言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

じつくり考へることなしには・・・・・・

2016年12月16日 08時23分56秒 | 日記

 昨日、学習教材を開発してゐる会社の担当者と話をすることがあつた。2020年大学入試改革や21世紀型の教育改革に対応すべく、多くの「受験産業」が変化を迫られてゐる。

 子供の数が減つてゐるといふこともその背景にあるだらうし、これまでの教育のあり方では社会の変化に順応できる人材を確保できない(と思はれてゐる)といふこともあるだらう。

 しかし、さうした表層的な変化(この言ひ方にカチンとくる人もゐるだらうが)よりも、もつと奥底にある変化の方が重大であると思はれる。そのことを、昨日上記の担当者と話をしてゐた。

 予備校では大講義室の授業は成り立たず、少人数かもしくは個別指導が人気であると言ふ。あるいは目の前での授業よりも、映像の授業の方が良いと言ふ。自分の見たいところを見て、つまらないところは飛ばす。さういふ「編集」を自分で出来るからといふことらしい。それで浮いた時間を自分の勉強する時間に当てるといふ尤もらしい理由をつけてである。そんなに時間を大事にしてゐる人が、浪人したり授業をサボつたりしてゐるといふ事態が滑稽であるが、無駄な話が多い予備校の授業といふものもあるのだらう(もちろん、当該の講師に理由を聞けば、きつと正当な理由があると思ふが)。

 静かな環境のなか、ひとりでじつくりと問題を解き、参考書を読み、質問に行き再度問題に取り組むといふことを繰り返すといふことが、いまの受験生やそれ以前の児童生徒の生活空間から消えてしまつたのではないか、さういふ疑問がある。

 教材の質さへ確保すれば生徒が集まる、といふ前提は壊れてゐる。営業面での工夫、顧客としての生徒や保護者への見せ方の工夫が、最大の前提になつてゐる。

 見せ方はとても大事なことであることは分かつてゐる。しかし、見せ方だけでは駄目であることも分からなければ、本当の学力=思考力はつかない。それはもつと大事なことである。

 今夏、浪人してゐる生徒と話をしてゐて、印象的なことがあつた。

「予備校に通つて、やつてゐなかつた勉強をすると成績は上がるんです。でも、頭がよくなつた気がしない。周りの連中は本をまつたく読まないんです。」

 成績の向上が頭の良さを保証しないといふのは、ずゐぶんな皮肉な話であつて、これまでの教育のあり方を痛烈に批判してゐる例話としても捉へることが可能である。が、その一方で、そもそも高校までの勉強で頭の良さを保証する必要があるのかといふ疑問を提起してゐると捉へることも可能である。さうであれば、偏差値の上昇とは別に、本を読んでじつくり考へよといふ学びの作法を児童生徒に伝へられなかつたといふことの例話とも言へる。

 皆で話し合つて智恵を出し合ふ、結構なことである。しかし、ひとりでじつくり考へるといふ作業なしに、思ひつきと相手をやり込めようといふ邪心とで学びが犯されるのであれば、いやな空間が広がつていくやうな気がしてゐる。

 学びの作法は、対話によつて養成される、とはとても思へない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする