言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「絶対的相対者」を保守するために

2016年12月12日 09時01分01秒 | 日記

 先日、ある人と話をしてゐて、天皇の退位についてどう思ふかと訊かれた。

 私は、天皇の天皇たるゆゑんは血統であり、ご巡幸やご接見にあるのではなく、存命中は天皇であるべきといふことを述べた。その人は、天皇であるかどうかは自分が決めることであつて、下々が決めることではない。「もう疲れたんだから、やめさせてくれ」といふのが今回の件の本質ではないかと述べてゐた。

 なるほど、とその時は思つた。近代の制度以前から天皇は存在するのであるから、天皇の制度の上に天皇の意思があるといふことである。しかしながら、その話を聞いて数日経つた今は、やはり存命中は天皇は天皇であるといふ考へに変更はない。

 天皇は職能ではないからである。「疲れた」とか「高齢だから」と言つて辞められるのは職能である。丸山真男ではないが、「である」原理の典型である天皇の継承は、死を以てなされる。上皇といふ存在がいらした時代も確かにあつた。しかし、それこそ現代にはふさはしくない。天皇が権威であると同時に権力者であるならば、つまりは職能であるなら、それはいろいろな統治の仕方があつてよいだらう。しかし、いまは天皇親政の時代ではない。「する」ことに価値がるのではなく、「ある」ことに価値があるのである。

 とても気になるのは、今上や皇后陛下の各地をご巡幸されたり慰問されたりお姿に感動した国民が同情を寄せて、ご高齢を危惧してゐるといふ構図である。つまりは、天皇がその人格によつて価値あるものになつたり、あるいはさうでなくなつたりするといふ心性が、今の制度を支へてゐるといふ「脆(もろ)さ」である。

 絶対者のゐない私たちの国にあつて、近代を成し遂げるために、明治の為政者は天皇を「絶対者」として祀り上げた。そもそも相対者でしかない存在を絶対者として位置づけたことの弊害は大きなものがあるが(だから、今も近代ではなく、似非近代である。言葉についての建前と本音との乖離を気づかずに済ますといふ弊害は極めて大きい)、その絶対的相対者を完全な相対者にしてしまふことは、日本をどういふことにしてしまふのか。人の上に人がゐない相対者の国になれば、本当に歴史は断絶されてしまふ。

 相対的絶対者(近代以前の天皇) ⇒ 絶対的相対者(近代の天皇)  ⇒ 相対的相対者(これからの天皇)

 今後、天皇の権威の維持は非常に難しいことになるだらう。あるいはそれが、本当の絶対者を求める真正の近代を産むきつかけになるのであれば望むところであるが、たぶんそれも無理であらう。

 だからこそ、今は天皇は職能ではないと言ひつづけたいと思ふのである。

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