多くの国民は民主党の無能ぶりにもはや呆れて果てているであろうが、党所属議員が街頭演説などをすれば、「詐欺師」「嘘つき」「解散しろ」などと罵声を浴びられているようで、政権を担当することは簡単ではないことが分かっであろうから、早く解散して楽になった方が良いのではなかろうか。
偏向マスコミは民主党政権が誕生する前までは、常に政権政党を批判するのが使命だと言っていた気がするが、ところが民主党政権になってからは、誕生させるために持ち上げる報道放送を繰り返したことからなのか、批判を手控えるようになり、大きく報道すべきことでも敢えて無視しているようが気がしてならない。
民主党政権が続く限り、誰が総理になろうと、日本は衰退する一方であろうし、その証左に民主党の代表に選出され総理になった鳩山、菅、野田の三氏でさえ、あの程度の頭であるからで、だから、他の民主党議員の程度はそれ以下なのは間違いない。また、ほとんどの議員は何らかの問題を抱えているようで、それも偏向マスコミの暖かい支援を受けてほとんど報道されないようである。
政権公約を守らない民主党から逃げ出す人も出始めたようで、離党届を提出した9人の名前を見ても、どんな顔をしているかも分からないが、離党した後に新党を結成したとしても、元民主党は消えないからして、国民の目が厳しく光っていることを覚悟しておいた方が良いだろう。
民主党が野党時代にやっていたことは自民党批判だけだったことが、政権与党になって分かったと言えるし、政権交代を叫びながら、もし政権を担当するとなれば、しなければならない勉強すらもしていなかったようで、大臣になった者でさえ、勉強しておらず、素人だと公言し、それを恥とも思わないのだから話にならない。
野田政権は3月までではないかとの話が出ているが、次期衆院選で、民主党が全滅しないためには一日でも早く退陣した方が良いし、ポスト野田もありえない。政権のたらい回しなどもってのほかである。おそらく民主党は次期衆院選で勝てないであろうが、だからと言って与党の内に売国法案を強引に成立させようとするなど愚かなことはするなと言いたい。
(2011/12/31)
近代史100年の日本:
「東アジアの植民地、500年を解放した大東亜戦争」
「本当の被害者は日本人であった」
(渡部昇一氏、谷沢永一氏、黄文雄氏、蔡コンサン氏の著書などから引用)
この資料はサイトを訪問されたHN愛知県匿名様から提供されたものです。
この記事は「各種資料集」としてHPに掲載されていたものです。
台湾前総統の李登輝氏が十二月二十四日慶応義塾大学の大学祭「三田祭」での講演を想定した原稿の全文は次の通り。原文は李登輝氏が執筆した旧漢字かな遣いの日本語だった。
経済新人会の森本代表、三田祭幹事会の皆様、ご来賓の皆様、こんにちは! ただ今ご紹介を受けました李登輝です。
この度、三田祭開催を前にして、金美齢女史と経済新人会の森本代表、河野先生が十月十五日にわざわざ台湾にいらっしゃいました。そして私に三田祭、経済新人会主催の講演で「日本精神」について話して貰(もら)えないかと招聘(しょうへい)状をいただきました。私はこれは難しい題目だなあと知りながら、しかし、即座によいでしょうと返答しました。これにはいろんな理由があります。
一つは三田祭幹事会の皆さんが若き学生であり、そして日本精神について知りたいということは、日本の現状と将来について、考えに考えたあげく、この問題を私に求めたものと思います。こんな立派な若者が日本にたくさんいることを知り、すっかり私の心を打つものがありました。
第二に私は、かつて日本の植民地・台湾で生まれ、かなり日本および日本についての教育を受け、最近はまた、新渡戸稲造氏の武士道、すなわち日本人の精神について、その解題(分析)を書き、日本精神についてかなり考える機会を与えられました。
いま、私たちの住む人類社会は未曾有の危機に直面しています。地球規模の大戦や骨肉相食(は)む血みどろの内戦や紛争の二十世紀が終わり、平和や繁栄の時代が到来したと安堵(あんど)したのも束(つか)の間、世界ではますます不穏が続き、二〇〇一年の九月十一日にニューヨークやワシントンを多発的に襲った未曾有のテロ事件が発生しました。
まさに、人類社会自体が危機竿頭(かんとう)の大状況に直面しているときだけに、世界有数の経済大国であり、平和主義である「日本および日本人」に対する国際社会の期待と希望は、ますます大きくなると断言せざるを得ません。
数千年にわたり積み重ねてきた「日本文化」の輝かしい歴史と伝統が、六十億人の人類全体に対する強力な指導国家としての資質と実力を明確に示しており、世界の人々から篤(あつ)い尊敬と信頼を集めているからです。
“日本精神”は絶対不可欠な精神的指針
この指導国家の資質と実力とは何でしょう。
これこそは日本人が最も誇りと思うべき古今東西を通じて誤らぬ普遍的価値である日本精神でしょう。人類社会がいま直面している恐るべき危機状態を乗り切っていくために、絶対必要不可欠な精神的指針なのではないでしょうか。
しかるに、まことに残念なことに一九四五年以後の日本において、このような代え難い日本精神の特有な指導理念や道徳規範が全否定されました。日本の過去はすべて間違っていたという「自己否定」な行為へと暴走して行ったので
す。
日本の過去には政治、教育や文化の面で誤った指導が有ったかもしれませんが、また、素晴らしい面もたくさんあったと私はいまだに信じて疑わないだけに、こんな完全な「自己否定」傾向がいまだに日本社会の根底部分に渦巻いており、事あるごとに、日本および日本人としての誇りを奪い自信を喪失させずにおかないことに心を痛めるものの一人であります。これらが、私をして三田祭講演の招聘状を即座に承諾させた理由でもあります。
皆様に日本精神は何ぞやと、抽象論を掲げて説明するだけの実力を私は持っておりません。(司馬遼太郎の著書「台湾紀行」に“老台北”として登場する実業家の)蔡焜燦(さいこんさん)さんの書かれました「台湾人と日本精神」みたいな立派な本をもって説明することもできません。私としては日本の若い皆さんに、私が知っている具体的な人物や、その人の業績を説明し、これが日本精神の表れです、普遍的価値ですと説明した方が、皆さんにもわかりやすく、また、日本人としての誇りと偉大さを皆で習っていけると考えるものでありま
す。
台湾の水利事業に尽くした故八田與一氏
台湾で最も愛される日本人の一人、八田與一(はったよいち)について説明しましょう。
八田與一といっても、日本では誰もピンとこないでしょうが、台湾では嘉義台南平野十五万町歩(一町歩はおよそ一ヘクタール)の農地と六十万人の農民から神のごとく祭られ、銅像が立てられ、ご夫妻の墓が造られ、毎年の命日は農民によりお祭りが行われています。彼が作った烏山頭(うざんとう)ダムとともに永遠に台湾の人民から慕われ、その功績が称(たた)えられるでしょう。
八田與一氏は一八八六年に石川県金沢市に生まれ、第四高等学校を経て一九一〇年に東大の土木工学科を卒業しました。卒業後まもなく台湾総督府土木局に勤め始めてから、五十六歳で亡くなるまで、ほぼ全生涯を台湾で過ごし、台湾のために尽くしました。
一八九五年に日本の領土になったころ、台湾は人口約三百万人、社会の治安が乱れ、アヘンの風習、マラリアやコレラなどの伝染病などの原因で、きわめて近代化の遅れた土地であり、歴代三代の台湾総督は抗日ゲリラ討伐に明け暮れた時代でありました。第四代の児玉(源太郎)総督が民政長官の後藤新平氏を伴って赴任した一八九八年ごろに、台湾の日本による開発が初めて大いに発展しました。
八田與一氏が台湾に赴任するのは、後藤新平時代が終了した一九〇六年以降のことです。後藤新平時代に台湾の近代化が大いに進んだとはいえ、以前があまりに遅れていたこともあり、八田氏が精力を傾けることになる河川水利事業や土地改革はまだまだ極めて遅れていました。
台湾に赴任してまもなく、台北の南方、桃園台地を灌漑(かんがい)する農業水路の桃園大[土川](たいしゅう)の調査設計を行い一九一六年に着工、一九二一年に完成しましたが、灌漑面積は三万五千町歩でありました。これが今日の石門ダムの前身であります。
この工事の途中から旧台南州嘉南大[土川]水利組合が設立され、八田氏は総督府を退職して組合に入り、十年間をその水源である烏山頭貯水池事務所長として、工事実施に携わりました。嘉南平野十五万町歩を灌漑するために、北に濁水渓幹線、南に烏山頭ダム幹線の二大幹線を築造し、曽文渓からの取水隧道(しゅすいずいどう)によってダムに一億六千万トンの貯水を行ったものであり、土堰堤(どえんてい)築造工法としてセミハイドロリックフィル(反射水式)工法が採用されました。
この工事の完成によってほとんど不毛のこの地域十五万町歩に毎年八万三千トンの米と甘蔗(かんしゃ)=サトウキビ=その他の雑作が収穫されるようになりました。
その時分では東洋一の灌漑土木工事として、十年の歳月と(当時のお金で)五千四百万円の予算で一九三〇年にこの事業を完成したときの八田氏はなんと、四十四歳の若さでありました。嘉南大[土川]の完成は世界の土木界に驚嘆と称賛の声を上げさせ、「嘉南大[土川]の父」として六十万の農民から畏敬(いけい)の念に満ちた言葉で称えられました。
八田與一氏への恩を忘れないようにしたのは何でしょうか? 古川勝三氏の著作からの引用ですが、八田與一があの若さでこの偉大な仕事を通じて台湾に残したものが三つあると思います。
ひとつは嘉南大[土川]。不毛の大地といわれた嘉南平野を台湾最大の穀倉地帯に変えた嘉南大[土川]を抜きにして八田氏は語れません。二つ目は八田氏の独創的な物事に対する考え方です。今日の日本人が持ち得なかった実行力と独創性には目を見張るものがあります。三つ目は八田氏の生き方や思想は、我らに日本的なものを教えてくれます。
これら諸点について具体的な諸事実を並べて話しましょう。
一、まず嘉南大[土川]の特徴についてみましょう。(1)灌漑面積は十五万町歩、水源は濁水渓系統五万二千町歩、烏山頭系九万八千町歩。灌漑方式は三年輪作給水法(2)烏山頭ダムの規模、堰堤長千二百七十三メートル、高さ五十六メートル、給水量一億五千万トン、土堰堤はセミハイドロリックフィル工法採用(3)水路の規模、給水路一万キロ、排水路六千キロ、防水護岸堤防二百二十八キロ。
このような巨大な土木工事をわずか三十二歳で設計に取りかかり、三十四歳で現場監督として指揮をした八田氏の才能には頭が下がります。戦後の日本における近代農業用水事業の象徴である愛知用水の十倍を超える事業なんだと考えれば、うなずけるものと思います。そして烏山頭は東洋唯一の湿地式堰堤であり、アメリカ土木学会は特に「八田ダム」と命名し、学会誌上で世界に紹介したものです。
しかし嘉南大[土川]が完成しても、それですべてが終わったというわけにはいきません。ハードウエアは完成しましたが、それを維持管理し有機的に活用するためのソフトウエアが大切です。農民はその大地を使って農作物を作り、生産力を上げなければ嘉南大[土川]は生きたものになりません。農民への技術指導が連日、組合の手によって繰り返されました。その甲斐あって三年目には成果が顕著になってきました。かくして不毛の地、嘉南平野は台湾の穀倉地帯に変貎(へんぼう)を遂げたのです。
その成果には(1)農民が被る洪水、干魃(かんばつ)、塩害の三重苦が解消したこと(2)三年輪作給水法によって全農民の稲作技術が向上したこと(3)買い手のない不毛の大地が給水によって地価が二倍、三倍の上昇を招き、全体では九千五百四十万円もの価値を生んだ。この金額は当時の全工事費を上回る金額であった(4)農民の生活はこれによって一変し、新しい家の増築や子供の教育費に回す余裕がでてきた―ことがあげられます。
二、次は八田氏の独創的なものの考え方を述べなければなりません。以上述べた嘉南大[土川]の巨大な工事に対して、当時として常識はずれの独創的方法が採用されました。
その一つはセミハイドロリックフィル工法の採用です。この方法は東洋では誰もてがけたことがなく、アメリカでさえもこのような大きな規模の工事では採用されていなかった。この工法を採用したのには、それなりの理由がありました。
まず地震です。この地帯は断層があちこちに発生しており、地震強度は六度以上もあります。この工法は粘土による中心羽金層を堰堤の中心に造り、浸透水を遮断して堰堤に決壊を防ぐアースダム方式です。この工法を遂行するには、三百万トンの大量の土砂と中心羽金層を造る微細な粘土を必要としますが、この地域ではこれを供給する場所がありました。
この未経験の工法を採用するに当たり、徹底的な机上の研究とアメリカ視察を行いました。そして、この工法の採用と設計が間違いでない確信を持って工事にとりかかったのです。またコンクリートコアの高さと余水吐をめぐって、セミハイドロリックフィルダムの権威者ジャスチンと大論争しますが、自説を譲らず、設計どおりに構築しました。七十年経過した今日でも、堰堤は一億トン以上の水を堰(せき)とめて、八田ダムの正確性を証明しています。
二つ目は大型土木機械の使用です。労働力のあまっている時代としては常識はずれでした。大型機械の使用については組合や当時の請負業者が反対していました。購入予算は四百万円に達し、堰堤工事と烏山頭隧道工事費の二十五%にあたります。
八田氏の意見は、これだけの堰堤を人力で造っていては十年どころか二十年かかってもできない。工期の遅れは十五万町歩の土地が不毛の土地のまま眠ることになる。高い機械で工期が短縮できれば、それだけ早く金を生む。結果的には安い買い物になる―というものでした。この考え方は当時としては偉大な見識と英断と見なければいけないでしょう。これら大型土木機械はその後の基隆港の建設と台湾開発に非常な威力を発揮しました。
三つ目は烏山頭職員宿舎の建設です。「よい仕事は安心して働ける環境から生まれる」という信念のもとに、職員用宿舎二百戸の住宅をはじめ、病院、学校、大浴場を造るとともに、娯楽の設備、弓道場、テニスコートといった設備まで建設しました。
それ以外にまたソフトウエアにも気を配り、芝居一座を呼び寄せたり、映画の上映、お祭りなど、従業員だけでなく家族のことも頭に入れて町づくりをしています。工事は人間が行うのであり、その人間を大切にすることが工事も成功させるという思想が、八田氏の考えでした。
四つ目は三年輪作給水法の導入です。十五万町歩のすべての土地に、同時に給水することは、一億五千万トンの貯水量を誇るとはいえ、烏山頭ダムと濁水渓からの取水量だけでは、物理的に不可能でした。ならば当然その給水面積を縮小せざるを得ないと考えるのが普通ですが、八田氏の考えは違っていました。土木工事の技術者はダムや水路を造りさえすれば、それで終わりであると八田氏は考えなかったのです。
ダムや水路は農民のために造るのであれば、十五万町歩を耕す農民にあまねく水の恩恵を与え、生産が共に増え、生活の向上ができて初めて工事の成功であると考えていました。
そのためには、十五万町歩の土地に住むすべての農民が水の恩恵を受ける必要がある。そしてそのためには、すべての土地を五十町歩ずつ区画し、百五十町歩にまとめて一区域にして、水稲(すいとう)、甘蔗、雑穀と三年輪作栽培で、水稲は給水、甘蔗は種植期だけ給水、雑穀は給水なしという形で、一年ごとに順次栽培する方法を取りました。給水路には水門がつけられ五十町歩一単位として灌漑してきたのです。
危機時代を乗り切る指針
最後に、雄大にして独創的工事を完成させた八田與一とはどんな人だったのか、そこに焦点を当てて考えてみましょう。
八田與一氏は技術者として抜群に優れていたばかりでなく、人間としても優れていました。肩書や人種、民族の違いによって差別しなかったのです。天性ともいえるかもしれませんが、これを育(はぐく)んだ金沢という土地、いや日本という国でなければ、かかる精神がなかったと思います。
嘉南大[土川]の工事では十年間に百三十四人もの人が犠牲になりました。嘉南大[土川]完成後に殉工碑が建てられ、百三十四人の名前が台湾人、日本人の区別なく刻まれていました。
関東大震災の影響で予算が大幅に削られ、従業員を退職させる必要に迫られたことがありました。その時、八田氏は幹部のいう「優秀な者を退職させると工事に支障がでるので退職させないでほしい」という言葉に対し、「大きな工事では優秀な少数の者より、平凡の多数の者が仕事をなす。優秀なものは再就職が簡単にできるが、そうでない者は失業してしまい、生活できなくなるではないか」といって優秀な者から解雇しています。
八田氏の人間性をあらわす言葉でしょう。八田氏の部下思いや、先輩や上司を大事にすることでは、数え切れないほどエピソードがあります。
八田氏は一九四二年三月、陸軍からの南方開発派遣要求として招聘されます。その年の五月七日、一四、〇〇〇トンの大型客船「大洋丸」に乗ってフィリピンへ向かう途中、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃に遭い、大洋丸が沈没。八田氏もこのため遭難しました。享年五十六歳でした。妻の八田外代樹(とよき)は三年後、戦争に敗れた日本人が一人残らず(台湾から)去らねばならなくなったときに、烏山頭ダムの放水口に身を投じて八田氏の後を追いました。御年四十六歳でした。
私の畏友、司馬遼太郎氏は『台湾紀行』で、八田氏について、そのスケールの大きさをつぶさに語りつくしています。
私は八田與一によって表現される日本精神を述べなければなりません。何が日本精神であるか。八田氏の持つ多面的な一生の事績を要約することによって明瞭(めいりょう)になります。
第一のものは、日本を数千年の長きにわたって根幹からしっかりと支えてきたのは、そのような気高い形而(けいじ)上的価値観や道徳観だったのではないでしょうか。国家百年の大計に基づいて清貧に甘んじながら未来を背負って立つべき世代に対して、「人間いかに生きるべきか」という哲学や理念を八田氏は教えてくれたと思います。「公に奉ずる」精神こそが日本および日本人本来の精神的価値観である、といわなければなりません。
第二は伝統と進歩という一見相反するかのように見える二つの概念を如何(いか)にアウフヘーベン(止揚)すべきかを考えてみます。現在の若者はあまりにも物資的な面に傾いているため、皮相的進歩にばかり目を奪われてしまい、その大前提となる精神的な伝統や文化の重みが見えなくなってしまうのです。
前述した八田氏の嘉南大[土川]工事の進展過程では、絶えず伝統的なものと進歩を適当に調整しつつ工事を進めています。三年輪作灌漑を施工した例でも述べたように、新しい方法が取られても、農民を思いやる心の中には伝統的な価値観、「公議」すなわち「ソーシャル・ジャスティス」には些(いささ)かも変わるところがありません。まさに永遠の真理であり、絶対的に消え去るようなことはないものです。日本精神という本質に、この公議があればこそ国民的支柱になれるのです。
第三は、八田氏夫妻が今でも台湾の人々によって尊敬され、大事にされる理由に、義を重んじ、まことを持って率先垂範、実践躬行(きゅうこう)する日本的精神が脈々と存在しているからです。日本精神の良さは口先だけじゃなくて実際に行う、真心をもって行うというところにこそあるのだ、ということを忘れてはなりません。
いまや、人類社会は好むと好まざるとにかかわらず、「グローバライゼーション」の時代に突入しており、こんな大状況のなかで、ますます「私はなにものであるか?」というアイデンティティーが重要なファクターになってきます。この意味において日本精神という道徳体系はますます絶対不可欠な土台になってくると思うのです。
そしてこのように歩いてきた皆さんの偉大な先輩、八田與一氏のような方々をもう一度思いだし、勉強し、学び、われわれの生活の中に取り入れましょう。
これをもって今日の講演を終わらせてもらいます。ありがとうございました。
[土川]=坪の平を川に
この記事は「各種資料集」としてHPに掲載されていたものです。
2006年2月19日
「台湾の声」編集長 日本李登輝友の会常務理事 林 建良
神奈川県支部の皆さん、こんにちは
今日の私のテーマは「李登輝理念とはなにか」石川支部長のご挨拶で提起された四点、徹底的に追及する姿勢、その行動力、死を恐れず頑張る気概、優しさ。これは正に李登輝前総統の描写としてこの上のないものと思います。
ところで、今日の私のテーマに入る前に、一つの事件を紹介したいと思います。それは我々台湾人が経験した一九四七年の二二八事件、蒋介石による台湾人の大虐殺に比べれば微々たるものですが、このことは私個人は心が引き裂かれる思いで日本の地から見守っている事件です。それは、副支部長もつい一昨日現地へ行かれた、高砂義勇隊慰霊碑の撤去事件です。皆さんも産経新聞などでご存知のことと思います。
二月八日、李登輝前総統も出席されての、慰霊碑設立の除幕式と慰霊祭が催行されましたが、二月十七日、中国時報、台湾の中の中国人グループ最大の新聞ですが、これと連合報が一面で報道したのです。それは「これはなんだ!?日本の『日の丸』が掲げられ、慰霊碑には日本語で書かれた文章が! けしからん、撤去せよ」というものでした。これは、このこと自体に中国人の心、台湾人の心、日本人の心が顕著に現れているのではないかと思います。当時の祖国・日本のために命を落とした人間は、中国人にすれば裏切り者で、中国人の思想では、例え死んでも裏切り者は墓を暴き死者をムチ打ちするのです。この中に今の台湾・中国・日本の現状の縮図を見るような事件と思います。彼ら中国人は、台湾人の心、日本人の心も彼らの意のままにしたいのです。これが中国人のやり方なのです。
二二八事件で多くの台湾人が中国人に殺されたが、亡くなった人間の慰霊すら許さないこのような民族・国が今、日本の教科書や靖国神社に口を出し、台湾の存在そのものを脅かしているのです。亡くなった人間の霊を慰めることすら許さない
なぜこの話から始めたかと言うと、李登輝前総統はこの三つの民族・文化そして心を知り尽くしているからです。そこで石川支部長の提起された四点とは、切り口を変えて四点提起します。
日本李登輝友の会の中に掲げた理念、また機関紙の名前にもなっている「日台共栄」が一つ目、二つ目は真実、三つ目は誠実、四つ目は国造りです。私の理解している李登輝前総統の理念を皆さんと考えていきたいと思います。
日台共栄は正に李登輝前総統が日本人に会うたびに言う言葉ですが、もう一つ、必ずもう一つ言います。それは「日本に強くなってほしい」です。この言葉にはどういう意味があるか?日本をこよなく愛している、ということは事実ですが、別の意図があります。彼は二十二歳まで日本人だった、民族的には台湾人だが。要は人間の存在は法的身分、文化的身分、民族的身分により構成されます。私は法的にも、文化的にも民族的にも台湾人だが、私の二人の子供は日本で生まれました。法的・民族的には台湾人だが、文化的には日本人と同じなのです。李登輝前総統は当時一番奔放でバンカラ的な台北高校から、一番自由な京都帝国大学に進学、一年二ヶ月在学の後、十九歳で学徒出陣し、結果二十二歳まで日本人だった。つまり彼の人格形成期は全て日本だった。また彼は下宿生活で志願して便所掃除をした。中学のときに剣道初段になった。日本の文武両道の真髄に近いといえます。最近李登輝前総統は日本の文化・精神には「深み」があるとよく言います。そして、日台共栄の理念として、日本がアジアのリーダーになってしかるべき、と言います。それは日本人が勤勉だから、日本製品の品質がいいから、経済力があるから、といった理由ではなく、日本には優れたモラルがあるからこそリーダーになってしかるべきだと彼は考え、常にそういっているのです。
李登輝前総統とは同じテーブルで食事をしたり彼のスピーチの席で司会をするだけだったのですが、今年一月十六日に亡くなった杏林大学教授の伊藤潔先生が私を李登輝さんの自宅へ黄文雄先生と一緒に連れて行ってくれました。これは二度目、最初のときは台湾まで行ったのですが、李登輝前総統が肺炎で入院してしまったため会えなかった。今回伊藤先生は人工透析をしていたりしていて体の状態はかなり悪かったようで、私が話をしているときは休んでおられました。私が李登輝前総統と話をするのは始めてではないのですが、深い話をするのは始めてでした。
当時私は生意気で、自分の持論を伝えました。私は全てを投げ打って、全てが無になってもいいという「諦観」に近い覚悟がなければ国造りなど不可能だといいました。
李登輝前総統はウンウンとうなづき、話終わると、こういわれました。林建良、国を思う前に死を見つめなさい、と。自分の死と直面すべき、と。彼は祖母が亡くなって初めて死を考えるようになった。一つ上の兄がフィリピンで亡くなったということが彼には大きな衝撃でした。兄は自ら殿軍を志願して、銃弾を数十発受けて亡くなった。そして私に「まず死を考えなさい。国家天下を論ずる前に、これを見つめられない人間に国を考えることはできない。そこから出発しなさい」と。
それから、かれはまだ出版されていない「武士道解題」原稿を自ら言及しました。彼の著書は多数あるが、渾身の力作は「武士道解題」です。日本を元気づけるために書き下ろした彼の気持ちをその日に強く感じました。初めての対談は何時間に及んだか覚えていません。結論から言うと、そのとき彼が言ったこと、日本精神の原点は、彼の在任十二年中、いかんなく発揮されたのではないかと思います。
だから、李登輝理念の第一歩は日台共栄で、日本人の素晴らしい精神、美しい心、そしてフニャフニャしている戦後世代の現象ではなく、美しさを維持しながら強靭な部分がある。世界のなかで日本人のこの部分を理解して、師として、先生として学ぼうとしているのは他でもない台湾人、台湾人にみにその姿勢があるのです。学びたい、それはそう思っている者、学ぼうとしている者、その存在を是非もう一度実現させたいのです。
だから彼は「アジアの知略」の中に、中嶋嶺雄先生との対談の中でひとつの提案をしています。それは、日本と台湾で共同通貨を作ろう、日本が主導権を持って、と言うものです。それは当然でしょう?日本の経済力、制度管理から見れば、そしてモラルから見れば。通貨が同じであれば、当然人の往来を自由にし、いろいろな書類を共通に認め合う。結果限りなく一国に近い形になる。元々同じ国だったのだから、別々になっても本当に共同体と言えるのは、日本と中国や朝鮮では決してない、台湾なのです。一番近い台湾を見ないで、なにが東アジア共同体なのか。私はそう思います。
二つ目は真実です。
李登輝前総統は退任してから(二〇〇一年四月)初めて日本を訪問しました。ご存知のように、倉敷で心臓の治療を受けたり、京都や大阪に泊まりました。大阪では帝国ホテルに宿泊し、出るときに一枚の色紙を書きました、恐らく今でも帝国ホテルに飾ってあると思いますが、
そのときの言葉が「真実自然」、李登輝理念です。私は台湾人政治家を数多く知っています、仲のいい政治家、悪い政治家もいますが、殆どの政治家は自分をできるだけ大きく見せようとする、私はこんなに偉いんだ、誰々を知っている、これだけ予算を取ってきた等々。まぁ、気持は分かりますが、ありのままの政治家は少ない。この中には李登輝前総統に会った人もいると思いますが、彼は決して飾ったりせず、えらぶることもなく、ありのまま真実を追求し、行動するのです。一個人であれば、ただ尊敬できる一つの要素ですが、政治家の理念ともなれば個人のフィロソフィーではない、トップであれば、それはドクトリンになり、天下国家に影響を与えるほどのものになります。
真実とはどういうものか。戦後の日本は真実を見つめてきたか。台湾を中国の一部と見做している日本の姿勢は真実を見ているとはほど遠いと思います。
戦後の日本は、ある人は私に言います、一九七二年までは国交があり、大使館もありましたよね、今は中国にとられてしまったけれど、と。私に言わせれば、本当に国交はあったのでしょうか。一九七二年以前、日本は二二八事件で台湾人、特にエリートや学生を虐殺した蒋介石を、全中国を代表しているという虚構を承認していましたが、これをもって国交があったのか、私にはその覚えはありません。では一九七二年以降はどうなったか。台湾を侵略しようとし、台湾を中国の一部という主張を理解し尊重している。言ってみれば、隣のヤクザが私の家を指して「その家はオレのものだ、そこの女(私の妻)もオレの女だ、全ての財産もオレのものだ」といい、一方の隣の日本さんはそれを理解し尊重すると。ところがその日本さんとは昔同じ家族だった。その元家族がヤクザさんの言い分を理解尊重する。これが真実といえるのか、日本人は真実から目をそらしているのか。
私が日本へ来てから一番感心したのは、日本料理と中華料理の違いです。中華料理はいろいろいじったり腐らせたりして、殆ど原型を留めないのに対し、日本料理の特徴は、素材を活かし鮮度で勝負すべく、心をこめて出す。真実そのまま、ありのままの味をいかすのです。なのに日本は一九七二年以前は蒋介石の全中国を代表しているというウソに加担し、それ以降は台湾を侵略しようとしている中国の言い分を理解尊重している。戦後の日本は一貫して、台湾人の敵の側に立ってきたのです、かつて自分が統治していた同胞の苦しみ、苦悩を理解しようともせず、それどころか我々を敵の側に押し付けている。もっとも李登輝前総統は私のような無教養な人間ではないのでここまでは言わないが、真実自然という言葉だけ残したのです。
三番目は誠実です。
真実と誠実は基本的には一緒なのです。真実は客観的に存在を見つめるもの、誠実はそれに沿って行動する、自分にウソをつかないという態度、それが誠実ではないでしょうか。同じ「アジアの知略」の中の中嶋嶺雄さんとの対談の中で彼が言った言葉ですが、中国人と日本人はどこが違うのか、それは簡単です、ウソをつく民族とウソをつかない民族ですと述べている。日本人は「ウソツキ」といわれたら顔が赤くなり、昔ならば刀を抜いてしまう。本当にウソをつき、見破られたらとても恥ずかしい、死んでしまいたいぐらい。中国人は日常的にウソをついているから、「ウソツキ」といわれてもヘラヘラしているし、見破られても新たにウソをつく、それだけのことです。ところが今の日本は、自国の学生に学校の教科書で台湾は中国に領有されている、無理矢理我々をウソツキ中国の領土にするというウソを自分の子供達に教育しているのです。これが誠実な姿勢といえるでしょうか。
李登輝さんはこの誠実という理念を、例えば李登輝学校へ行くと、口がすっぱくなるぐらい言います。また彼は教養あり品のいい人ですから、今の日本が不誠実になったとは言いません。
私は日本で長く生活しているので、少なくとも戦後日本については李登輝さんに負けないぐらい認識を持っています。もっとも李登輝さんが生活していた戦前の日本を体験することはできなかったのですが、日本にはサムライ精神があると聞いて日本に来ました。日本にはなく台湾にある「日本精神」という言葉、日本人は言いません、台湾生まれの言葉ですが、私はそれに憧れてその本場に来ました。それをこの目で確認しようとして、今も捜していますが。それはそれほど貴重なのです。
戦後の日本は誠実なのか?最近の日本は私が言うまでもなく、耐震偽装問題、ホリエモン現象・・・日本人の一番奥の部分、恥の文化はどこへいったのでしょう。李登輝さんは八十三歳になり、丸くなった。日本人を褒めて褒めて褒めつくすのですが。そのような、元々ある理念を何故捨ててしまったのか。それでも分からない日本人もいるから、私が解説するのです、そのような貴重な部分をなぜ捨ててしまったのか、と。
四番目、そして一番重要なこと、国造り。
李登輝前総統は国を造りたい。その国造りは台湾だけでなく、日本もそうなのです。戦後の日本は七年間、主権を失っていて、一九五二年のサンフランシスコ条約が発効して主権を回復しました。そこで主権を回復したなら、自分の手で憲法を作り、自分の作ったルールを守ることで初めて主権国家といえるのではないでしょうか。日本人の使っている憲法の元は人様に作ってもらっているのです、それも一週間で。
台湾も同じです、一九四九年に台湾に逃げ込んできた蒋介石が持ち込んだ憲法なのです。この憲法の中には、中華人民共和国はある、モンゴル共和国もある、だが台湾はない。今使っているのは台湾だけ、冗談じゃない。我が家の戸籍に、他人の名前があり、私の名前だけない。このような憲法を使っている国が主権独立国家といえるでしょうか。おまけに今の名前はリパブリックオブチャイナ、シナ共和国です、シナという名前が入っている。今私の住んでいる家の表札は林建良ではなく毛沢東のなっている。これは私の家だ、と一生懸命言っても、戸籍を見ると林建良の名前はない。だから新しい戸籍を作ろうとすると、かつて祖国であった日本は「現状を変えてはいけない」と。大きなお世話だ、これを偽善といわずして何でしょう、こんな日本を尊敬できますか。
我々は単に自分のことを自分で決めたいだけなのです、林建良の家に林建良の表札を掲げることのどこが悪いのでしょう。隣のヤクザ様が怒るからだめだ、という人を尊敬できますか?それでも我々はやります。
ヤクザ様がいくら強大でも、いかにかつての祖国がフニャフニャになったとしても「やるんだ」というのが李登輝精神なのです。この精神についていこう、というのが日本李登輝友の会なのです。だから先ほど石川支部長が言われました、ただただ親睦、親睦はいいんですよ、やっていけないとはいいません、そのもっと深いところにある、単に李登輝さんのファンクラブではない、李登輝さんの人柄が好きというだけではない、我々が大切にしようとしているのは李登輝理念なのです。理念とは、フィロソフィー、ドクトリン、信条なのです。この国をなん
とかしたい、日本と台湾、この二つの李登輝さんの祖国、文化的祖国は日本、今生活しているのは台湾。それが李登輝理念についていく我々なのです。国造りは極めて大切なのです。
この会は一人ひとりが李登輝理念を広げる、そして彼のモットーは実践、行動すること。いくら立派な理念でも、頭の中に大切に保存するだけでは意味がない、理念は行動が必要なのです。この行動、実践力が正に日本人の気概になるものです。
かくすればかくなることと知りながら、やむにやまれぬ大和魂
これが李登輝理念の一番奥、真髄ではないでしょうか。
本日はご静聴ありがとうございました。
この記事は「各種資料集」としてHPに掲載されていたものです。