言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

国際基準といふこと。

2016年12月05日 09時15分32秒 | 日記

 資源学者・物理学者の武田邦彦氏の対談をテレビで見た。偏屈なおじさんであるが、ごみの分別はするな、地球温暖化はないなどと、何も知らないひとは驚いてしまふやうな発言をする方である。

 福島原発事故の時には、氏にしては珍しく表情を硬くして「正論」ばかり言ふのに少し違和感があつたが、今はまた温和な感じでドギツイことを言ふ偏屈じじいに戻つてゐた。

 気になつたのが、京都に修学旅行で来る生徒たちの様子についてのコメントである。

「最近の学校は、京都の旅館までは制服で来るが、街に出るときは私服で出させることになつてゐるらしい。なぜなら、京都に来る外国人には制服姿に軍隊を連想させるからだと言ふ。国際基準だとさういふことなのだから仕方ない。校内的には説明できても、外国人に説明できないことはしない方がよい。」といふのである。

 もちろん、武田氏の主張の真意は、「日本は日本の文化があるのだから、整然と制服で過ごすといふことに価値がある。さう説明すべきである。説明できなければ制服を着させるな。」といふことである。つまりは、制服の意義と価値とをきちんと説明できない学校側を責めてゐるのであつた。しかし、視聴者の中にはさうは取らない人もゐるだらうし、学校はさうした無言の圧力に抵抗する意識も能力もないから、どんどん市内観光は私服でといふことになるだらう。

 さういふなし崩しといふのがいやなのである。

 私服で市内観光、それ自体はおかしいことではない。しかし、制服でといふのもおかしいこととは思はない。地方から出てきた生徒が感じる不安がそれで軽減されることもあるだらうし、迷子になつても声をかけてもらへるかもしれないからである。だから、外国人に説明できないからといふ理由で制服をやめるなどいふことは決してしてくれるな。

 そもそも、この国際基準といふのが怪しい。「国際」といふ実体はない。あるのは、それを言ふ人の頭の中にある観念である。観念は実体ではない。だから、ないと思へばないのである。国際といふことの実態は、それぞれの国ごとに制度は異なるといふことである。裸で街を歩くなといふのは世界のルールであるが、何を着るか着ないかについての決め事はない。ドレスコードといふものはあるが、それは閉鎖空間内のことであつて、公共空間にドレスコードを持ち込むことは、それ自体「国際基準」に反する(と、お好みなら言つておかうか)。

 制服について文句があるとすれば、その着方についてである。おしやれをしろと言つてゐるのではなく、清潔感がほしい。汚かつたり、臭かつたりは、恥づかしい。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする