言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

福田恆存と丸山真男

2016年12月21日 09時51分08秒 | 日記

 時事評論の今月号で初めて知つたのが、丸山真男が福田恆存の『近代の宿命』に影響を受けてゐたといふことである。

 出典は、政治学者の三谷太一郎の『戦後民主主義をどう生きるか』といふ書籍だ。タイトルからして絶対に手にしない本である(「主義」を「生きる」とはどういふことだらか。それでは人生が「主義」の手段になつてしまふのであるから、「生きる」ではなく「死」を意味するのではないか。そもそも「戦後民主主義」といふ名称からして期限付きのものであるのに、それを主義としてしまへば、人は生きられない。〇〇主義といふものは、それによつてすべての問題の解決ができるといふ発想を意味する。さういふ発想はそもそも思想的な生き方ではない)から、まつたく知らなかつたので興味深い。

 内容は未読であるから、以下にそのまま引用する。

「福田は保守的文化人として、西洋のような批判すべき『神』を持たなかった日本の近代化に疑問を呈したのだが、それを合理主義者の丸山が高く評価していた。」

 丸山が原理を持たない日本思想を卑下し、その無責任体系を批判した。その裏には当然ながらキリスト教倫理による西洋思想の礼賛がある。その分析を福田の『近代の宿命』に負うたといふことであらう。

 何度か、福田は丸山を文章の中で批判したことがある。「論争のすすめ」の中でも名前を挙げて批判してゐたと記憶するが、それでも丸山からは反応がなかつた。代表的著作『日本の思想』には、福田を指してゐるやうな人物も出てくるが、あへて実名を避けてゐた。それが何を意味するのかは、丸山の熱心な読者ではない私には見当もつかないが、福田恆存を意識してゐたといふことは事実であらう。論争を避けたいといふ思ひがいづこから発したものであるのか、それを知りたい。そしてできることなら、本格的な「福田恆存と丸山真男」論を期待したい。戦後の思想の宿題を、今もまだ解決してゐないからである。

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