高砂塩の盛衰
荒井の塩業は、ずいぶん盛んであったのですが、18世紀の前半より急速に衰えていきました。
原因として、次のような理由が考えられます。
もっと大きな原因としては、加古川の水流と堆積作用により、塩の付き具合が悪くなり、塩の生産効率が低下したためです。
そのため、塩田経営の中心地は、しだいに加古川の影響の少ない曽根・大塩・的形に移っていきました。
そして、荒井の塩田は、宝永年間(1704~11)までに大半が田畑になっていきました。
高砂から、多くの塩浜が消えていったのですが、衰えたとはいえ18世紀後半においてもわずかであるが続いていました。
曽根町では、わずかですが昭和20年代まで残っていました。
塩田(荒井村)の発達した理由
荒井村で、比較的に早く塩田が開発されたのは高砂の浜が遠浅で地理的な条件が良かったともさることながら、荒井村で開発された入浜式塩田の構築技術にありました。
① 塩田の堤の用材として、竜山石の入手が容易であったこと。
② 姫路城の築城の技術活用されたこと。
③ 加古川流域含め、塩の市場が拡大したこと。
以上がその主な理由です。
それでは、消えた多くの塩田の跡はどうなっていったのでしょう。
これは、後に詳しく述べますが、姫路藩の経済方針と関わってきます。
その多くは、綿作地に変わっていきました。(no4515)
*写真:曽根の塩浜(昭和2年ごろ撮影・『高砂市史・第二巻』より)
◇きのう(7/10)の散歩(10.980歩)
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