言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

夜が來るとは考へないのか。  『正論』2014年4月号

2016年12月13日 22時03分59秒 | 日記

終末が來るとは考へないのか――相対主義の毒

                           文藝評論家 前田嘉則

 

「澱める水に毒ありと思へ」

 

 近年、福田恆存の再評価が若い研究者によつて次々になされてをり、氏を私淑してきた私としてはそのことを喜んでゐる。その言葉の確かさは、他に見つけることが出来ない。例へば、昭和天皇が崩御された時、福田がある雑誌に寄せた次のやうな言葉は、四半世紀経つていよいよその確かさを深めてゐる。

 

「澱める水に毒ありと思へ」とは英國の詩人ブレイクのことばだが、この至言が針のやうに胸を刺す日が來よう。

      「可哀相な可哀相な『平成』」(『新潮45』)

 

 深く内省をしてみれば、平成の始まりにもらされたこの感慨通り、胸を刺す針は年を追つて深く入つていくやうである。しかし、ものを考へずに忙しく過ごし時間の流れに身を任せてゐると、不思議なことにその痛みも苦しみも感じることがなくなる。慢性化して、もう痛みすら感じないといふのであらうか。そして、深刻な言葉は排除され、明るく楽しい上機嫌な言葉がもてはやされる空間が周囲には広がつてゐる。私は今、私立の中等教育学校で教へてゐるが、日頃生徒と接してゐてその感が非常に強い。もちろんそれは決して若者ばかりではないが、平成生まれの人口が約三千万人、総人口の四分の一ともなれば、彼らの作り出す空気がますます支配的になつていくのは時代の趨勢である。少し前に出た若き社会学者古市憲寿氏の『絶望の国の幸福な若者だち』は若者に支持されてゐるが、そこには次のやうな言葉があつた。

 

 ワールドカップの時は大声で日本を応援しても、試合が終わればすぐに「お疲れ様」とさっきまでの熱狂を忘れ、アメーバニュースで「異性の気になるところ」というニュースを読んで友達と盛り上がり、戦争が起こったとしてもさっさと逃げ出すつもりでいる。そんな若者が増えているならば、それは少なくとも「態度」としては、非常に好ましいことだと僕は思う。国家間の戦争が起こる可能性が、少しでも減るという意味において。

 

 もはや言葉もない。私の目にはこれは「惨状」にしか映らないし、「可哀相な可哀相な」事態なはずであるが、「いいんじゃねえの」と言ふ若者がここそこにゐるといふことを想像するのはさほど難しいことではない。それが現在の若者の「普通」なのである。彼らの日常感覚がかうだとすれば、そこからはいつたいどんな人生が生まれるのだらうか。生き方に筋道を通さうとする感覚を喪失してゐるとしか思へないが、同情して言へば、いびつな現在の社会構造を知りながらも、束の間の幸せを享受してゐるといふことであらう。しかし、このまま行けば少子化と格差の固定化とによる不安な未来は確実であるのに、そのために今を犠牲にして未来のために生きるとか、改善のための計画や努力を始めるとかといふことは考へない。「絶望の国」に生きてゐる「幸福な若者たち」とはさういふ意味である。

 さうであれば、彼らは何が幸福で何が不幸であるかといふことの判断ができないのではない。さうではなくて、幸福とは何かなど考へないやうにしてゐるのである。将来への見通しや、今何をすべきなのか、今までしてきたことはどういふことなのかを考へることを拒否し、ひたすらに今を楽しんでゐる。だから、次のやうな言葉を吐いて平気でゐられる。無意識なのか意識的なのかの判断は措くとしても、連続してゐるはずの時間であることを忘れて今といふ一点に立つことの手ごたへに充実感を求めるスタイルが若者に身についてゐるといふことである。

 

 政府が「戦争始めます」と言っても、みんなで逃げちゃえば戦争にならないと思う。もっと言えば、戦争が起こって、「日本」という国が負けても、かつて「日本」だった国土に生きる人々が生き残るのならば、僕はそれでいいと思っている。

『同右』

 

「政府が『戦争始めます』と言っても」とはどんな戦争を想定してゐるのか不明で、まさか本土決戦を仮定してゐるのではなからうが、仮にどこかで自衛隊が戦闘に入つたとしても徴兵制でもない我が国でこの著者に「召集令状」が来るわけはなく、「逃げちゃえば」と言つても自身が飛行機に乗つてどこか外国に旅行しても一向に咎められることはない。彼は「生き残る」のである。空疎で巧妙な揶揄は、いかにも「幸福な若者」の言ひ種である。

 言葉の遣ひ方が誠実でなければ生き方が誠実になるはずはない。個人の生き方が誠実でない人が戦争など起こすはずもなく、さういふ人が説く戦争とは所詮絵空事である。彼の念頭には実際に戦ふ自衛官の姿も戦闘の場面もないだらうし、すべては空想妄想である。あるいはいざとなつたら助けを求め、助けてもらへば今度は百八十度変つてしまふ程度のものである。甘つたれた依頼心が彼の心の大部分を占めてゐるやうに感じる。彼の言説が鼻につくのはさういふ匂ひがするからである。言葉を弄び現実の責任者を軽侮し、若者に同情するふりをして自分の言動を甘やかし、さういふ甘つたれた言説の中に若い読者を安住させ、彼らから自立する機会と意識とを奪つてゐる。妙な構への学者が現れた。あるいはそれが社会学者といふものなのかもしれない。著者の最新刊は『だから日本はズレている』であるが、言ひ得て妙である。日本からズレてゐるのはむしろこの著者である。

(以下略)

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