ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

五大ダムの末っ子…御所ダム

2024-08-01 07:00:26 | 岩手(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。いや〜、盛岡市の中心部に来ました。そういえば8年前、盛岡駅と盛岡城跡公園の間にある「にっか亭」に来たのでした(参考)。そこの専属ピアニストをしている昔の友人Y君に会うためです。今も元気にしてるんだろうか。一瞬立ち寄ろうかと頭をよぎりましたが、今は昼間。店が閉まっている時間です。なので今回の再会は見送りすることに。

さて、今回の目的地へ向かいます。目指すは岩手県盛岡市繋山根(つなぎ やまね)にある北上川水系雫石川(しずくいしがわ)に築造されている御所(ごしょ)ダム。アクセスは国道46号を秋田方面へ行き、「滝太橋北(たきたばしきた)」信号を御所湖方面へ。そのまま県道16号に入ります。そして突き当たりを右折し、県道172号を行くと目的地に到着します。

【ダム名の由来】(参考
ダム名の「御所」は地名ではありません。リンク先のサイトの説明によれば「御所の名称の理由は南北朝時代に当地に配された北畠顕忠が『滴石御所』を称して支配したことに由来しています」と書かれています。確かに由来はそうなのかもしれません。しかしながら、この説明は何か腑に落ちません。というのも、南北朝時代は1337年から1392年の期間ですが、北畠顕忠(きたばたけあきただ)は戦国時代の武将で、没したのが1578年なので時代が違います。では、別のサイトの記述をみてみましょう。これによると平安時代末期の寿永年間(1182-1184)に平忠正の孫にあたる衡盛(ひらもり)が大和国三輪から陸奥国磐手郡滴石(しずくいし)荘に下向し、滴石荘戸沢村に居を構えたことから戸沢氏を名乗るようになります。この城館は後に「滴石城」として1340年頃に創建されたようですが、この頃、戸沢氏と同じ南朝に属する北畠顕信(きたばたけあきのぶ:1320?-1380?)がここを「滴石御所」と称し、1346年から1352年までここで南朝方を指揮したそうな。ちなみに顕信は有名な歴史書である『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』(1339年/1343年改訂)を著した北畠親房(きたばたけちかふさ:1293-1354)の次男にあたります。

ま、そんなわけで御所ダムに到着しました。右岸の県道172号から見た様子がこちら。どうやらコンクリートとフィルの複合ダムのようですね。



ダム上、中央から見た上流方向の景色。

一方、ダム下を覗き込み、

下流方向の遠景を眺めます。遠くに見えるのが岩手山(いわてさん:標高 2,038m)。

右岸側には岩手県企業局 御所発電所(1981年1月運用開始)があります。

対岸(左岸)に来ました。そこには案内板があります。それによると、御所ダム本体工事に着手したのは昭和47年4月で、竣工は昭和56年(1981年)10月。築造にあたり水没した家屋は448戸。かんがい、上水道の確保、発電を目的とした多目的ダムで、高さ=52.5m、長さ=327.0m。



左岸の高台にあるのが管理事務所を兼ねた御所湖管理所。


そこからダムはこんな風に見えます。

これは慰霊碑かな?と思いきや「御所ダム竣功記念碑」なのでした。


左岸から見たダム上の様子。

同、上流側から見るとこんな感じで、

右岸側に見えるこれが上水道取水口。


前に記事にした四十四田ダムのところでも書きましたが、北上川改修計画により5つのダム(田瀬、石淵、湯田、四十四田、御所)が築造されました。その最後に完成したのが御所ダムというわけです。もっとも、石淵ダムはその後胆沢ダムの完成とともに水没し現在は見ることはできませんが。
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