ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

奈良盆地へ供給…東西分水工

2022-08-16 06:59:31 | 奈良(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は奈良県御所市樋野(ごせし ひの)にある東西分水工を目指します。これはダムでも堰堤でもありませんが、この地域での重要な水関連施設なので訪れた次第(詳細については後述)。アクセスは和歌山線と吉野線が乗り入れている「吉野口駅」の北東に位置し、御所市葛小中学校の脇の細い道を登っていくと到着します。

どうやら、これのようです。



近くには「国営十津川紀の川土地改良事業の概要」を示す案内板があります。



この場所、すなわち東西分水工の概要を転記すると次の通り。

「国営十津川・紀の川土地改良事業及び国営大和平野土地改良事業は昭和25年6月奈良・和歌山両県との間で合意された吉野川分水協定に基づいて昭和27年から農林水産省が工事を進め大和平野地区については昭和48年に工事完了し、既に奈良盆地の農業用水の補給と水道用水のために役立ててきました。
 目の前にある施設は、この事業によって紀の川水系に新設した津風呂(つぶろ)ダム・大迫(おおさこ)ダム・下渕(しもぶち)頭首工を○用することによって吉野の美しい水を新設したトンネルにより導水し、これから先奈良盆地の東西幹線水路に通水するための分水口(工?)であります。向かって左へカーブしているのが西幹線水路、真直ぐ行くのが東幹線水路であり、分水工手前、左側に流れる水は奈良御所浄水場へいくものであります。 昭和54年2月」(○は解読不能)

要するに吉野川に設置された下渕頭首工から分水してきた水は大和平野の農業用水として供給されるのですが、より広い地域に供給するため水路は東幹線水路と西幹線水路に分かれます。その分岐点となるのがここ東西分水工というわけですね。

案内板の前には管理所らしき建物があります。でもそれを示すプレートなどはありません。



では水路に向かいます。階段を下りていくと下渕頭首工から導水されてきた水路を見ることができます。



その水はここで東西の幹線水路に分かれます。



この場所は大迫(おおさこ)ダムからは49.6km、津風呂(つぶろ)ダムからは17.7km、下渕頭首工からは5.2kmの距離にあるそうです。大迫ダムの下流には大滝ダムがあるのに載っていないのはこのプレートを作成した時点ではまだ完成していなかったからでしょうね。



そこから西幹線水路に沿って行くと「吉野川分水」の説明図があります。この説明図が作られたのは2018年4月なので、さすがにここには大滝ダム(2013年竣工)も載っています。



吉野川の下渕頭首工から東西分水工の開通により奈良盆地(大和平野)の農業用水は安定供給されるようになったというわけですね。きっと「吉野川様、ありがとう!」といった感じなんでしょうな。
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大和平野への入口!…下渕頭首工

2022-08-15 06:58:58 | 奈良(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は奈良県吉野郡大淀町下渕(おおよどちょう しもぶち)にある紀の川水系の下渕頭首工を訪れます。目的地は近鉄吉野線の「下市口(しもいちぐち)駅」の西側に位置するのですが、アクセスするには吉野川と並行して走る国道370号を下流方向へ行き、下渕頭首工の下流にある水道橋を渡り下市(しもいち)取水場の先を吉野川へ向かって行くと到着します。

【下渕頭首工設置の経緯】
ところで、なぜ下渕頭首工が設置されたのでしょうか。もともと水量の多い吉野川ですが、その北側に位置する奈良県の大和平野では水が不足していました。そこで昭和25年(1950年)6月に奈良県と和歌山県の間で合意された吉野川分水協定に基づきこの場所に頭首工を設置することで大和平野での水不足解消に寄与することになります。しかし頭首工がすぐに設置されたわけではありません。当時吉野川上流域では津風呂(つぶろ)ダム(1961年完成)や大迫(おおさこ)ダム(1974年完成)の建設が先行して進められており、吉野川から奈良県への総延長336kmに及ぶ分水路の全ての工事が完成したのは昭和62年(1987年)になってからでした(参考)。ちなみに下渕頭首工が完成したのは1974年3月だそうです(参考)。

そんなこんなで下渕頭首工に到着。左岸側から見た「勇姿」がこちら。左岸側には魚道が見えますね。



現在設置されているゲートはステンレス製のもので、おそらく2010年以降に交換したもののようです(参考)。



もちろん左岸に来て、いきなり上のような「勇姿」を拝むことはできません。まずはこんな感じで頭首工を見ることになります。



頭首工近くに来ました。そこから見る吉野川上流方向の景色。



左岸、頭首工の上流側にある取水口。



一方、右岸側にも取水口があります。地図を見ると、どうやらこの取水口から分水した水が奈良県の大和平野へ送られていくようです。



左岸の魚道に流れ込む水。柔らかい感じに見えます。



その水が下流へ行く様子。写真左側にちょっと見えるのが水道橋。



その水道橋から下渕頭首工はこんな風に見えます。ちょっとアップで撮ってますが。ここから見ると右岸側にも魚道があることがわかりますね。



次回は下渕頭首工から分水した水の行方を追います。
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ひっそりと…湯の沢ダム

2022-08-14 06:56:47 | 秋田(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は秋田県能代市二ツ井町飛根(のしろし ふたついまちとぶね)にある米代川(よねしろがわ)水系の湯の沢(ゆのさわ)ダムを訪れます。以前訪れた横手市の「湯ノ沢沼溜池」と名称が似ているので紛らわしいんですが、もちろん違います。アクセスは奥羽本線の富根駅側から国道7号を走って来ると国道沿いに「七尾オート」というダイハツの自動車屋があり、その先のT字路を左折。秋田自動車道を潜ってさらに進んで行くと到着します。

これのようです。左岸に到着です。



左岸、貯水側からダム上を見ると、こんな感じ。



これがダム上。歩いてみましょう。



ダム上、中央から見た貯水側の景色。日差しが眩しい!



一方、下流側はこんな感じ。



対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな景色。



そこから見た貯水側の様子。貯水湖に右岸の景色が綺麗に映っていますね。



右岸から下流側を見ると、こんな感じ。



右岸側には洪水吐があります。緑が覆い被さっているのでわかりにくいですが。



そして増水時に溢れ出た水はこの水路から流れてゆきます。これも緑で覆われていてよく見えませんね。



ご覧のように、ここには「湯の沢ダム」を表示するものは何もありません。ダム便覧やグーグル先生の地図では「湯の沢ダム」と表示されているのでそうなのでしょう。ダム名の「湯の沢」はここから米代川へ流れ込んでいる川の名称(湯の沢川)に由来するものと思われます。
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これが正式名称でしょ?…菅の沢ため池

2022-08-13 06:53:07 | 秋田(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は秋田県能代市大森杭切沢(のしろし おおもり くいきりざわ)にある馬場目川水系の「菅の沢(すがのさわ)ダム」を訪れます。アクセスは県道4号の、カーブミラーが2つとゴミ集積所のあるT字路を入り、そのまま行くと右側にまたゴミ集積所のあるT字路があるのでそこを入ります。そしてそのまましばらく行くと目的地に到着します。いや~、説明しにくい!

その道を来るとダムの右岸に辿り着きます。そこから見た景色がこちら。



これがダム上になります。歩いてみましょう。



ダム上、中央から見た貯水側の景色。



一方、下流側はこんな感じ。



左岸寄りにあるこの建物は取水設備のためのもののようです。ゲート製作時期は昭和58年(1983年)11月。





その近くには「県営ため池等整備事業(大規模老朽ため池)菅の沢地区 竣工記念碑」と刻まれた石碑がデーンと置かれています。



その裏側には当該事業についての沿革が記されています。転記すると次の通り。

「本ため池は、山本町の北部に位置し、東西に長く分布する福田開墾地への用水供給を目的に、大正4年から7年迄築堤工事を行い、大正8年から共用を開始した。
 しかし堤体は完成したものの、用地取得が解決しないまま貯水敷地内用地が他へ転売され、今日に至っている。昭和37年には、これに起因する紛争が発生し、ため池の存続が危ぶまれる事態が発生したため、地域の人達で訴訟委員会を組織し、水利権妨害禁止や整備工事の仮処分を求めた。又、昭和30年頃には堤体からの漏水が発生し、堤防の脆弱化が問題となり、昭和53年には堤体内部の地すべりが発生するなど、急を要する事態となった。訴訟は、14年もの歳月を要しながらも昭和53年8月30日、秋田地方裁判所から漏水ため池の堤防修復の許可が出され、県営防災事業として改修工事を行える条件がようやく整い翌年直ちに事業申請を行い、昭和55年事業採択されたものである。
 工事着工以来昭和58年5月26日発生の「日本海中部地震」による堤体の亀裂発生、昭和59年の旧底樋の流出による異常出水等、幾多の困難をも克服し、ため池の整備がなされた。これによりため池決壊の危険性も去り、更には維持管理や水管理も極めて円滑に行われるようになった。
 今日、整備されたため池を見るとき、これまでの道程の険しさも懐かしさに変わりつつある。
 そしてまた、これらの諸問題や難工事が役員、組合員、秋田県、並びに施工業者の協力によって克服され、立派に完成されたことを記念し、事業に参加した人々の功績を讃え地域の繁栄を祈り、菅の沢ため池の歴史を後世に伝えるため山本町志渡橋、割道の受益者の手でここに記念碑を建立する。 平成4年3月吉日」

要するに、当該ため池は大正7年(1918年)に完成したが、老朽化したため県営のため池等整備事業として昭和55年(1980年)に改修工事が開始され、平成4年(1992年)3月に完了したというわけです。なるほど。

取水設備の建物の奥には洪水吐があります。越流式ですね。



建物と洪水吐との位置関係はこれでわかると思います。で、増水すると水はそこから溢れ出て、



この水路を通って、あちらへ流れてゆきます。



水路の上に架かる橋を渡ると左岸になります。そこから振り返ると、こんな感じ。



そこから見た下流側の景色。



左岸から見た貯水側の様子。天候に恵まれたこともあり、ホント良い眺めでした。



どうしてもひっかかるのが名称なんです。記事の冒頭では「菅の沢ダム」と書いてますが、これはダム便覧及びグーグル先生の地図での表記にすぎません。現場を見回しましたがどこにも「菅の沢ダム」という表記はないんです。じゃあってんで国土地理院の地図を見ると「菅ノ沢堤」。この表記も現場では見当たりません。上に転記した沿革の文章には「菅の沢ため池」と記されています。一体どの表記が正しいのでしょうか。

ま、フツーに考えたら現場にある公的な記念碑に書かれた名称が優先されると思うんですけどね。だとすると、この正式名称は「菅の沢ため池」のはず。むしろ不思議なのはそうでない名称が勝手に付けられていること。そもそもそれらは何を基にしているんでしょうか。謎だなぁ。
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現場の表示は…外ノ沢堤

2022-08-12 06:51:07 | 秋田(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は秋田県山本郡三種町下岩川中ノ沢(みたねちょう しもいわかわ なかのさわ)にある馬場目川水系の外ノ沢堤を訪れます。アクセスは県道4号から「森岳温泉郷」方面へ行き、「←外の沢大堤」の看板のある交差点を入って行くと到着します。目的地の住所は上に書いたように中ノ沢ですが、外ノ沢(そとのさわ)は下流の地名。もしかするとこの場所は以前「外ノ沢」だったのかもしれませんね。

見えてきました。あれのようです。



右岸のダム横に到着です。



すぐ近くにある看板。この表示では「外ノ沢堤」となっています。国土地理院の地図も同じ。ところがグーグル先生の地図では「外の沢堤」。ダム便覧に至っては「外の沢ダム」。なぜ現場と異なる表示をするんでしょうね。現場に何も表示がないのならともかく、一応公的な表示があるんですからそれに従うべきじゃないかと思うんですけどねえ。



その付近から、いわゆるダム上を見るとこんな感じ。



そして、これがダム上。歩いてみましょう。



ダム上、中央から見た貯水側の様子。



同、下流側の景色です。



洪水吐は左岸側にあります。これを見るとかなり高い位置で越流する感じ。越流する水位がそこから2メートルほど高くなったら完全に満杯になるんじゃないかと心配になります。写真左側に見える、ガードレールの切れ目あたりには取水設備があります。



左岸から見たダム上の様子。



その場所から貯水側を見ると、こんな感じ。



先ほど見た洪水吐から水が溢れると、この水路を通ってあちらへ流れてゆきます。



昨日あたりまで三種町で大量の雨が降ったという報道を目にしました。被害がなかったか心配です。近年の雨の降りかたは特定の地域に大量に降る傾向がありますね。そうなると洪水や土砂崩れが発生しやすくなります。ダムや砂防堰堤はそもそも災害が発生しやすい場所に築造されてきたわけですが、こうした雨の降りかたをみるにつけ、これらの築造物の重要性を思わざるを得ません。ため池はまた違うのかもしれませんが。
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現場の表記…羽根川溜池

2022-08-11 06:53:03 | 秋田(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は秋田県山本郡三種町鹿渡大羽根川(みたねちょう かど おおはねがわ)にある馬場目川水系の羽根川ダムを訪れます。アクセスは秋田自動車道と並行して走る道沿いにある「はねがわ森林公園」の看板のあるところを入って行くと到着します。

見えてきました。あれですね。



右岸に到着です。そこから見た景色。



右岸、貯水側から見たダムの様子。



これがダム上。特に立入禁止でもなさそうなので行ってみます。白いガードレールの下が洪水吐の水路になっています。



そのガードレールところから洪水吐を見ると、こんな感じ。増水すると水はここから溢れ出て、



この水路を通ってあちらへ流れてゆきます。



ダム上、中央から見た貯水側の景色。良き眺めです。



下流側はこんな感じ。向こうに見えるガードレールのところが先ほど来た道になります。



対岸(左岸)には「県営羽根川溜池 竣工記念碑」があります。



裏側には「碑文」と題された文章が記されているんですが、ところどころ読めないので要約します。

「農民の歴史は水との斗(たたか)いであり、この地域における用水は東側丘陵より流れ出る河川と数多く点在する小さな溜池のみで他に灌漑の方法がなかった。渇水期は旱魃に泣き増水期には水害を被る状態を幾百年も続けてきた。こうした大自然の災害を人間の力よって克服すべく昭和32年(1957年)県営排水事業としてこの地に堤高17.7米、堤長138米有効貯水量85万6千立法米の土堰堤の築造に着手することが決定。しかし幾多の議論が百出し事業は困難を極め、遂には一時中止の声等も上がった。だが理事長及び全役員よく団結協力して諸々の難事に対処し本日の完成を見た次第である。そこで当時を偲び一文を草し後世の礎とする。
 昭和41年6月22日
山本郡琴丘町鹿渡土地改良区
理事長・児玉専太郎 (以下、略)」

ここに出てくる琴丘町は1955年4月1日から2006年3月19日まで存在した町で、現在は山本町と八竜町(はちりゅうまち)と合併して三種町になっています。

対岸(左岸)からダム上を見ると、こんな感じ。



左岸、溜池側から見た様子。



同、下流側を見るとこんな感じ。



地図やダム便覧にはここの名称は「羽根川ダム」となっていますが、上に書いたように現地にはそのように記されてはいません。従ってここでは記念碑に書かれている「羽根川溜池」と記すことにします。
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秋田県最大の「大堤」

2022-08-10 06:57:26 | 秋田(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は秋田県男鹿市北浦北浦十二桜(おがし きたうらきたうら じゅうにざくら)にある加茂川水系の大堤(おおづつみ)と思われる場所へ行ってみます。ここはダム便覧に載っているので訪問するわけですが、その場所は地図を見ても「大堤」とは書いていません。とりあえず行ってみましょう。アクセスは「なまはげライン」から「温浴ランドおが」方面へ曲がり、坂を登った最初の変則的T字路を斜め後方へ。そして細道をすぐ右折して行くと到着します。

どうやらここのようです。これが左岸から見たダム上になります。写真に見える橋の下は洪水吐の水路らしい。



ダム上、中央から見た貯水側の景色。



同、下流側はこんな感じ。向こうに見えている道路は「なまはげライン」。



対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな景色。



右岸から見た貯水側の景色。



ご覧のように周囲は木が生い茂っています。左岸に洪水吐があるとわかったのもダム上から左岸を見て判明しました。写真の洪水吐の右側には取水設備があるようです。



その取水設備の建物を覗き込むと…なるほど、これでここが大堤と呼ばれているわけなんですね。



何気なく秋田県が作成した「ため池データベース」を見てみると「大堤」と称するため池は何とここを含めて34もあることがわかりました。その中でもここの大堤の高さは15.6mあり、ダムの条件を満たしています。以下は秋田県内にある「大堤」と称するため池の場所を示したものです。( )内は高さ。どーでもいいデータですが、ご参考まで。

秋田市河辺河辺町戸島本町(6.7m)/

能代市鰄渕(3.1m)、同市二ツ井町麻生(3.4m)/

横手市安本(3.0m)、同市雄物川町矢神(3.0m)/

大館市芦田子(4.0m)、同市白沢(5.0m)/

男鹿市脇本百川(9.0m)/

由利本荘市曲沢(5.0m)、同市森子(4.0m)、同市黒沢(4.0m)、同市鳥海町下笹子(3.0m)、同市鳥海町才ノ神(1.7m)、同市東由利宿(7.0m)、同市東由利老方(6.9m)、同市岩野目沢(10.6m)、同市北福田(2.4m)/

大仙市協和荒川(4.0m)、同市太田町太田(7.0m)/

北秋田市今泉(6.5m)、同市脇神(3.0m)、同市米内沢(6.0m)/

にかほ市両前寺(5.0m)、同市院内(4.2m)、同市小国(3.0m)、同市前川(3.0m)、同市象潟(2.5m)/

山本郡三種町森岳(2.4m)、同郡同町志戸橋(1.5m)、同郡同町志戸橋字塞ノ神(3.0m)/

山本郡八峰町峰浜塙(1.8m)/

南秋田郡五城目町高崎(3.8m)、同郡同町馬場目(3.3m)/
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三部作の最初!…赤鬼橋

2022-08-09 06:59:30 | 橋のユニークな親柱
どーも、ワシです。昨日記事にした「真山1号ダム」から再び「なまはげライン」に戻り、男鹿温泉郷方面へ向かいます。すると、すぐに賀茂川に架かる「赤鬼橋」が見えてきます。





赤鬼橋というだけあって、橋の欄干が赤色になっている以外はフツーの橋。



この欄干にも青鬼橋と同様に赤鬼様がデザインされています。でも、こちらは刃物を持っていないので安心。



対岸の親柱も同じデザイン。1996年8月竣工とあります。





このように「なまはげライン」にはなまはげをモチーフにした3つの橋があります。竣工順に着目すると次のようになります。

赤 鬼 橋  1996年8月
青 鬼 橋  1997年3月
なまはげ大橋 1997年11月

つまり最初に完成したのが赤鬼橋で、次は青鬼橋、そしてなまはげ大橋は最後に完成したというわけですね。だから何だ?と言われても困るんですが。敢えて言うなら、これらの橋のデザインになまはげを採用したのはこの地域における「なまはげに対する愛」の現れなのかもしれません。たぶん。
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長兄として?…真山1号ダム

2022-08-08 07:02:03 | 秋田(ダム/堰堤)
えー、どーも、ワシです。今回は秋田県男鹿市北浦真山水喰沢(おがし きたうらしんざん みずくいさわ)にある真山1号ダムを訪れます。アクセスは「なまはげライン」沿いにある「なまはげ直売所」のところの交差点を「なまはげ館」方面へ曲がり、道なりに進み、「なまはげ館」の少し手前の細い道を入って行くと到着します(グーグル先生の地図にはその細道は出ていませんが「北浦真山」の文字あたりにその入口があります)。

それにしても、何やら奇妙な名称のダムですよね。仮面ライダー1号みたいな…。真山はもちろんここの地名に由来するものです。じゃあ「1号」ってなに?…って思うじゃないですか。「1号」があるなら「2号」もあるのか? そう思いますよね。当然の疑問です。そこで調べてみると確かにありました(あるんかい!)。

「秋田県のため池データベース」を見ると「真山○号」というため池は1号から5号まであるんです。今回訪れる「1号」の高さは17.4mで、確かにダムの条件を満たしています。だからダム便覧にも載っているのでしょう。でも、そのデータベースを見ると「4号」の高さが15m、そして「5号」の高さが17mで、これらもダムの条件を満たしています。ところがそれらはダム便覧には載っていません。なぜなんでしょうね。真山1号は真山ダム兄弟の長男なので(?)代表して載っているんでしょうか。「ここは、ほれ、兄ちゃんは長男だからさ。ダム便覧には兄弟の代表して載るわ!」ってな感じ?(ホントか?おい!)

そんなわけで、左岸のダム横に到着です。これがダム上になります。



左岸、ダム横から下流側を見ると、こんな感じ。



左岸のダム横のところにはなにやら得体の知れないモノが…。簡易的な取水装置?



まあ、いいや。とりあえずフカフカのダム上を歩いてみます。ダム上、中央から貯水側を見ると、こんな感じ。



一方、下流側の景色です。はるか向こうに日本海が見えるらしいんですが、よくわかりませんでした。



草に足を取られながらも対岸(右岸)に到着。振り返ると、こんな感じ。



右岸から見た下流側の景色です。



洪水吐は右岸側にあります。ダム上から見るとこんな感じ。



それを違う角度から見ると、こんな感じ。規模は小さいながらも越流式になっています。そして増水すると水はここから溢れ出て、



この水路を通って、あちらへ流れてゆきます。



上にも書いたように「真山4号」「真山5号」もダムの条件をクリアしているので訪れてみようかとも思ったのですが、その場所が特定できないので諦めることにしました。もっとも、この「真山1号」だってそれを示す看板があるわけでもなし。グーグル先生の地図に載っていたから行ったまでのこと。そもそも真山兄弟はため池だしなぁ。最近、ちょっと「ため池恐怖症」になってるし…。
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なまはげの一形態?…青鬼橋

2022-08-07 07:00:23 | 橋のユニークな親柱
どーも、ワシです。前回の続きみたいになります。大増川(おおますがわ)に架かる「なまはげ大橋」を渡り、「なまはげライン」をさらに「なまはげ館」方面へ向かうと今度は相川に架かる「青鬼橋」を渡ることになります。その親柱がこちら。





橋の欄干が青いのは青鬼橋だからでしょうか。



欄干を見ると青鬼さんが刃物を振りかざしています。おっと、危ない、危ない。



対岸の親柱のデザインも同じですね。1997年3月竣工とあります。





あれ? なまはげって鬼だっけ? 「なまはげ館」のサイトを見ると、なまはげは確かに鬼のような面を被って藁の衣装を纏っていますが、本当は神様の使いなのだとか。そのサイトによれば、なまはげの語源は「火斑(なもみ)を剥ぐ」が訛ったもの。「火斑」は炉端にかじりついていると手足にできる火型のことで、本来なまはげは炉端にかじりついていつまでも怠けている者を戒めるためにやってくるのだとか。だからなまはげは別名「来訪神」とも呼ばれるようです。

じゃあ、鬼じゃないやん。まあ、鬼みたいな面を被ってるからいいけど(笑)

(おまけ)
青鬼橋を渡った先には、なんと「なまはげ直売所」なる看板が…。えっ、なまはげはコロナ禍で失業? いよいよなまはげが身売りされる時代になったのか?! こりゃ深刻だな。



いえいえ、そうじゃありません。リンク先を見るとわかりますが、ここは地元の農林水産物を販売する場所だそうです。な〜んだ、紛らわしい。
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なかなかの迫力!…なまはげ大橋

2022-08-06 06:53:53 | 橋のユニークな親柱
どーも、ワシです。えー、「悪りぃ〜子は、いねぇ〜がぁ〜?」でおなじみの「なまはげ」ですが、言うまでもなくこれは男鹿半島周辺で行われている伝統行事です。で、男鹿半島へアクセスするには国道101号から「なまはげライン」という道路で行くのが最もスマートなんですが、「なまはげライン」が大増川(おおますがわ)を渡るところの橋に、こんなものがありました。



いやいや、リアルななまはげさんのブロンズ!

橋の名前もズバリ「なまはげ大橋」



橋自体はフツーなんですよ。



対岸にも迫力ある、別のポーズをとるなまはげさんが! なまはげ大橋は1997年11月に竣工。



こちらは向こう岸と同じデザイン。これは何をかたどったものなんでしょうか。



男鹿半島へ向かう最初の橋でこんなリアルな「お出迎え」があるとは思いませんでした。いや〜、気合いが入ってるね。素晴らしい!
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秋田県の滝川ダム

2022-08-05 06:57:50 | 秋田(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は秋田県男鹿市男鹿中滝川三ツ森(おがし おがなかたきがわ みつもり)にある滝川水系の滝川(たきかわ)ダムを訪れます。ダム名は「たきかわ」なのに住所のほうは「たきがわ」なのはなんとも紛らわしいですね。それはともかく、アクセスは国道101号から男鹿温泉郷へ向かう「なまはげライン」に入り、途中の「航空自衛隊5.8km」の表示のある交差点を左折。そのまま道なりに進み、約2.8kmほど走ったところを左折して行くと到着します。

まずは左岸から見たダムをご覧ください。



でも、いきなりこの景色が見えるわけじゃありません。ダム横に至る手前には滝川ダムの案内板があります。それによると、この滝川は毛無山(けなしやま:標高677m)を源とする川ですが、急流であることから降雨時には一気に増水する一方、晴天が続くと渇水するというややこしい河川だそうな。そこで農業用水の安定供給を図り、農業経営の安定向上に資することを目的としてこの滝川ダムが築造されたそうです。



案内板の隣には「清流豊穣」と題された滝川地区かんがい排水事業竣工記念碑があります。清流豊穣の典拠は不明ですが、文字通り訳せば「清き流れは五穀豊穣をもたらす」といった意味でしょうか。1998年10月建立。



その裏側に書かれている文章の内容は、上の案内板に書かれていることとほぼ同じ。追加内容としては工事の着手が昭和39年(1964年)で、完成が平成10年(1998年)くらいかな。





これらの案内板と石碑の先に行くとダムの左岸になります。左岸側には立派な洪水吐があります。



左岸のダム横から見たダム上の様子。



左岸、下流側からダムを見ると、こんな感じ。形式はフィルダムで、本当はこれを冒頭に載せようと思ったのですが草だらけで「絵的に」映えないのでやめました。



では、ダム上を歩いてみましょう(車両通行可)。洪水吐の水路に架かる橋から見た洪水吐の様子です。増水すると水はここから溢れ出て、



この水路を通って、あちらへ流れてゆきます。



ダム上、中央から見た貯水側の景色。



同じ場所から先ほど見た左岸側の洪水吐を見ると、こんな感じ。



一方、下流側はというと…もう木しか見えません。



対岸(右岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。



右岸、下流側の景色。やっぱり木だらけの面白味のない景色です。



右岸の貯水側にあるこの建物は管理所でしょうか。でも、それを示すものはありませんでした。



建物の土台のところには「定礎」のプレート。平成4年(1992年)7月とあります。



この建物からダムを見ると、こんな感じ。



正直な感想として、男鹿半島の山の中にこんな立派なダムがあるとは思いませんでした。そういえば、同名のダムが福島県双葉郡富岡町にもありましたね(参考)。また三重県伊賀市にもあるようですが(こちらは「たきがわ」)、そのうち行ってみようと思います。
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兎品沢の木製床固工

2022-08-04 06:51:39 | 秋田(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は秋田県南秋田郡五城目町兎品沢(ごじょうめまち とひんざわ)にある木製床固工(とこがためこう)を紹介します。アクセスは国道285号沿いにある「森山森林公園 五城目城 森山頂上」の看板のところを入り、道なりにしばらく登っていくと左側に現われます。

それが、こちら。



これね、実は偶然見つけたものなんです。道沿いに「木製床固工」と記された案内板がありゃ、そりゃ気づくわな。



施工の手順も写真で紹介されています。ここの床固工は2005年に作られたものだそうで。



早速、近づいてみます。前にもどこかで説明しましたが、床固工は高さが5m以下の築造物を指します。なので、簡単に、いわゆるダム横に行くことができます。そして、これがダム上の様子。全体が草に覆われているので「これは床固工だよ」と言われなければなんだかわかりませんね。



ダム上の中央から落水部を撮ったもの。いや、ホントになんだかわかりませんね。



ダム上から下流の道を見ると、こんな感じ。



この床固工は完全に木製なのでコンクリートに比べ強度は格段に落ちます。でも自然に優しいし、朽ちる頃にはまた作り直されるのでしょう。木製といえば、以前東京都青梅市にある栗山林道治山ダムもそうでしたね。もっとも、こちらは木製校倉式ですが。
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つつみ隠さず見せてよぉ…小倉堤

2022-08-03 07:03:29 | 秋田(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は秋田県南秋田郡五城目町内川小倉(ごじょうめまち うちかわおぐら)にある小倉堤(おぐらつつみ)を訪れます。ダム便覧では「大由沢(おおよしざわ)溜池」という名称でもあると書いてありますが、グーグル先生の地図や国土地理院の地図には「小倉堤」と記されているので、ここではそれに従うことにします。アクセスは国道285号沿いにある「R285ショップ」の交差点を北方向へ曲がり県道4号に入ります。しばらく行くと「←ストックヤード」の看板のある二又の道が現われるので左のほうの道に進みます。そして道はまたまた二又に分かれるので今度は右方向へ。そのまま進んで行くと目的地に到着です。

あと少しで到着というところで、な、なんと、行く手を阻むゲートが!向こうにダム上が見えています。



ゲートに寄りかかるようにして撮ったのがこれ。見えているのに行けない。それが一番ショックなんですよね。



そんなわけで、今回のドライヴはこれにて終了。ちなみに小倉堤という名称はここの地名に由来するものと思われます。ダム便覧の「大由沢溜池」の名称の由来はわかりません。
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築造は義なり…萩形ダム

2022-08-02 06:51:55 | 秋田(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は秋田県北秋田郡上小阿仁村南沢小阿仁奥山(かみこあにむら みなみざわ こあにおくやま)にある米代川(よねしろがわ)水系の萩形(はぎなり)ダムを訪れます。ダム名はその上流の地名が萩形なので、それに由来するものと思われます。アクセスは国道285号から県道129号(杉沢小阿仁線)へ入り、そのまま行くと到着します。

【小阿仁の由来】(参考
珍しい地名なので調べてみました。秋田県の三種町(みたねちょう)と能代市(のしろし)にまたがる房住山(ぼうじゅうざん:標高409m)一帯はその昔高倉長者と呼ばれる族長が支配していました。そのひとり娘である「たつこ」は成長して「阿仁」という名の婿をとります。その後長者に男子(実子)、つまり「たつこ」の弟が誕生します。高倉長者はあとになって財産争いが起きないようにとクジ引きで土地を分けることにしました。その結果、阿仁は米内沢(よないざわ:現在の北秋田郡森吉町)に、実子は現在の北秋田市鎌沢に住んでそれぞれの地を支配します。娘婿と実子はその後山地を開拓し、娘婿は大阿仁と呼ばれる現在の秋田内陸線「比立内駅(ひたちないえき)」付近の比立内地区を支配し、これに対し実子は「小阿仁」と呼ばれ、今回の当該ダムのある萩形地区を治めたことから後に上小阿仁村の誕生(1889年)に繋がったものと思われます。

ちなみに下小阿仁村と呼ばれる村も1889年に誕生していますが、1995年3月末日をもって3村(上大野村、下大野村、落合村)と合併して北秋田郡合川町(あいかわまち)となり廃止。さらには2005年3月22日に鷹巣町(たかのすまち)、森吉町、阿仁町と合併して現在は北秋田市になっています。ところで、以前訪れた「玉川ダム」の記事の中で「辰子伝説」を紹介しましたが、この辰子は「たつこ」とは別の人物なのでしょうか。両者は地理的には近いので、もしかすると同一人物なのかも?

【米代川の由来】(参考
ついでに米代川の由来も調べてみました。この地域に古くから伝わる「だんぶり長者」という民話によれば、米のとぎ汁で川が白く濁ったことから昔は「米白川」と呼ばれていたそうな。ちなみに「だんぶり」とはトンボのこと。でも、なぜ「白」が「代」に変わったんでしょうねえ。

まあ、そんなこんなで到着しました。この県道129号、なかなかの「険道(険しい道)」で驚き。ダム横へはトンネルの手前から入っていきます。辛抱して走ってきた甲斐もあり、「ご尊顔」も心なしかステキに見えます。



左岸のダム横には次のように記された碑があります。転記すると、

「治水の技術 こゝに集中せり 小阿仁の開発 これより始まる」

なんだか気合いが入っている文言ですね。これはどういう意味なんでしょうか。次に書かれた一文で謎が解けました。つまり萩形ダムは秋田県による県営ダムとして最初の築造物だったのです。そりゃ気合も入るわなぁ。





その背後には慰霊碑があります。裏側にはダム建設で亡くなられた7人の名前が刻まれています(うち1人は病死)。合掌。





ダム本体の親柱に相当するところには「萩形ダム」のプレートが嵌め込まれています。昭和41年(1966年)10月竣功とありますね。



これが左岸から見たダム上。歩いてみましょう。



ダム上、中央から見た貯水側の景色です。



一方、ダムの真下を覗くと…、後で知るのですが高さが61mにしては高く感じました。写真中央上に見える道路沿いにある建物が萩形発電所。



そして下流側の遠景。よくもまあこんな場所にダムを築造したなと改めて思います。



対岸(右岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。向こう(左岸)に見えるオレンジ色の屋根の建物がどうやら管理事務所のようですね。後で行ってみましょう。



右岸、上流側から見たダムの様子。



同、下流側から見ると、こんな感じです。



ダム上から見た管理事務所です。一般の見学者があそこへ行くには一旦県道へ出て、短く狭いトンネルを潜らないといけません。せっかく来たので行ってみます。



管理事務所の壁には「萩形ダムのあらまし」が記された案内板があります。それによると、洪水調節、流水の正常な機能維持、発電の3つの目的をもつ多目的ダムだそうです。昭和36年(1961年)に着工し、昭和41年(1966)10月に完成。



萩形発電所の案内図。この運用開始は比較的新しく、2014年4月。(参考



この管理事務所は萩形ダムだけでなく、森吉ダム(未見)の管理事務所も兼ねているんですね。



管理事務所から見たダムの様子。



最初にダム名は萩形という地名に由来すると書きましたが、萩形とその読み方(はぎなり)の由来もわかりませんでした。記録によると、この地は江戸時代には狩猟を生業とするマタギが住んでいて、萩形ダムの完成により10戸が水没、30戸が離村したことでマタギたちも消えたそうな。もしかすると、150年近く続いたマタギの狩猟文化がそうした特殊な読み方を生み出したのかも。知りませんが。
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