言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「できる」、「わかる」、そして「学ぶ」—―佐伯胖

2016年12月23日 10時08分16秒 | 日記

 先日、教師の大先輩から「佐伯胖」といふ人の名前を教へていただいた。

 常日頃、教育の在り方、教師の在り方、教科とは何か、授業とはどうするものか、分かるとは何か、などなど少しでも時間があれば対話が始まるといふことをしてゐる方である。神奈川からお越しになるので、週に二日しか私の職場にはいらつしやらない。それでも時間があれば話をする。最近、私が教育学や生徒指導の本を机上に置いてあるからだらうか、表題の研究者の名前を教へていただいた。

 何を手始めに読まうかと思つて、取り寄せたのが『学ぶ力』と『「わかり方」の探究』である。前者は、河合隼雄や工藤直子などとのシンポジウムの内容を本にしたもので、佐伯のものは一部だが、それから読んでゐる。これが面白い。

 私なりにまとめると、以下のやうになる。

 「できる」………オーギュスト・コント以来の行動主義的教育観         ←  100年前

         学習とは、特定の目標行動が達成できたかどうかで測られる。

 「わかる」………認知心理学的教育観                     ←   50年前

         学習とは、情報処理のように「スキーマ」を駆使してわかつていく過程として理解される。

 「学ぶ」 ………構成主義的教育観 + 生きがひ論              ←  20世紀末

         学習とは、「学び甲斐」を、なんらかの共同体への参加の「手応へ」として求めるものである。

 

 「ゆとり」といふ言葉が言はれた頃に、じつは教育観の大変化が起きてゐたといふことである。「できる」観への反発が「ゆとり」へと収斂してしまつたのは、やはり失敗であつた。そしてその後「脱ゆとり」として、単純な「反復練習的学習」を呼び込んだのであれば、そのことも失策であり、「ゆとり」教育の過ちは二重に罪深い。

 「学ぶ」ことを、自分の生きる手応へとして感じられるやうにするにはどうすれば良いのか。それはもちろん、競争だけで作り出されるものでもあるまい。パッシブラーニングだけでもできない。それらが、社会に参加し仲間に認めてもらふためのステップであるといふことを知ることが大事なのであらう。そのためには、教室が勝者だけが威張る空間になつてはいけない。

 最近、生徒が「あいつらは意識高い系だから」と言ふのを聞いた。それは結構まずい言葉なのである。

 

コメント
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