言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

最大の楽しみは、「語り」

2016年12月02日 08時58分22秒 | 日記

 日々の生活環境の中で、充実した時間として意識されるのは、会話が弾んだときである。

 雑談といふのはサルの毛づくろひと同じ効果があると、何かの論文で読んだことがあるが、さうしたストレス発散の意味以上のものが「弾んだ会話」にはあると思ふ。

 夫婦でも毎日さういふ厚みのある会話は難しいし、職場ではそれ以上に少ない。生徒や卒業生との会話には、ときどきさういふことがあるけれども、それも日常的といふほどではない。

 毎日、毎日、ディナーを食するわけにもいかないのは分かりきつてゐるから、会話の充実をそれほどに求めてはいけないけれども、やはり時にはさういふ時間に出会ひたい。

 私の場合には、慰めの言葉よりも、知的に整理される言葉に出会ふ方がありがたい。まさに至福の時間である。あるいはこちらの脳がぐるぐると動き出すやうな言葉との出会ひも嬉しい。

 亀井勝一郎、和辻哲郎、小林秀雄、福田恆存、河上徹太郎、夏目漱石、山崎正和、西尾幹二、松原正、出会つた順番はたぶんこの通りだらうと思ふ。あまり多いとは言へない読書暦であるが、それぞれの肉声が聞こえてくるやうな出会ひであつた。あの言葉には、あの場所であの時間に出会つたなと思ひ出されることもある。じつくりと読むといふ時間が、目の前の人との会話の時間以上の喜びをもたらせてくれたのである。

 だからだらうか、私はあまり話をするのがうまくない。講演などは一度しかしたことないし、もう二度とすまいと思つた。組織の中で人を動かすのも好きではない。能力がないのを棚に上げてではあるけれども。

 しかし、読書は生活にはなりえない。幸福は人々との生活の中にあるべきだからである。会話の厚みをどう育むか、それが課題である。授業時間の言葉にしても、職場での会話にしても、家族との団欒にしてもである。

 福田恆存は、どんな言葉を日常で語つてゐたのだらうか。さういふことをつい考へてしまふのである。

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