試験監督をしてゐて気になることがある。それは机上に載せる物の多さである。大学入試でも、おそらくどんな検定試験でも、筆記用具は机上に置いて良いことになつてゐると思ふが、その数についての規定はないのではないか。消しゴムのカバーを外せだとか、シャーペンシルに文字が書いてあつてはいけないだとかの指示はあつてもである。
中には、お菓子の缶に鉛筆を50本ほど入れてセンター試験に臨んだといふつわものがゐたと聞いたことがあるが、そのまま大学に入つたところを見ると、問題なかつたのであらう。
しかし、鉛筆はともかく、シャープペンを4本、芯(しん)ケースを4つ並べてゐる学生を見て、驚いたことがある。芯ケースを4つ用意する意味がどこにあるのだらうか。よほど神経質なのか、心配性なのか。そこまで芯を消費することがあるとは冷静になれば思へないはずである。不思議な光景であつた。
もちろん、試験中にコメントを加へることもできないし、終了後にも言ふ必要もないので、たぶんその君はそのまま次の試験も受けたのであらう。
物が溢れてゐる。落し物を告知しても、しばらく前から名乗らなくなつた。また新しいものを買へばいいやと思つてゐるのだらうか。
ただいま、連日のやうに東京オリンピックの費用の節約が取りざたされてゐる。2兆円だ3兆円だといふお金の使ひ方に真剣になつてゐないのは、かういふ消費社会の日常が私たちの意識に浸透してゐるからではないだらうか。
景気が沈滞しないためには、お金が流通することである。それは確かに大事なのことであらう。一億人も人口がゐる社会で、国内経済だけで利益を上げられないのはあまり良い状態ではないと思ふ。もちろん、私には経済について云々する知識もアイディアもない。しかし、それとは別の次元で、物を大切にするといふこと。適切な量を自分でわきまへるといふことは、広く了解されてしかるべきであらう。
くだんの学生で言へば、そもそもそんなに芯を持つてゐるといふことが不思議なのである。買ふことに問題がある。物を大切にする意識があれば、きつと違ふ行動を取るはずであらう。その意識がいま私たちには薄れてゐる、それが隠れた問題なのだと思ふ。