高砂の町割り
寛永3年(1626)、高砂町の町割りが完成しました。
図は、「近世元禄の頃の高砂の町図」です。
なお、『高砂誌』によれば、高砂の町割りを担当したのは尾上左近右衛門中須又右衛門でした。
市街地の南部は、魚町・釣舟町・漁師町・戎町など漁業従事者の町、船頭・船持水主(かこ)・仲仕人夫等の渡海町などで構成されています。
しかし、港町高砂の中心地は高砂川・南堀川に沿う東浜町・南浜町・材木町・今津町で、ここは、高砂町の玄関口で、船着き場・荷揚場の他、問屋の蔵が建ち並び、賑わいのある問屋街でした。
飾磨と共に姫路藩の経済を支える
東浜町の向いの北堀川を渡ると、南北の御津留穀留番所がありました。
なお、北堀川に沿っての町は高瀬町です。
これは、加古川筋に姫路藩、その他の藩の年貢の輸送に当たった高瀬船にちなむ町名と思われます。
このように、池田氏の城下は、本多氏によって港町高砂として生まれ変わり、江戸時代を通じて、飾磨と共に姫路藩を支える港町として繁栄するようになりました。(no4511)
◇きのう(7/6)の散歩(10.675歩)
*図:『高砂市史(第2巻)』参照
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