ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

築造の経緯が…千貫石ダム

2024-08-21 06:55:25 | 岩手(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は岩手県胆沢郡金ヶ崎町西根堤袋(いさわぐん かねがさきちょう にしねつつみぶくろ)にある北上川水系宿内川(しゅくないがわ)の千貫石(せんがんいし)ダムを目指します。アクセスは県道37号にある「千貫石森林公園」の表示板のあるところを入っていくと到着します。

左岸、上流側から見た様子。

左岸側にある案内板。

説明書きによると、江戸時代の1618年、伊達政宗(1567-1636)が仙台藩の藩内巡視を行なった際、この下流の六原一帯が開田するのに適していると見立てました。そこで1672年に仙台藩は六原を開拓するため盛岡藩に夏油川(げとうがわ)から取水させてくれと申し入れていましたが、盛岡藩はこれを拒否。そこで水源を現在の地に求め、1682年、この地でため池の築造事業が始まります。ところが着手から3年間は築造した堰堤が毎年大破する事態に。そこで1685年には版築工法に変更します。この工法は土手裏共に石を積めるというものでしたが、なんと土堰堤には牛と釜石出身の「お石」という娘をいわば生贄にしたそうな。

同年7月に仙台藩の四代藩主であった伊達綱村(1659-1719)がこのため池築造現場を訪れた際、そこにあった高さ1.06m、外周1.97mの石を見て「千貫文にも替え難い珍石」と言ったことからその石は千貫石と呼ばれるようになり、ここの地名にもなったそうな。

さて、そのため池は1691年に完成したものの、1777年6月に降った大雨により堰堤が大破。この大破の際、住民は36mの長さの青い光が流れ出るのを目撃したという。それは「お石と牛」の霊と伝えられることになった。そうしたこともあってか、以後150年間このため池は放置されていたようです。その後、1931年に旱魃被害解消を目的とした千貫石農業水利事業ため池築造工事がスタート。それは1940年に現在のため池の原型が完成しました。

ところで、1975年になって千貫石地区の人々の間で「お石」がたびたび夢枕に立つという話が出たため、翌年5月6日に千貫石ため池のすぐ南東に位置する鷹ノ巣山(標高258m)の山頂に「おいし観音」が建立され毎年供養が行われているそうな。

時代は下り、昭和58年(1983年)頃からダム下斜面に湧水がみられ、また取水設備も老朽化したため、1999年から耐震構造技術を駆使した県営防災ダム事業が始まり、2009年に千貫石ダムは完成し現在に至ります。

では、ダム上を歩いてみることにしましょう。左岸側からダム上を見るとこんな感じで、左岸側には洪水吐があります(ガートレールの下が洪水吐の水路)。

橋の上から洪水吐を見ると、なかなか立派なもので、ここから溢れ出た水は、

この水路を通って、あちらへ流れてゆきます。

ダム上に向かう途中には昭和63年災害復旧記念として「滋水」と刻まれた石碑があります。

その隣には「湛水千古 興農貫徹」と刻まれたものがあり、

裏面にはダム事業の沿革と諸元が記されています。それによれば、現在のダムの高さは31.5m、長さは191.0m。ちなみにダム便覧では高さが31.3m、長さは247.5mと記載されていて、また、千貫石の由来も「おいしという若い女性を銭1,000貫で買ってきて、牛とともに人柱にした」ことが由来のように書かれています。ん? これは案内板の記載内容と違いますが、どういうことなんでしょうね。(参考

それはさておき、ダム上、中央から見た貯水側の景色。

一方、下流側の景色はこんな感じ。

対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じです。


ため池を築造するのに生贄を必要としたなんて、現代では考えられないことですよね。「お石さん」の冥福をお祈りします。
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