言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

韓国は、どうなつてゐるのか。

2016年12月04日 11時10分06秒 | 日記

 毎週土曜日になるとソウルの街は一変してゐる。

 朴大統領の早期辞任を求める人々の群れである。見てゐて苦しくなる。あれほどのマイナスの感情が、何十万人といふ人々の怨念が、街に集約されれば、歴史に傷をつけることになるだらう。

 いつたいどれほどの過ちを犯したら、あれほどの非難を受けることになるのだらう。罪とそれに相応しい罰との釣り合ひを、どう考へても逸脱してゐる状況である。

 大統領といふ存在を人身御供にして、それで国民が自分自身の憂さを晴らしてゐる、さうとしか思へない。あれは韓国民が自ら天に唾する行為ではないか、私にはさう思へてならない。

 母と父とは凶弾に倒れ、娘はデモによつて引きずりおろされる。怒りを鎮める方法はないのだらうか。

 かつて、福田恆存が朴槿惠大統領の娘時代の言葉としてかういふ言葉を記してゐる。

「父を日夜、見るごとに、その肩にどれほどの重荷を背負つて苦しんでゐるか、それを想ふとたまらなくなります。」と。

 さう語つてゐた人が、いい加減な振る舞ひをするとは思へない。

 恨の民族と自称し、恨みを内に秘めていくといふことに民族の誇りを抱いてゐた国民ではなかつたのか。

 怒りを鎮める道を選ばれんことを祈る。

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