防衛を住民投票で決めろと言う琉球新報(08/22)
◆支那は水不足で滅ぶと言われてきたが(08/20)
◆日韓国交断絶に向けた良い流れになってきたようだ(08/18)
◆放免されているのにいつまでも戦争犯罪人なのか(08/16)
◆支那に尖閣占領の招待状を送った琉球新報(08/14)
◆国民のテレビ離れでなく、テレビの方が国民離れをした(08/12)
◆韓国がICJへの付託に同意しなければ経済制裁を実施すべき(08/10)
◆民主党政権である限り日米首脳会談は行われないかも(08/08)
◆受けた恩を石に刻み、恩返しをする国が多い中で(08/06)
◆韓国は日本を友好国とみなしていない(08/04)
◆韓国を苛立たせた新藤議員らの行動を全面的に支持する(08/02)

7月
◆日本は支那から批判されるような国になるべきだ(07/31)
◆韓国は外国人旅行者の安全が保障されない危険な国(07/29)
◆東日本大震災の被災地から退陣を求められた菅総理(07/27)
◆支那共産党は自国民を虫けらだと思っている(07/25)
◆朝鮮総連関係者に韓国の参政権が付与されれば(07/23)
◆やはり支那人船長を釈放したのは間違いだった(07/21)
◆韓流ブームが捏造から本物になることはない(07/19)
◆これほど暇な総理も珍しいが(07/17)
◆韓国が苛立つことであれば何でもやった方が良い(07/15)
◆ネット配信で受信料徴収すれば詐欺サイトも同然(07/13)
◆公表できないような北朝鮮関係者にビザを発給したのか(07/11)
◆北京で出回っている飲料水でさえ細菌入りとは(07/09)
◆全力で仕事をしていれば復旧・復興が進んでいる筈だが(07/07)
◆菅総理がダメだから松本復興相もダメになる(07/05)
◆自衛隊による原発防衛は当然だが(07/03)
◆民主党のスポンサー様の都合の悪いことは回答困難か(07/01)

6月
◆台湾には親近感を、支那・韓国にはますます嫌悪感を(06/29)
◆近いうちに事故る可能性が高い支那の高速鉄道(06/27)
◆地デジ未対応世帯を難民扱いするのは大変失礼では(06/25)
◆いつから「生徒の思想・良心を守る戦い」になったのか(06/23)
◆蓮舫氏が自分の発言に責任を持つ訳はない(06/21)
◆遠くない時期にテレビの時代が終わるかも(06/19)
◆ハングル表示の飲料水やカップ麺では売れ残る(06/17)
◆総理が無能者では国民に不幸をもたらす(06/15)
◆宜野湾市の抗議行動は誰に対しての抗議なのか(06/13)
◆菅内閣不信任決議案の再提出はやむを得ない(06/11)
◆「人権侵害だ」「差別だ」と誰が騒いでいるかを知れば(06/09)
◆菅総理の常識は国民の常識とは異なるようで(06/07)
◆日教祖の教師に「仰げ尊し、わが師の恩」はない(06/05)
◆復興のめどがついたと誰が判断するのか(06/03)
◆職務命令を拒否する教師を採用出来る訳はない(06/01)

5月
◆沖ノ鳥島と南沙諸島をめぐる支那のダブルスタンダード(05/30)
◆水がなくなれば支那は滅びるしかないが(05/28)
◆教師の職務命令違反を子供をダシに使ってすり替えるのか(05/26)
◆自衛隊の皆様には感謝の気持ちしか湧いてこない(05/24)
◆誰も責任取らないことで有名な民主党だが(05/21)
◆職務命令違反の教師に対する厳罰化は当然(05/19)
◆国旗国歌に儀礼を欠く反日教師は公教育の場から排除せよ(05/17)
◆大震災がなければ菅総理は退陣していたかも(05/15)
◆滑走路の延長線上に自宅があれば(05/13)
◆あたご側に回避義務はないとする元当直士官の無罪は当然(05/11)
◆交代が難しいとなれば派遣規模を縮小するしかない(05/09)
◆普天間飛行場を移設から固定化させた民主党政権(05/07)
◆自衛隊や米軍に感謝する気持ちはない九条の会(05/05)
◆支那への牽制にもなった台湾紙への感謝広告(05/03)
◆事実を言ったら差別だと言う辛淑玉氏(05/01)

4月
◆支那の工作員となった宜野湾市の伊波前市長(04/29)
◆国民の心を癒す天皇皇后両陛下の被災地訪問(04/27)
◆蓮舫氏の唯一の正しい仕分けは夫の落選だった(04/25)
◆「軍の命令」があったと思い込んでいる大江健三郎(04/23)
◆支那の厚意と配慮に喜び、励まされた覚えはないが(04/21)
◆「起訴相当」と議決した那覇検察審査会の判断は妥当(04/19)
◆ 感謝広告は近隣諸国への影響を考慮するのか(04/17) 
◆谷垣総裁の「復興本部」への参加拒否は正解(04/15)
◆日本には外国人留学生再来日を支援をする余裕はない(04/13)
◆余震が続いているのは菅総理が辞任しないからかも(04/11)
◆返却しても菅総理の政治資金規正法違反は明らか(04/09)
◆米軍による「トモダチ作戦」に感謝する(04/07)
◆大連立は民主党政権の延命に手を貸すも同然(04/05)
◆国会議員の仕事はボランティアではない(04/03)
◆韓国の飲料水は日本人の口に合わないのでは(04/01)

3月
◆民主党は詐欺政党に加えてステルス政党にもなったのか(03/30)
◆自衛隊に足を向けて寝ている連中へ(03/28)
◆計画停電見送りが手柄とするビラを配布した民主党市議(03/26)
◆ただちに健康に影響を及ぼすおそれがある支那産の野菜(03/24)
◆消防隊員を恫喝した海江田経済産業相だが(03/22)
◆蓮舫氏でなくとも幼稚園児でもできる「節電のお願い」(03/20)
◆被爆覚悟で日本国民を助けようとしている自衛隊に名誉を(03/18)
◆日本民族は日本と運命を共にする覚悟を持つべきだ(03/16)
◆いわゆる地震雲であるかどうか分かりませんが(03/16)
◆冷静に行動する日本人の民度の高さを世界に知らしめるべき(03/14)
◆大規模災害時における最後の砦「国民の自衛隊」(03/12)
◆韓国のために政治家になったと言う民主党の土肥隆一衆院議員(03/10)
◆民主党は前原氏を擁護し在日献金を合法化するのか(03/08)
◆政治家が献金を貰うならば国籍を確認する義務がある(03/06)
◆前原外相の他にも外国人から献金を受けている者がいるかも(03/04)
◆支那との戦略的互恵関係などあり得ない(03/02)

2月
◆民主党は民主主義を否定し独裁主義を肯定する政党なのか(02/28)
◆支那は敢えて環境対策を怠っているとしか思えない(02/26)
◆民主党議員から「責任を取る」との言葉が出るのは驚きだ(02/24)
◆海自掃海艇の入港歓迎の声も紹介した沖縄タイムスだが(02/21)
◆国民を訴えてまで受信料を払わせようとする「皆様のNHK」(02/19)
◆民主党は文民統制を脅かす異常な政党(02/17)
◆民主党は小沢被告を本当は処分したくないかも(02/15)
◆鳩山前総理は抑止力について何も学んでいなかったのか(02/13)
◆祝日とは国民の祝日であって支那のための祝日ではない(02/11)
◆支那以外に大気汚染物質を日本まで飛ばしてくる国はない(02/09)
◆民主党候補者では統一地方選を戦えないとなれば(02/07)
◆世界第二位の経済大国支那に援助することは失礼では(02/05)
◆思った通り小沢被告の処分を先送りした民主党(02/03)
◆政治生命が終わろうとしている民主党の小沢被告(02/01)

1月
◆民主党政権では普天間の移設問題は解決しない(01/30)
◆小沢氏の言う天皇陛下の「どうでもいいような日程」とは(01/28)
◆民主党に逆らう者はすべて監視対象になるかも(01/26)
◆NHKは地デジ移行に伴い受信料の解約方法を告知すべきだ(01/23)
◆尖閣諸島沖での支那漁船衝突事件の捜査は終結していない(01/21)
◆不払いまたは未契約世帯のすべてから受信料徴収は不可能(01/19)
◆欠陥を抱えているのは死刑制度ではなく江田法相だ(01/17)
◆統一地方選挙では無所属を装った隠れ民主に十分注意せよ(01/15)
◆民団の新年会に顔を出しているようでは(01/13)
◆選択的夫婦別姓は日本の伝統である家族制度を崩壊させる(01/11)
◆外国人に市政の重要事項の意思を問う条例案は違憲だ(01/09)
◆支那と友好関係を持ちたいと思うこと自体が誤りだ(01/07)
◆国家国民の利益が失われたのは公安機密情報流出の方だ(01/05)
◆沖縄県民は本当に普天間固定化で良いのか(01/03)
◆普通の市民は元旦から座り込みなどしない(01/01)

民主党から逃げ出す人も出始めたようで

2011年12月31日 23時47分00秒 | 民主党関連

 多くの国民は民主党の無能ぶりにもはや呆れて果てているであろうが、党所属議員が街頭演説などをすれば、「詐欺師」「嘘つき」「解散しろ」などと罵声を浴びられているようで、政権を担当することは簡単ではないことが分かっであろうから、早く解散して楽になった方が良いのではなかろうか。

 偏向マスコミは民主党政権が誕生する前までは、常に政権政党を批判するのが使命だと言っていた気がするが、ところが民主党政権になってからは、誕生させるために持ち上げる報道放送を繰り返したことからなのか、批判を手控えるようになり、大きく報道すべきことでも敢えて無視しているようが気がしてならない。

 民主党政権が続く限り、誰が総理になろうと、日本は衰退する一方であろうし、その証左に民主党の代表に選出され総理になった鳩山、菅、野田の三氏でさえ、あの程度の頭であるからで、だから、他の民主党議員の程度はそれ以下なのは間違いない。また、ほとんどの議員は何らかの問題を抱えているようで、それも偏向マスコミの暖かい支援を受けてほとんど報道されないようである。

 政権公約を守らない民主党から逃げ出す人も出始めたようで、離党届を提出した9人の名前を見ても、どんな顔をしているかも分からないが、離党した後に新党を結成したとしても、元民主党は消えないからして、国民の目が厳しく光っていることを覚悟しておいた方が良いだろう。

 民主党が野党時代にやっていたことは自民党批判だけだったことが、政権与党になって分かったと言えるし、政権交代を叫びながら、もし政権を担当するとなれば、しなければならない勉強すらもしていなかったようで、大臣になった者でさえ、勉強しておらず、素人だと公言し、それを恥とも思わないのだから話にならない。

 野田政権は3月までではないかとの話が出ているが、次期衆院選で、民主党が全滅しないためには一日でも早く退陣した方が良いし、ポスト野田もありえない。政権のたらい回しなどもってのほかである。おそらく民主党は次期衆院選で勝てないであろうが、だからと言って与党の内に売国法案を強引に成立させようとするなど愚かなことはするなと言いたい。
(2011/12/31)


英霊たちの遺書(1)

2011年12月31日 22時15分22秒 | 英霊たちの遺書
岡山県出身 海軍飛行兵曹長
実村 穂 命 一九歳
昭和二〇年四月一二日 沖縄・辺戸岬付近で戦死
 
今日いよいよ立ちます。何も心配はいりません。例の大元気で暴れて参ります。
何時かお母さんが言われた様に、南の美しいお月様に元気な顔を写します。お母さん元気で居て下さいね。屹度元気な姿を見せますから。
荷物は家から送って頂いたものばかり、家でどんどん使って下さい。
お母さん心配しては駄目ですよ。戦地に行ったら便りもどしどし出す心つもりですが、空しく着かない時は元気でやって居ると思って下さい。
一人のお母さん。今日も日参の姿を涙で穂は拝んでおります。
気の小さいお母さんでは之からは駄目ですよ。気を大きく持って大前の家で笑って居て下さい。兄さん姉さんと一緒にね。
 
*最後の帰省で家を出る時、母は襖越しに「死んで忠義も良いが `生きて忠義をしておくれ」と言った。土浦海軍航空隊に入隊以来、母は雨の日も風の日も一日もかかさず氏神様をお参りしていたのである。その母の言葉に穂は泣いた。神風特別攻撃隊敷島隊の一番機に志願したが、まだ大事な仕事が残っていると退けられた。しかし敷島一番機の出撃では「海ゆかば」を穂さんが音頭を取って歌った。歌の半ばから、司令官以下声が出ず、全員が泣いて送り出したと言う。
 

塚本 太郎 命  二一歳
山口県大津島回天特別攻撃隊
昭和二〇年一月二一日 
西カロリン諸島・ウルシー島海域で戦死 
 
  帰省の友人に頼んで送る。何も言うことはない。ただ来るべき秋<とき>を静かに待っています。日本人が軍神で埋まれねば勝てぬ戦いです。東京も再三空襲された様子。別に心配もしません。体に気を付けて下さい。便りは致しませんが心配なさらないで下さい。昔の私ではありません。
  御両親様の幸福の条件の中から太郎を早く除いて下さい。話さねば会わねば分からぬ心ではない筈、何時の日か喜しい決定的な便りをお届けします。正直な処チヨット幼い頃が懐かしい気がします。帰りの車中はお陰で愉快でしたが母上の泣声が聞こえて嫌でした。もっと愉快になって勝利の日まで頑張って下さ
い。
  悠策や日出子、五百子はきっと親孝行をするよい子になりますね。
 
 
*両親と弟妹に宛てたもので慶応大学経済学部に在学中に学徒出陣し、人間魚雷「回天」の発祥地であった山口県大津島から出撃して戦死している。東京の家に帰宅した際にも特攻のことは口に出さず、「俺の母親は、日本一だ」と母恋しの思いを綴った手帳を残して隊に帰って行ったとのこと。 
 
 

 
山形県出身 東京農大 少尉
西長 武志 命 二二歳
昭和二〇年四月六日 知覧基地から出撃戦死
 
拝啓 
 母上様お世話になり感謝の他ありません。
思いもよらぬ事でしたね。感無量にて何も書けません。
 北山形駅ホームの事を思い出すと男ながら涙が流れます。私は男として最初で最後の涙が出ました。母上様が雪のホームを走りましたね。その時です。私の名を呼びました。私は見えなくなるまで汽車の中で、とめどもとめども涙が流れてしかたありませんでした。
 駅が二ッ三ッ通り過ぎた事も知りませんでした。母上様の心を思えばこそです。然しご安心下さい。必ずやります。まあそんなことはやめましょう。
 本日、節子殿より便りとマスコットが着きました。ふりそで人形でなかなか良いですね。私はザンゲと言うべき雪子さんの事はお笑い下さい。然し私は最後まで思います。ふりそで人形を私の妻として一所にやります。私の初恋と言うべきでありましょう。恋すりゃつらいとはこの事かなあ。人生また楽しからずや。色々くだらないことを書きました。末長く長命ならん事を祈ります。
                           武志 
母上様
 

 
岐阜県出身 海軍主計兵曹
永井 勇郎 命 三一歳
昭和十九年一月二日ビスマーク諸島・ニューブリテン島ラバウル北東で戦死 
 
紀子へ 、道子へ
お父さんの事はお母さんが一番良く知っているからよく聞いて呉れ。母と二人で存分の面倒を見てやりたかったが止むを得ぬ。その代り母によろしくたのんでおいた。
紀子は、道子のよいお姉ちゃんとして二人で仲良く成人して呉れ。お前等が大きくなった時、日本は必ずもっと大きく強くなってゐる。紀子はもう父の事を覚えてゐるが、道子はまだ何も知らない。
二人とも良い子だ。
お前達の前にどんな難関が横になって行く手をさえぎるか知れないが、いつも私がついてゐて切り開いてやる。
丈夫な心を持って強く優しく正しく進みなさい。さようなら。
 
*海軍特別陸戦隊員として航海中にノートに書かれた家族、親戚一同に宛てた遺書の一部で、妻と幼いわが子を残して出征し、戦死した無念さは察するに余りある。
 

 
島根県出身 陸軍少尉
安達 貢  命  二一歳
昭和十九年一二月二三日 フィリピン・ミンドロ島サンホセ附近で戦死
 
翠子殿
永々と御世話になりました。何一つ兄らしい事をしてやらなかった事を済まなく思って居ります。真面目な妹を持ち、こんな気丈なことはありません。後を宜しく願います。祖父母様。御両親様の何かと力になって上げて下さい。
此の間の休暇を懐かしく思い出す。最後に呉駅をたつ時、手を振っていた母上様とお前の姿が今も目に浮かんでくる。別府港に立って見送って下さったお祖母さんの姿も忘れられない。
薄暗い燈火の下、窓に南国の星が輝いている。涼しそうな虫の鳴声。丁度日本の初夏の様だ。二十年間の憶ひ出が次々と廻って来る。レイテの方を望んで腕を撫している。いよいよ戦機が熟して来た。やるぞ。俺は絶対に死なない。何処かに生きている。
(後略)
 
*フィリピンで戦死した陸軍特攻隊員の妹宛の遺書。
 

神奈川県出身 陸軍曹長
望月 憲三 命 三五歳
昭和二〇年五月一四日 フィリピン・ミンダナオ島で戦死
 
(前文略)
俺は必ず帰って来る。病魔に犯されぬ限り死ぬようなことは無いと古い兵隊達も云ってゐる。一年か二年か戦争の続く限り帰れぬかも知れぬが、しっかり家のことは頼む。お前にはノンキな俺の気性で随分と苦労をかけたが、これも宿命だと思って諦めてくれ。戦争などと言う天の摂理に反するものは早く止めて欲しいものだ。民族の生きるための戦ひ、吾々の子孫のための戦ひ、そう思って俺は戦って来る。
営庭で見つけた幸福の葉、四つ葉のクローバをお前達の幸福のために送る。お婆ちゃんにもよく話しておいて欲しい。兄姉其他にもよろしく
  六月九日
てい子殿                       憲三 拝
 
 
*この手紙は、昭和一九年六月一〇日、東京麻布の営庭での面会日の時、別れ際に家に帰って読むようにと。望月憲三さんから妻のてい子さんに密かに手渡された。空襲警報発令でわずか五分間だけの面会は、妻子との最後の別れとなった。

・角川書店発行(昭和の遺書から)

この「英霊たちの遺書」はHPに掲載されていたものです。

英霊たちの遺書(2)

2011年12月31日 22時00分41秒 | 英霊たちの遺書
香川出身 陸軍兵長
稲毛 元好 命 三三歳
昭和十九年一〇月十一日 ビルマ方面にて戦死
 
出発にあたって親愛なる妻よ。外出の時は寒い所、雨の中見送り有難う。今頃は何かと忙しい時だろう、御苦労の程、十分に知って居ます。別れのつらさ、想い出は何と書いてよいかわかりません。可愛い子供、勝廣、好廣、抱いてやりたい、さすりてやりたい、私の心は胸の中は一杯だった。が、私は心を鬼にして無情と思ひながら電車に乗りました。
(中略)
思い起こせばお前と夫婦になって十年、ふりかへり見れば夢の様だ。悲しい日、苦しい日、楽しい日の少なかった事。私は夫として妻のお前に十分な事が出来なかった事を残念に思います。着物一枚買ってやるでなし、海水浴、花見に一度つれて行った事もなく苦労ばかりさせてすまなかった。
戦地に元気よく参ります。お前の写真と子供の写真は何時も私の胸のポケットからははなれません。私の心は留守のお前と子供のそばでいつもお前と子供を守って居ます。
父なきあと子供の事はお願いします。病気にならぬ様たのむ。私がしばらく居なくとも、子供は私のかたみだもの、子供と共に私の帰りを気長がくまってくれたまへ。
一年か一年半位すれば私は帰ります。必ず、必ず必ず必ず
(中略)
私が帰っても家がなくともお前や子供が元気で居ることが望みます。
この手紙は大切にして毎日毎晩読み淋しき心をなぐさめて下さい。
妻へ                     元好
 
・角川書店発行(昭和の遺書から)

 
兵庫県出身 海上挺進基地第二六大隊 陸軍兵長
尾川 昇 命 二三歳
昭和二〇年四月二〇日 沖縄糸満で戦死
 
ときちゃん
ときちゃんが面会に来てくれたのは、兄さんとてもうれしかったです。あれから駅で汽車にのれましたか。和田山についたらずいぶんおそくなって帰るのに暗くて困ったでしょう。兄さんはあれから持ってもらったナシを暗くなって月が出てから今頃はときちゃん汽車の中やろうと思いつつムシャムシャ食べました。ボーちゃんはいよいよ弾のとんでくる戦地へ行く。
もう一度ときちゃんの元気な顔であへるかどうか。とてもむずかしい。そんなことを思えば兄さんは悲しくなる。でもこれがお国につくす道と思へば兄さんもあきらめて元気で行ける。もう会えないでせうが兄さんはいつもときちゃんの事を思っている。そしてすうちゃんと二人で元気なように船の上でもあちらについてからも神様にいのっています。どうかいついつまでも体を丈夫にして親孝行をして下さいネ。ナツメの木になんか登らないでそんな危ないことはやめて食べすぎ風邪をひかぬ様に、これがボーちゃんがときちゃんに出す最後の手紙です。
では元気でね。サヨナラ
                  兄ちゃんより
ときちゃんへ
 
*ときちゃん(季子)。すうちゃん(ときえ)は妹のようである。この部隊名からすると小船艇に爆弾をつけ、敵艦に体当たり部隊であったと思われます。

・角川書店発行(昭和の遺書から)

 
鳥取県出身 海軍大尉
太田 博英 命 二二歳
神風特別攻撃隊第一筑波隊
昭和二〇年四月六日 南西諸島海上で戦死
 
母上様 御無沙汰致しました。書こう書こうと想いながらも母様の心配されるのがつらくて。しかし最後と思えば、矢張り筆を執りました。
今更何も申し上げる事はありませんが一つだけお礼をもうさねばなりません。と云いますのは、あれ程事故の多い搭乗員となり、またその中の戦闘機乗りになったのに事故を一度も起こさなかったことです。何時も母様のお守りを飛行服の中に入れていたお陰と感謝しています。
しかし、今度だけは目的が征って還らぬものです。千人針も弾よチョッキも皆で着て征きます。然しそれは生還する為ではありません。見事敵艦を轟沈する為に神様の御守りを願ひ見事見事目的が果たせる様。
長くなりました。私の遺品の整理も残していますので、くれぐれもお元気でさようなら。
母上様                       博英 
 
(注)妹の登美枝さんと優子さん、弟の紀さんに宛てた遺書もある。「兄はただ一足先に出かけるまでだ。最後の勝利は絶対わが手にあるのだ」と書かれ、そして歌が添えられている。
 
泣くな歎くな 必ず還る
桐の小箱に錦着て
逢いに来てくれ 九段坂
 
・角川書店発行(昭和の遺書から)
 

 
陸軍特別攻撃隊第一九飛行隊
長野県出身 陸軍大尉
倉沢 和孝 命 二二歳
昭和二〇年四月一八日 沖縄・慶良間列島沖で戦死
 
我 今 壮途につかんとす
生還を期せず
今迄の不幸お許し下され度(たく)
尽忠の大義に生く
では御両親様始め
弟達の健壮を祈ります
四月六日
             出発前一筆 和孝
 
(注)この遺書は鉛筆書きで出発前に急いで書いたらしい筆跡とのこと。父・安市さんは、この遺書の「今迄の不幸お許し下され度」の箇所に「何たることだ、何が今迄に不幸な事があったか?何もないではないか」と号泣したという。和孝さんの死後「和孝を思い出すの記」という小冊子を作り、その中に一節には「出来るものなら飛んで行って抱いてやりたい。声をもう一度聞きたい。だがそれも出来ぬ。お前が出立の時の姿が目に浮かび涙が止めもない。後日、天上で語り会ふ日を待って居てくれ。ああ、何と短い一生であった事よ」と記されている。
 
・角川書店発行(昭和の遺書から)
 

 
岐阜県出身 第四三振武隊 少尉
簑島 武一 命 二一歳
昭和二〇年四月六日 知覧基地から出撃戦死
 
遺書
長らく有難うございました。
最前基地にて最后の御便りと思ひ乍ら拙筆をとって居ります
なつかしの知覧町に再びやって来ました。当地は桜花満開、春の七草咲きほこり、蝶や小鳥の楽しげなるつどひ、初夏を呈してる南国の風景
基地よ。征くものも送るのも皆命がけで活気を呈し、実に意気壮なるものがあります。
皇国の為に散り征きし若桜、涙ぐましき光景
暮れ行く基地の空を一機亦一機、明日は我の姿とは想へぬ静かなる清き光景
(中略)
では父様母様、征きます。泣かないで戦果確認して下さい。
御両親様、弟妹達よ、此の兄の心を知って下さい。
やがて暖かい春が訪れるであらう故郷の空へ忘れられぬ去り難い姿
雄々しく征く日本武士
皆様の御健闘を祈り乍ら
 四月三日
御両親様
 
・高城書房出版発行「群青 知覧特攻基地より 知覧高女なでしこ会編から」

この「英霊たちの遺書」はHPに掲載されていたものです。

英霊たちの遺書(3)

2011年12月31日 21時30分08秒 | 英霊たちの遺書
岐阜県出身 第四三振武隊 少尉
簑島 武一 命 二一歳
昭和二〇年四月六日 知覧基地から出撃戦死
 
遺書
長らく有難うございました。
最前基地にて最后の御便りと思ひ乍ら拙筆をとって居ります
なつかしの知覧町に再びやって来ました。当地は桜花満開、春の七草咲きほこり、蝶や小鳥の楽しげなるつどひ、初夏を呈してる南国の風景
基地よ。征くものも送るのも皆命がけで活気を呈し、実に意気壮なるものがあります。
皇国の為に散り征きし若桜、涙ぐましき光景
暮れ行く基地の空を一機亦一機、明日は我の姿とは想へぬ静かなる清き光景
(中略)
では父様母様、征きます。泣かないで戦果確認して下さい。
御両親様、弟妹達よ、此の兄の心を知って下さい。
やがて暖かい春が訪れるであらう故郷の空へ忘れられぬ去り難い姿
雄々しく征く日本武士
皆様の御健闘を祈り乍ら
 四月三日
御両親様
 
・高城書房出版発行「群青 知覧特攻基地より 知覧高女なでしこ会編から」
 

福島県出身 法政大学 少尉
大平 誠志 命 二三歳
昭和二〇年四月一二日 知覧基地から出撃戦死
 
遺書
 
フク子殿
フク子、長い間俺みたいな人間に良く尽くしてくれた。
俺は幸福だった。生涯こんな幸福な事はなかった。
唯々、俺は幸福だ。幸福だ。この幸福を胸に秘め敵艦
めがけ轟沈する。
今迄俺が言った事を良く守り、俊一を立派な子に育ててくれ。
俺には君は過ぎた妻だった。もったいない位な妻だった。
最後に当たり感謝する。
俺も女は君一人しか知らなかった。俺もずっと守り通した
君一人が、世界中に女の様な気がする。
君も俺の心と同じと信ずる。最後まで貞操を守ってくれ。
俺も最后まで守った。貞操は女の一番大切なもの故。
あとは俺の両親にすがりつき、良くやってくれ。
暮々も御身体大切に。
俊一は頼んだぞ。俊一はたのんだぞ。
先立つ不幸を許せ。
ではさやうなら、永久にさやうなら。
さやうなら。
 
最愛なる妻へ
 
(注)神風特別攻撃隊第二〇振武隊として出撃して戦死。妻に宛てて遺書は妻と共に幼い子への思いが切々と綴られています。幼い子の年齢までは不明ですが、大平少尉の年齢からして、まだ親の顔すら良く分からない年ではないでしょうか。

・高城書房出版発行「群青 知覧特攻基地より 知覧高女なでしこ会編から」 
 
 

 
鳥取県出身 海軍中尉
原田 嘉太男 命 二五歳
昭和二〇年二月二一日 硫黄島周辺で戦死
 
汝我に嫁して四ヶ月誠に良く仕へて呉れた
有難く礼を言ふ何も不服はない
四ヶ月にして後家となる汝が何としても可哀想なのだが
覚悟の上なれば雄々しく第一歩を踏み出すべし
言ふべき事は松山で言った通り 最後に女々しく何も言わぬ
俺も立派な軍人として死ねる
栄吉郎兄 長三郎兄には文通の暇がなかったが宜敷く頼む
泣くなみっともないぞ俺は笑って居るのに
元気で暮らせ 明日は征くぞ
 二月一九日夜
 
最愛の達子殿
 
(注)昭和二〇年二月二一日、神風特別攻撃隊第一飛行隊第二御楯隊として八丈島の基地を発進。硫黄島周辺の敵機動部隊を攻撃。一艦を撃沈して戦死。妻と両親に宛てた遺書が書かれたのは、神風特別攻撃隊として決まった二月一九日。その二日後、原田中尉は「最愛の達子」さんを、結婚してわずか四ヶ月で未亡人の身にしてしまった。なお原文ではひらがなの部分はカタカナで書かれています。

・角川書店発行(昭和の遺書から)
 

 
神奈川県出身 少尉 
荒木 春雄 命 二一歳 
昭和二〇年五月一一日戦死
 
遺書 
志げ子、元気なりや。
あれから一月経った。楽しき夢は過ぎ去って明日は敵艦に殴り込みヤンキー道連れ三途の川を渡る。
ふりかへれば、俺は随分、お前の邪険だった。
邪険にしながら、後で後悔するのが癖だ。許して御呉れ。
お前の行先、長き一生を考えると断腸の思ひがする。
どうか、心堅固に多幸にしてくれ。
俺の亡き後、俺に代って父上に尽くしてくれ。
 悠久の大義に生きて此の国を
 永らく護らん醜の敵より  春雄
志げ子殿
 
*(注)知覧特攻基地から神風特別攻撃隊五一振武隊として出撃して戦死。新婚わずか一か月の妻に宛てた遺書です。

・高城書房出版発行「群青 知覧特攻基地より 知覧高女なでしこ会編から」 
 

 
京都府出身 陸軍曹長 
田中 利一 命 二六歳
昭和十九年四月十一日 インド・アッサム州ヤイガムポクピー東北方三五二四高地で戦死
 
 
お母様
お母様、利一は生をうけて二十余年随分心配ばかりお掛けして何一つとして御恩に報いる事が出来ませんでした。本当に不幸(原文のまま)者でした。何時もこうしたら良い知って居ても出来ませんでした。それに引かへお母様は一日の如くずっと可愛がって下さいました。入隊してからも何故もっとお母様の言付を良くきき親孝行をして置かなかったと悔やまれてなりません。無事満期して帰ったらその時こそ必ず御恩に報いねばと思って居りましたが、それも出来なくなりました。どうかお許し下さい。
今もお母様の事を考へて涙が出て仕方ありません。ほんとに苦労ばかりかけて一日も気楽に暮らして貰ふ事の出来なかったのは残念ですが、今は私事は申されません。又暇を見て靖国の社頭に来て下さい。必ず会へます。
(中略)
親に先立つ罪は何卒御許下さい。一足先にお父様の傍に行っています。
(中略)
親類や近所の人々には失礼しますが宜敷くお願致します。では左様なら。お母様の御多幸をお祈りして。どうか私の最後をほめて下さい。決して泣かないで下さい。
 
・角川書店発行(昭和の遺書から)
 

 
埼玉県出身・陸軍少尉
北岡 徳之助 命  四〇歳
昭和二〇年七月五日フィリピン・ルソン島マニラで戦死
 
此の手紙は私の戦死公報の入った時に子供達に見せて下さい。
澄江、隆、博、 お父さんは祖国の隆盛を祈りて潔く死んで行きます。
 お父さんの亡き後は澄江は女学校を卒業して学校でも会社、工場で工場で好む処に就職して家計を助け弟達の面倒を見る事。隆と博は学校がすきでしたから中学校専門学校を卒業する事。隆は気分が落ちつかなくてそわそわして居るのが心配です。身体を丈夫にしてしっかり勉強して下さい 。
 隆と東京駅でわかれる時に隆がお父さんと呼んだ声は、お父さんの耳にまだ残っております。 博はお父さんの顔も知らないので一番可愛いさうです。
博と東京駅でわかれる時にお前はニコニコとハイチャチャをしておりましたが、 お父さんの目に残っております。お父さんを知らなく共決してひがんではいけません。お父さんはお前達三人の大きくなったのを遠くの方から何時でも見て居ります。
(後略)
 
昭和二〇年一月二一日
                     お父さんより
澄江、隆、博へ
 
*この遺書は航空便と船便の二通で送ったうちの一通で、この手紙を書いて半年後に戦死したと言う。遺書は娘・澄江、長男・隆、次男・博さん宛のものですが長男の隆さんは当時九歳だったと言う。

・角川書店発行(昭和の遺書から)

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「反日・韓国」「親日・台湾」の比較

2011年12月31日 09時54分59秒 | 未分類
「反日・韓国」「親日・台湾」の比較
     
1 韓国 1,000年にわたる中華への恭順。中華から搾取され続けた半島朝貢国としての規定;金、銀、牛、馬、特産品、貢女、臣官など
台湾 先住民は、マレー、ポリネシア系で、17世紀に入って中国本土から男性のみ流民として台湾(化外の地)へ渡る。
2 韓国 事大主義と属国根性(小中華を自負する)が染みついた民族性。
国民を絞るだけ絞った李朝の悪政。権力闘争と腐敗の朝鮮半島
3 台湾 1683年、清国領土となる(福建省台湾府)
1885年、清国は台湾を台湾省に昇格
4 韓国 日清戦争後、1895年「下関条約」で清国から独立
台湾 日清戦争後、1895年「下関条約」で清国から日本の領土となる。初代総督着任。日本政府は「内地の延長主義」で統治開始。
(参考)日露戦争(1904~1905年)
5 台湾 台湾近代化の基礎を築いた日本統治時代
1899年から、道路、鉄道、水道、台北の下水道、港湾などのインフラ整備を開始。その年の投資額は、日本国家予算の1/5(4,000万円)であった。
6 韓国 1904年に日韓条約(第1次)締結
1905年日本はソウルに統監府を設立
1909年10月26日、初代韓国統監である伊藤博文(初代首相)はハルビン駅で朝鮮人の安重根(あんじゅうこん)に暗殺される。
7 台湾 日本統治の10年後(1905年)、内地(日本政府)の経済援助なしの自給地となる
8 韓国 1910年、「日韓併合条約」に基づき日本となる。
朝鮮総督府を設置。日本政府は「内地の延長主義」で統治開始。 「植民地」という言葉は、戦後になって出てきたと言われている。
9 韓国 飢餓の国を近代農業国に変身させた日本の農業政策。科学的土地測量により耕作地倍増。不毛の地を開拓。農業技術と農民精神の改革
10 韓国 米穀倍増によって飢餓の国を救った
1910年・約1,000万石、1933年・1,900万石
台湾 砂糖の生産量 1900年・3万トン、1940年代・160万トン。1960年代まで台湾経済を支え続けた。
11 韓国 食料事情の向上により人口急増。 1906年・980万人、1938年・2,400万人、
12 韓国 漢語崇拝を絶ちハングルを広めた日本
13 韓国 朝鮮人からの要求で創氏改名制度(申告制度)が出来、5年間で80%以上の人が日本名を名乗った。
台湾 創氏改名制度は許可制で許可を得られたのは者は約1%前後
14 韓国 就学率 小学校 1910年・無いに等しい、1944年61%
台湾 就学率 小学校 1910年・不明、1945年92%
1919年、教育令施行(教育機関の充実)師範学校、工業高校、商業高校、農林学校などの開校
1920年烏山頭ダム着工
1918年から、インフラ整備の総仕上げ。南北縦貫道路、鉄道・交通の充実、水力発電開発
15 韓国 1924年、帝国大学令に基づき6番目の京城帝国大学を開校
台湾 1928年、帝国大学令に基づき7番目の台北帝国大学を開校
16 韓国 近代化のインフラを創出した日本の投資。山野の緑化政策、河川大事業による水田倍増(1910年・85万町歩、1928年・162万町歩)、鉄道総延長 6,632km、 道路 15,200km、港湾修築 61カ所、水道、学校、病院、電力開発、塩田開発、砂防治水、鉱物開発、電信電話設備
17 韓国 財政予算 1910年・4,600万円、1945年・31億円
日本中央政府からの補填、36年間、15~20%/年
18 韓国 日本兵3,000名の募集に25万人が殺到
台湾 1943年、日本兵1,000名の募集に40万人が殺到(第1次)
19 台湾 1942年烏山頭ダム完成(烏山嶺の隧道3078m、嘉南大ショウと呼ばれる水路の総延長16,000km)。嘉南平野が緑の大地となり、台湾最大の穀倉地帯が誕生した。
20 日本 アメリカから1941年11月26日、運命のハルノート(下記)を
叩きつけられ、大東亜戦争へ突入した。
①満州国を含む支那大陸、及び仏印から軍隊、警察の全面撤退
②大陸に於ける総ての権益の放棄
③三国同盟の廃棄
21 韓国 従軍慰安婦は業者(キーセン置屋)と一緒に戦地へ行き、一財産を作った(公娼制度により守られた)。
1947年、遊郭制度を解体させた「公娼制度廃止令」 は、単に遊郭制度を解体するためだけの法令であった。
1961年、積極的に売買春行為を防止し、廃止しようという意図を持った法律は、法律第771号として公布した「淪落行為防止法」であった。
22 韓国 韓国の「七奪」は実は「七恩」
 「七奪」とは、「主権」、「国王」、「人命」、「国語」、「姓氏」、「土地」、「資産」の事。これらの実態を見る限りにおいては、「七恩」では?
23 台湾 1943年「カイロ宣言」(米英中)。国際条約の調印はなかった。
24 韓国 1945年、終戦。
台湾 1945年、終戦。台湾、中華民国に接収される。
25 台湾 1947年「二・二八事件」勃発.。中華民国政府によって知識人など数万人が惨殺される。
26 韓国 1948年 大韓民国樹立
台湾 1949年、蒋介石は内戦に敗れ、中華民国政府は台湾へ疎開し、台北を臨時首都とすることを宣言。「二つの中国」の歴史の幕が開いた。一党独裁体制で戒厳令が施行される。大陸に成立した中華人民共和国は、台湾を領地とした。
27 韓国 朝鮮戦争(1950~53年)の勃発は、1950年アチソン国務長官(米)が「朝鮮半島はアメリカの防衛ラインの外にある」と発言したことが引き金となって、ロシアと金日成に仕掛けられた戦争であった。
28 日本 1951年「サンフランシスコ講和条約」締結。この条約では、「日本は台湾などの領有権を一方的に放棄」した。
29 台湾 1952年「日華平和条約」を締結。日本政府に対する日本統治時代の賠償は放棄した 
30 韓国 1965年「日韓基本条約」調印、日本は5億ドルを供与。
無償3億ドル、有償2億ドルの計5億ドル、(他に民間借款5億ドル)当時の韓国の外貨保有高は2億ドル以下。「漢江の奇跡」:韓国政府は1976年に「請求権資金白書」として発行。その使い道は、製鉄所、高速道路、ダム、地下鉄、干拓、学校病院、電力、通信、港湾などあらゆるインフラに投資された。
朴正煕大統領は、国土復興・高度経済成長が推進した事から、「国民を抑圧した独裁者」から「優れた政治指導者・愛国者」へと評価が変わつた。
31 台湾 1971年 中華人民共和国の国連加盟により、中華民国、国連脱退
32 台湾 1972年「日中共同声明」に際し、「日華平和条約」は終了した。1975年、インドネシアのジャングルの中で32年間任務遂行していた「中村輝夫一等兵」(高砂族出身・名:スニヨン)を発見、台湾へ帰国。「最後の皇軍兵士」(小野田少尉より後)と呼ばれた。
33 台湾 1987年 戒厳令解除される。1988年 蒋経国総統の死去にともない、副総統の李登輝(台湾人)が総統に就任。
34 台湾 1996年 李登輝、直接選挙の初の総統に就任
35 韓国 日韓国交正常化以降の40年間は民間支援で大きく発展。鉄鋼、造船、自動車、半導体、電機、食品、流通、ファッション、アニメ、出版など、日本の協力・支援はあらゆるところに見られる。
36 韓国 人口 4,614万人(at2000年)
台湾  〃 2,268万人(at2004年)。台湾出身者 85%、大陸出身者 13%
(参考)中国 〃 12~15億人(統計できていない)
37 韓国 国民1人当たりの名目GDP 12,631ドル(at2003年)
台湾    〃 12,531ドル(at2003年)
(参考)中国   〃    1,083ドル(at2003年)
38 韓国 外貨準備高 1,990億ドル(at2004年)
台湾    〃 2,417億ドル(at2004年)
39 韓国 日本からのODA 6,455億円(2003年迄の累計)
台湾    〃 621億円(2003年迄の累計)
40 台湾 各地に建った銅像
台湾近代化の父「後藤新平」。嘉南平野を誕生させた「八田與一」。台北に乗馬姿の銅像・蒋介石があるが首から下は児玉第4代総督。
41 韓国 現在、日本の韓流ブームで、いわゆる『日流』を期待する声も出ておりますが、韓国と日本がようやく向かい合うようになったのではないかと思います。
台湾 現在、台湾は空前の「日本ブーム」。親日家多数(愛日家もいる).日本のテレビドラマやアニメ、歌謡曲が絶大な人気を誇っているとのこと。日本好きの人を指す「哈日族(ハーリーズ)」などの俗語も生まれ、その影響力は非常に大きいといわれている。

近代史100年の日本:
「東アジアの植民地、500年を解放した大東亜戦争」
「本当の被害者は日本人であった」

(渡部昇一氏、谷沢永一氏、黄文雄氏、蔡コンサン氏の著書などから引用)

この資料はサイトを訪問されたHN愛知県匿名様から提供されたものです。

      この記事は「各種資料集」としてHPに掲載されていたものです。




【李登輝氏の慶応大学講演原稿】「日本人の精神」

2011年12月31日 09時23分17秒 | 未分類
   【李登輝氏の慶応大学講演原稿】「日本人の精神」
 月刊「正論」2003年2月号


 台湾前総統の李登輝氏が十二月二十四日慶応義塾大学の大学祭「三田祭」での講演を想定した原稿の全文は次の通り。原文は李登輝氏が執筆した旧漢字かな遣いの日本語だった。

 経済新人会の森本代表、三田祭幹事会の皆様、ご来賓の皆様、こんにちは! ただ今ご紹介を受けました李登輝です。

 この度、三田祭開催を前にして、金美齢女史と経済新人会の森本代表、河野先生が十月十五日にわざわざ台湾にいらっしゃいました。そして私に三田祭、経済新人会主催の講演で「日本精神」について話して貰(もら)えないかと招聘(しょうへい)状をいただきました。私はこれは難しい題目だなあと知りながら、しかし、即座によいでしょうと返答しました。これにはいろんな理由があります。

 一つは三田祭幹事会の皆さんが若き学生であり、そして日本精神について知りたいということは、日本の現状と将来について、考えに考えたあげく、この問題を私に求めたものと思います。こんな立派な若者が日本にたくさんいることを知り、すっかり私の心を打つものがありました。

 第二に私は、かつて日本の植民地・台湾で生まれ、かなり日本および日本についての教育を受け、最近はまた、新渡戸稲造氏の武士道、すなわち日本人の精神について、その解題(分析)を書き、日本精神についてかなり考える機会を与えられました。

 いま、私たちの住む人類社会は未曾有の危機に直面しています。地球規模の大戦や骨肉相食(は)む血みどろの内戦や紛争の二十世紀が終わり、平和や繁栄の時代が到来したと安堵(あんど)したのも束(つか)の間、世界ではますます不穏が続き、二〇〇一年の九月十一日にニューヨークやワシントンを多発的に襲った未曾有のテロ事件が発生しました。

 まさに、人類社会自体が危機竿頭(かんとう)の大状況に直面しているときだけに、世界有数の経済大国であり、平和主義である「日本および日本人」に対する国際社会の期待と希望は、ますます大きくなると断言せざるを得ません。
数千年にわたり積み重ねてきた「日本文化」の輝かしい歴史と伝統が、六十億人の人類全体に対する強力な指導国家としての資質と実力を明確に示しており、世界の人々から篤(あつ)い尊敬と信頼を集めているからです。


“日本精神”は絶対不可欠な精神的指針


 この指導国家の資質と実力とは何でしょう。

 これこそは日本人が最も誇りと思うべき古今東西を通じて誤らぬ普遍的価値である日本精神でしょう。人類社会がいま直面している恐るべき危機状態を乗り切っていくために、絶対必要不可欠な精神的指針なのではないでしょうか。

 しかるに、まことに残念なことに一九四五年以後の日本において、このような代え難い日本精神の特有な指導理念や道徳規範が全否定されました。日本の過去はすべて間違っていたという「自己否定」な行為へと暴走して行ったので
す。

 日本の過去には政治、教育や文化の面で誤った指導が有ったかもしれませんが、また、素晴らしい面もたくさんあったと私はいまだに信じて疑わないだけに、こんな完全な「自己否定」傾向がいまだに日本社会の根底部分に渦巻いており、事あるごとに、日本および日本人としての誇りを奪い自信を喪失させずにおかないことに心を痛めるものの一人であります。これらが、私をして三田祭講演の招聘状を即座に承諾させた理由でもあります。

 皆様に日本精神は何ぞやと、抽象論を掲げて説明するだけの実力を私は持っておりません。(司馬遼太郎の著書「台湾紀行」に“老台北”として登場する実業家の)蔡焜燦(さいこんさん)さんの書かれました「台湾人と日本精神」みたいな立派な本をもって説明することもできません。私としては日本の若い皆さんに、私が知っている具体的な人物や、その人の業績を説明し、これが日本精神の表れです、普遍的価値ですと説明した方が、皆さんにもわかりやすく、また、日本人としての誇りと偉大さを皆で習っていけると考えるものでありま
す。


台湾の水利事業に尽くした故八田與一氏


 台湾で最も愛される日本人の一人、八田與一(はったよいち)について説明しましょう。

 八田與一といっても、日本では誰もピンとこないでしょうが、台湾では嘉義台南平野十五万町歩(一町歩はおよそ一ヘクタール)の農地と六十万人の農民から神のごとく祭られ、銅像が立てられ、ご夫妻の墓が造られ、毎年の命日は農民によりお祭りが行われています。彼が作った烏山頭(うざんとう)ダムとともに永遠に台湾の人民から慕われ、その功績が称(たた)えられるでしょう。

 八田與一氏は一八八六年に石川県金沢市に生まれ、第四高等学校を経て一九一〇年に東大の土木工学科を卒業しました。卒業後まもなく台湾総督府土木局に勤め始めてから、五十六歳で亡くなるまで、ほぼ全生涯を台湾で過ごし、台湾のために尽くしました。

 一八九五年に日本の領土になったころ、台湾は人口約三百万人、社会の治安が乱れ、アヘンの風習、マラリアやコレラなどの伝染病などの原因で、きわめて近代化の遅れた土地であり、歴代三代の台湾総督は抗日ゲリラ討伐に明け暮れた時代でありました。第四代の児玉(源太郎)総督が民政長官の後藤新平氏を伴って赴任した一八九八年ごろに、台湾の日本による開発が初めて大いに発展しました。

 八田與一氏が台湾に赴任するのは、後藤新平時代が終了した一九〇六年以降のことです。後藤新平時代に台湾の近代化が大いに進んだとはいえ、以前があまりに遅れていたこともあり、八田氏が精力を傾けることになる河川水利事業や土地改革はまだまだ極めて遅れていました。

 台湾に赴任してまもなく、台北の南方、桃園台地を灌漑(かんがい)する農業水路の桃園大[土川](たいしゅう)の調査設計を行い一九一六年に着工、一九二一年に完成しましたが、灌漑面積は三万五千町歩でありました。これが今日の石門ダムの前身であります。

 この工事の途中から旧台南州嘉南大[土川]水利組合が設立され、八田氏は総督府を退職して組合に入り、十年間をその水源である烏山頭貯水池事務所長として、工事実施に携わりました。嘉南平野十五万町歩を灌漑するために、北に濁水渓幹線、南に烏山頭ダム幹線の二大幹線を築造し、曽文渓からの取水隧道(しゅすいずいどう)によってダムに一億六千万トンの貯水を行ったものであり、土堰堤(どえんてい)築造工法としてセミハイドロリックフィル(反射水式)工法が採用されました。

 この工事の完成によってほとんど不毛のこの地域十五万町歩に毎年八万三千トンの米と甘蔗(かんしゃ)=サトウキビ=その他の雑作が収穫されるようになりました。

 その時分では東洋一の灌漑土木工事として、十年の歳月と(当時のお金で)五千四百万円の予算で一九三〇年にこの事業を完成したときの八田氏はなんと、四十四歳の若さでありました。嘉南大[土川]の完成は世界の土木界に驚嘆と称賛の声を上げさせ、「嘉南大[土川]の父」として六十万の農民から畏敬(いけい)の念に満ちた言葉で称えられました。

 八田與一氏への恩を忘れないようにしたのは何でしょうか? 古川勝三氏の著作からの引用ですが、八田與一があの若さでこの偉大な仕事を通じて台湾に残したものが三つあると思います。

 ひとつは嘉南大[土川]。不毛の大地といわれた嘉南平野を台湾最大の穀倉地帯に変えた嘉南大[土川]を抜きにして八田氏は語れません。二つ目は八田氏の独創的な物事に対する考え方です。今日の日本人が持ち得なかった実行力と独創性には目を見張るものがあります。三つ目は八田氏の生き方や思想は、我らに日本的なものを教えてくれます。

 これら諸点について具体的な諸事実を並べて話しましょう。

 一、まず嘉南大[土川]の特徴についてみましょう。(1)灌漑面積は十五万町歩、水源は濁水渓系統五万二千町歩、烏山頭系九万八千町歩。灌漑方式は三年輪作給水法(2)烏山頭ダムの規模、堰堤長千二百七十三メートル、高さ五十六メートル、給水量一億五千万トン、土堰堤はセミハイドロリックフィル工法採用(3)水路の規模、給水路一万キロ、排水路六千キロ、防水護岸堤防二百二十八キロ。

 このような巨大な土木工事をわずか三十二歳で設計に取りかかり、三十四歳で現場監督として指揮をした八田氏の才能には頭が下がります。戦後の日本における近代農業用水事業の象徴である愛知用水の十倍を超える事業なんだと考えれば、うなずけるものと思います。そして烏山頭は東洋唯一の湿地式堰堤であり、アメリカ土木学会は特に「八田ダム」と命名し、学会誌上で世界に紹介したものです。

 しかし嘉南大[土川]が完成しても、それですべてが終わったというわけにはいきません。ハードウエアは完成しましたが、それを維持管理し有機的に活用するためのソフトウエアが大切です。農民はその大地を使って農作物を作り、生産力を上げなければ嘉南大[土川]は生きたものになりません。農民への技術指導が連日、組合の手によって繰り返されました。その甲斐あって三年目には成果が顕著になってきました。かくして不毛の地、嘉南平野は台湾の穀倉地帯に変貎(へんぼう)を遂げたのです。

 その成果には(1)農民が被る洪水、干魃(かんばつ)、塩害の三重苦が解消したこと(2)三年輪作給水法によって全農民の稲作技術が向上したこと(3)買い手のない不毛の大地が給水によって地価が二倍、三倍の上昇を招き、全体では九千五百四十万円もの価値を生んだ。この金額は当時の全工事費を上回る金額であった(4)農民の生活はこれによって一変し、新しい家の増築や子供の教育費に回す余裕がでてきた―ことがあげられます。

 二、次は八田氏の独創的なものの考え方を述べなければなりません。以上述べた嘉南大[土川]の巨大な工事に対して、当時として常識はずれの独創的方法が採用されました。

 その一つはセミハイドロリックフィル工法の採用です。この方法は東洋では誰もてがけたことがなく、アメリカでさえもこのような大きな規模の工事では採用されていなかった。この工法を採用したのには、それなりの理由がありました。

 まず地震です。この地帯は断層があちこちに発生しており、地震強度は六度以上もあります。この工法は粘土による中心羽金層を堰堤の中心に造り、浸透水を遮断して堰堤に決壊を防ぐアースダム方式です。この工法を遂行するには、三百万トンの大量の土砂と中心羽金層を造る微細な粘土を必要としますが、この地域ではこれを供給する場所がありました。

 この未経験の工法を採用するに当たり、徹底的な机上の研究とアメリカ視察を行いました。そして、この工法の採用と設計が間違いでない確信を持って工事にとりかかったのです。またコンクリートコアの高さと余水吐をめぐって、セミハイドロリックフィルダムの権威者ジャスチンと大論争しますが、自説を譲らず、設計どおりに構築しました。七十年経過した今日でも、堰堤は一億トン以上の水を堰(せき)とめて、八田ダムの正確性を証明しています。

 二つ目は大型土木機械の使用です。労働力のあまっている時代としては常識はずれでした。大型機械の使用については組合や当時の請負業者が反対していました。購入予算は四百万円に達し、堰堤工事と烏山頭隧道工事費の二十五%にあたります。

 八田氏の意見は、これだけの堰堤を人力で造っていては十年どころか二十年かかってもできない。工期の遅れは十五万町歩の土地が不毛の土地のまま眠ることになる。高い機械で工期が短縮できれば、それだけ早く金を生む。結果的には安い買い物になる―というものでした。この考え方は当時としては偉大な見識と英断と見なければいけないでしょう。これら大型土木機械はその後の基隆港の建設と台湾開発に非常な威力を発揮しました。

 三つ目は烏山頭職員宿舎の建設です。「よい仕事は安心して働ける環境から生まれる」という信念のもとに、職員用宿舎二百戸の住宅をはじめ、病院、学校、大浴場を造るとともに、娯楽の設備、弓道場、テニスコートといった設備まで建設しました。

 それ以外にまたソフトウエアにも気を配り、芝居一座を呼び寄せたり、映画の上映、お祭りなど、従業員だけでなく家族のことも頭に入れて町づくりをしています。工事は人間が行うのであり、その人間を大切にすることが工事も成功させるという思想が、八田氏の考えでした。

 四つ目は三年輪作給水法の導入です。十五万町歩のすべての土地に、同時に給水することは、一億五千万トンの貯水量を誇るとはいえ、烏山頭ダムと濁水渓からの取水量だけでは、物理的に不可能でした。ならば当然その給水面積を縮小せざるを得ないと考えるのが普通ですが、八田氏の考えは違っていました。土木工事の技術者はダムや水路を造りさえすれば、それで終わりであると八田氏は考えなかったのです。

 ダムや水路は農民のために造るのであれば、十五万町歩を耕す農民にあまねく水の恩恵を与え、生産が共に増え、生活の向上ができて初めて工事の成功であると考えていました。

 そのためには、十五万町歩の土地に住むすべての農民が水の恩恵を受ける必要がある。そしてそのためには、すべての土地を五十町歩ずつ区画し、百五十町歩にまとめて一区域にして、水稲(すいとう)、甘蔗、雑穀と三年輪作栽培で、水稲は給水、甘蔗は種植期だけ給水、雑穀は給水なしという形で、一年ごとに順次栽培する方法を取りました。給水路には水門がつけられ五十町歩一単位として灌漑してきたのです。


危機時代を乗り切る指針


 最後に、雄大にして独創的工事を完成させた八田與一とはどんな人だったのか、そこに焦点を当てて考えてみましょう。

 八田與一氏は技術者として抜群に優れていたばかりでなく、人間としても優れていました。肩書や人種、民族の違いによって差別しなかったのです。天性ともいえるかもしれませんが、これを育(はぐく)んだ金沢という土地、いや日本という国でなければ、かかる精神がなかったと思います。

 嘉南大[土川]の工事では十年間に百三十四人もの人が犠牲になりました。嘉南大[土川]完成後に殉工碑が建てられ、百三十四人の名前が台湾人、日本人の区別なく刻まれていました。

 関東大震災の影響で予算が大幅に削られ、従業員を退職させる必要に迫られたことがありました。その時、八田氏は幹部のいう「優秀な者を退職させると工事に支障がでるので退職させないでほしい」という言葉に対し、「大きな工事では優秀な少数の者より、平凡の多数の者が仕事をなす。優秀なものは再就職が簡単にできるが、そうでない者は失業してしまい、生活できなくなるではないか」といって優秀な者から解雇しています。

 八田氏の人間性をあらわす言葉でしょう。八田氏の部下思いや、先輩や上司を大事にすることでは、数え切れないほどエピソードがあります。

 八田氏は一九四二年三月、陸軍からの南方開発派遣要求として招聘されます。その年の五月七日、一四、〇〇〇トンの大型客船「大洋丸」に乗ってフィリピンへ向かう途中、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃に遭い、大洋丸が沈没。八田氏もこのため遭難しました。享年五十六歳でした。妻の八田外代樹(とよき)は三年後、戦争に敗れた日本人が一人残らず(台湾から)去らねばならなくなったときに、烏山頭ダムの放水口に身を投じて八田氏の後を追いました。御年四十六歳でした。

 私の畏友、司馬遼太郎氏は『台湾紀行』で、八田氏について、そのスケールの大きさをつぶさに語りつくしています。

 私は八田與一によって表現される日本精神を述べなければなりません。何が日本精神であるか。八田氏の持つ多面的な一生の事績を要約することによって明瞭(めいりょう)になります。

 第一のものは、日本を数千年の長きにわたって根幹からしっかりと支えてきたのは、そのような気高い形而(けいじ)上的価値観や道徳観だったのではないでしょうか。国家百年の大計に基づいて清貧に甘んじながら未来を背負って立つべき世代に対して、「人間いかに生きるべきか」という哲学や理念を八田氏は教えてくれたと思います。「公に奉ずる」精神こそが日本および日本人本来の精神的価値観である、といわなければなりません。

 第二は伝統と進歩という一見相反するかのように見える二つの概念を如何(いか)にアウフヘーベン(止揚)すべきかを考えてみます。現在の若者はあまりにも物資的な面に傾いているため、皮相的進歩にばかり目を奪われてしまい、その大前提となる精神的な伝統や文化の重みが見えなくなってしまうのです。

 前述した八田氏の嘉南大[土川]工事の進展過程では、絶えず伝統的なものと進歩を適当に調整しつつ工事を進めています。三年輪作灌漑を施工した例でも述べたように、新しい方法が取られても、農民を思いやる心の中には伝統的な価値観、「公議」すなわち「ソーシャル・ジャスティス」には些(いささ)かも変わるところがありません。まさに永遠の真理であり、絶対的に消え去るようなことはないものです。日本精神という本質に、この公議があればこそ国民的支柱になれるのです。

 第三は、八田氏夫妻が今でも台湾の人々によって尊敬され、大事にされる理由に、義を重んじ、まことを持って率先垂範、実践躬行(きゅうこう)する日本的精神が脈々と存在しているからです。日本精神の良さは口先だけじゃなくて実際に行う、真心をもって行うというところにこそあるのだ、ということを忘れてはなりません。

 いまや、人類社会は好むと好まざるとにかかわらず、「グローバライゼーション」の時代に突入しており、こんな大状況のなかで、ますます「私はなにものであるか?」というアイデンティティーが重要なファクターになってきます。この意味において日本精神という道徳体系はますます絶対不可欠な土台になってくると思うのです。

 そしてこのように歩いてきた皆さんの偉大な先輩、八田與一氏のような方々をもう一度思いだし、勉強し、学び、われわれの生活の中に取り入れましょう。

 これをもって今日の講演を終わらせてもらいます。ありがとうございました。

[土川]=坪の平を川に

この記事は「各種資料集」としてHPに掲載されていたものです。


【講演録】李登輝理念とはなにか

2011年12月31日 08時33分08秒 | 未分類
日本李登輝友の会 神奈川県支部設立記念講演会


 2006年2月19日


    「台湾の声」編集長 日本李登輝友の会常務理事 林 建良

 神奈川県支部の皆さん、こんにちは

 今日の私のテーマは「李登輝理念とはなにか」石川支部長のご挨拶で提起された四点、徹底的に追及する姿勢、その行動力、死を恐れず頑張る気概、優しさ。これは正に李登輝前総統の描写としてこの上のないものと思います。

 ところで、今日の私のテーマに入る前に、一つの事件を紹介したいと思います。それは我々台湾人が経験した一九四七年の二二八事件、蒋介石による台湾人の大虐殺に比べれば微々たるものですが、このことは私個人は心が引き裂かれる思いで日本の地から見守っている事件です。それは、副支部長もつい一昨日現地へ行かれた、高砂義勇隊慰霊碑の撤去事件です。皆さんも産経新聞などでご存知のことと思います。

 二月八日、李登輝前総統も出席されての、慰霊碑設立の除幕式と慰霊祭が催行されましたが、二月十七日、中国時報、台湾の中の中国人グループ最大の新聞ですが、これと連合報が一面で報道したのです。それは「これはなんだ!?日本の『日の丸』が掲げられ、慰霊碑には日本語で書かれた文章が! けしからん、撤去せよ」というものでした。これは、このこと自体に中国人の心、台湾人の心、日本人の心が顕著に現れているのではないかと思います。当時の祖国・日本のために命を落とした人間は、中国人にすれば裏切り者で、中国人の思想では、例え死んでも裏切り者は墓を暴き死者をムチ打ちするのです。この中に今の台湾・中国・日本の現状の縮図を見るような事件と思います。彼ら中国人は、台湾人の心、日本人の心も彼らの意のままにしたいのです。これが中国人のやり方なのです。

 二二八事件で多くの台湾人が中国人に殺されたが、亡くなった人間の慰霊すら許さないこのような民族・国が今、日本の教科書や靖国神社に口を出し、台湾の存在そのものを脅かしているのです。亡くなった人間の霊を慰めることすら許さない

 なぜこの話から始めたかと言うと、李登輝前総統はこの三つの民族・文化そして心を知り尽くしているからです。そこで石川支部長の提起された四点とは、切り口を変えて四点提起します。

 日本李登輝友の会の中に掲げた理念、また機関紙の名前にもなっている「日台共栄」が一つ目、二つ目は真実、三つ目は誠実、四つ目は国造りです。私の理解している李登輝前総統の理念を皆さんと考えていきたいと思います。

 日台共栄は正に李登輝前総統が日本人に会うたびに言う言葉ですが、もう一つ、必ずもう一つ言います。それは「日本に強くなってほしい」です。この言葉にはどういう意味があるか?日本をこよなく愛している、ということは事実ですが、別の意図があります。彼は二十二歳まで日本人だった、民族的には台湾人だが。要は人間の存在は法的身分、文化的身分、民族的身分により構成されます。私は法的にも、文化的にも民族的にも台湾人だが、私の二人の子供は日本で生まれました。法的・民族的には台湾人だが、文化的には日本人と同じなのです。李登輝前総統は当時一番奔放でバンカラ的な台北高校から、一番自由な京都帝国大学に進学、一年二ヶ月在学の後、十九歳で学徒出陣し、結果二十二歳まで日本人だった。つまり彼の人格形成期は全て日本だった。また彼は下宿生活で志願して便所掃除をした。中学のときに剣道初段になった。日本の文武両道の真髄に近いといえます。最近李登輝前総統は日本の文化・精神には「深み」があるとよく言います。そして、日台共栄の理念として、日本がアジアのリーダーになってしかるべき、と言います。それは日本人が勤勉だから、日本製品の品質がいいから、経済力があるから、といった理由ではなく、日本には優れたモラルがあるからこそリーダーになってしかるべきだと彼は考え、常にそういっているのです。

 李登輝前総統とは同じテーブルで食事をしたり彼のスピーチの席で司会をするだけだったのですが、今年一月十六日に亡くなった杏林大学教授の伊藤潔先生が私を李登輝さんの自宅へ黄文雄先生と一緒に連れて行ってくれました。これは二度目、最初のときは台湾まで行ったのですが、李登輝前総統が肺炎で入院してしまったため会えなかった。今回伊藤先生は人工透析をしていたりしていて体の状態はかなり悪かったようで、私が話をしているときは休んでおられました。私が李登輝前総統と話をするのは始めてではないのですが、深い話をするのは始めてでした。

 当時私は生意気で、自分の持論を伝えました。私は全てを投げ打って、全てが無になってもいいという「諦観」に近い覚悟がなければ国造りなど不可能だといいました。

 李登輝前総統はウンウンとうなづき、話終わると、こういわれました。林建良、国を思う前に死を見つめなさい、と。自分の死と直面すべき、と。彼は祖母が亡くなって初めて死を考えるようになった。一つ上の兄がフィリピンで亡くなったということが彼には大きな衝撃でした。兄は自ら殿軍を志願して、銃弾を数十発受けて亡くなった。そして私に「まず死を考えなさい。国家天下を論ずる前に、これを見つめられない人間に国を考えることはできない。そこから出発しなさい」と。

 それから、かれはまだ出版されていない「武士道解題」原稿を自ら言及しました。彼の著書は多数あるが、渾身の力作は「武士道解題」です。日本を元気づけるために書き下ろした彼の気持ちをその日に強く感じました。初めての対談は何時間に及んだか覚えていません。結論から言うと、そのとき彼が言ったこと、日本精神の原点は、彼の在任十二年中、いかんなく発揮されたのではないかと思います。

 だから、李登輝理念の第一歩は日台共栄で、日本人の素晴らしい精神、美しい心、そしてフニャフニャしている戦後世代の現象ではなく、美しさを維持しながら強靭な部分がある。世界のなかで日本人のこの部分を理解して、師として、先生として学ぼうとしているのは他でもない台湾人、台湾人にみにその姿勢があるのです。学びたい、それはそう思っている者、学ぼうとしている者、その存在を是非もう一度実現させたいのです。

 だから彼は「アジアの知略」の中に、中嶋嶺雄先生との対談の中でひとつの提案をしています。それは、日本と台湾で共同通貨を作ろう、日本が主導権を持って、と言うものです。それは当然でしょう?日本の経済力、制度管理から見れば、そしてモラルから見れば。通貨が同じであれば、当然人の往来を自由にし、いろいろな書類を共通に認め合う。結果限りなく一国に近い形になる。元々同じ国だったのだから、別々になっても本当に共同体と言えるのは、日本と中国や朝鮮では決してない、台湾なのです。一番近い台湾を見ないで、なにが東アジア共同体なのか。私はそう思います。

 二つ目は真実です。

 李登輝前総統は退任してから(二〇〇一年四月)初めて日本を訪問しました。ご存知のように、倉敷で心臓の治療を受けたり、京都や大阪に泊まりました。大阪では帝国ホテルに宿泊し、出るときに一枚の色紙を書きました、恐らく今でも帝国ホテルに飾ってあると思いますが、

 そのときの言葉が「真実自然」、李登輝理念です。私は台湾人政治家を数多く知っています、仲のいい政治家、悪い政治家もいますが、殆どの政治家は自分をできるだけ大きく見せようとする、私はこんなに偉いんだ、誰々を知っている、これだけ予算を取ってきた等々。まぁ、気持は分かりますが、ありのままの政治家は少ない。この中には李登輝前総統に会った人もいると思いますが、彼は決して飾ったりせず、えらぶることもなく、ありのまま真実を追求し、行動するのです。一個人であれば、ただ尊敬できる一つの要素ですが、政治家の理念ともなれば個人のフィロソフィーではない、トップであれば、それはドクトリンになり、天下国家に影響を与えるほどのものになります。

 真実とはどういうものか。戦後の日本は真実を見つめてきたか。台湾を中国の一部と見做している日本の姿勢は真実を見ているとはほど遠いと思います。

 戦後の日本は、ある人は私に言います、一九七二年までは国交があり、大使館もありましたよね、今は中国にとられてしまったけれど、と。私に言わせれば、本当に国交はあったのでしょうか。一九七二年以前、日本は二二八事件で台湾人、特にエリートや学生を虐殺した蒋介石を、全中国を代表しているという虚構を承認していましたが、これをもって国交があったのか、私にはその覚えはありません。では一九七二年以降はどうなったか。台湾を侵略しようとし、台湾を中国の一部という主張を理解し尊重している。言ってみれば、隣のヤクザが私の家を指して「その家はオレのものだ、そこの女(私の妻)もオレの女だ、全ての財産もオレのものだ」といい、一方の隣の日本さんはそれを理解し尊重すると。ところがその日本さんとは昔同じ家族だった。その元家族がヤクザさんの言い分を理解尊重する。これが真実といえるのか、日本人は真実から目をそらしているのか。

 私が日本へ来てから一番感心したのは、日本料理と中華料理の違いです。中華料理はいろいろいじったり腐らせたりして、殆ど原型を留めないのに対し、日本料理の特徴は、素材を活かし鮮度で勝負すべく、心をこめて出す。真実そのまま、ありのままの味をいかすのです。なのに日本は一九七二年以前は蒋介石の全中国を代表しているというウソに加担し、それ以降は台湾を侵略しようとしている中国の言い分を理解尊重している。戦後の日本は一貫して、台湾人の敵の側に立ってきたのです、かつて自分が統治していた同胞の苦しみ、苦悩を理解しようともせず、それどころか我々を敵の側に押し付けている。もっとも李登輝前総統は私のような無教養な人間ではないのでここまでは言わないが、真実自然という言葉だけ残したのです。

 三番目は誠実です。

 真実と誠実は基本的には一緒なのです。真実は客観的に存在を見つめるもの、誠実はそれに沿って行動する、自分にウソをつかないという態度、それが誠実ではないでしょうか。同じ「アジアの知略」の中の中嶋嶺雄さんとの対談の中で彼が言った言葉ですが、中国人と日本人はどこが違うのか、それは簡単です、ウソをつく民族とウソをつかない民族ですと述べている。日本人は「ウソツキ」といわれたら顔が赤くなり、昔ならば刀を抜いてしまう。本当にウソをつき、見破られたらとても恥ずかしい、死んでしまいたいぐらい。中国人は日常的にウソをついているから、「ウソツキ」といわれてもヘラヘラしているし、見破られても新たにウソをつく、それだけのことです。ところが今の日本は、自国の学生に学校の教科書で台湾は中国に領有されている、無理矢理我々をウソツキ中国の領土にするというウソを自分の子供達に教育しているのです。これが誠実な姿勢といえるでしょうか。

 李登輝さんはこの誠実という理念を、例えば李登輝学校へ行くと、口がすっぱくなるぐらい言います。また彼は教養あり品のいい人ですから、今の日本が不誠実になったとは言いません。

 私は日本で長く生活しているので、少なくとも戦後日本については李登輝さんに負けないぐらい認識を持っています。もっとも李登輝さんが生活していた戦前の日本を体験することはできなかったのですが、日本にはサムライ精神があると聞いて日本に来ました。日本にはなく台湾にある「日本精神」という言葉、日本人は言いません、台湾生まれの言葉ですが、私はそれに憧れてその本場に来ました。それをこの目で確認しようとして、今も捜していますが。それはそれほど貴重なのです。

 戦後の日本は誠実なのか?最近の日本は私が言うまでもなく、耐震偽装問題、ホリエモン現象・・・日本人の一番奥の部分、恥の文化はどこへいったのでしょう。李登輝さんは八十三歳になり、丸くなった。日本人を褒めて褒めて褒めつくすのですが。そのような、元々ある理念を何故捨ててしまったのか。それでも分からない日本人もいるから、私が解説するのです、そのような貴重な部分をなぜ捨ててしまったのか、と。

 四番目、そして一番重要なこと、国造り。

 李登輝前総統は国を造りたい。その国造りは台湾だけでなく、日本もそうなのです。戦後の日本は七年間、主権を失っていて、一九五二年のサンフランシスコ条約が発効して主権を回復しました。そこで主権を回復したなら、自分の手で憲法を作り、自分の作ったルールを守ることで初めて主権国家といえるのではないでしょうか。日本人の使っている憲法の元は人様に作ってもらっているのです、それも一週間で。

 台湾も同じです、一九四九年に台湾に逃げ込んできた蒋介石が持ち込んだ憲法なのです。この憲法の中には、中華人民共和国はある、モンゴル共和国もある、だが台湾はない。今使っているのは台湾だけ、冗談じゃない。我が家の戸籍に、他人の名前があり、私の名前だけない。このような憲法を使っている国が主権独立国家といえるでしょうか。おまけに今の名前はリパブリックオブチャイナ、シナ共和国です、シナという名前が入っている。今私の住んでいる家の表札は林建良ではなく毛沢東のなっている。これは私の家だ、と一生懸命言っても、戸籍を見ると林建良の名前はない。だから新しい戸籍を作ろうとすると、かつて祖国であった日本は「現状を変えてはいけない」と。大きなお世話だ、これを偽善といわずして何でしょう、こんな日本を尊敬できますか。

 我々は単に自分のことを自分で決めたいだけなのです、林建良の家に林建良の表札を掲げることのどこが悪いのでしょう。隣のヤクザ様が怒るからだめだ、という人を尊敬できますか?それでも我々はやります。

 ヤクザ様がいくら強大でも、いかにかつての祖国がフニャフニャになったとしても「やるんだ」というのが李登輝精神なのです。この精神についていこう、というのが日本李登輝友の会なのです。だから先ほど石川支部長が言われました、ただただ親睦、親睦はいいんですよ、やっていけないとはいいません、そのもっと深いところにある、単に李登輝さんのファンクラブではない、李登輝さんの人柄が好きというだけではない、我々が大切にしようとしているのは李登輝理念なのです。理念とは、フィロソフィー、ドクトリン、信条なのです。この国をなん
とかしたい、日本と台湾、この二つの李登輝さんの祖国、文化的祖国は日本、今生活しているのは台湾。それが李登輝理念についていく我々なのです。国造りは極めて大切なのです。

 この会は一人ひとりが李登輝理念を広げる、そして彼のモットーは実践、行動すること。いくら立派な理念でも、頭の中に大切に保存するだけでは意味がない、理念は行動が必要なのです。この行動、実践力が正に日本人の気概になるものです。


 かくすればかくなることと知りながら、やむにやまれぬ大和魂

これが李登輝理念の一番奥、真髄ではないでしょうか。
 
 本日はご静聴ありがとうございました。


この記事は「各種資料集」としてHPに掲載されていたものです。