ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

歴史的価値があるかも?…寺ヶ池

2022-08-31 06:57:20 | 大阪(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回はダム便覧に出ていた大阪府河内長野市木戸町(かわちながのし きどちょう)にある大和川水系の寺ヶ池を訪れます。アクセスは国道310号近くの南海高野線「千代田駅」の南西にある寺ヶ池公園の北端になります。

見えてきました。これですね。左岸側に洪水吐があるようです。



左岸、貯水側から見たダム上。向こうに高層マンションが見えますが、そうです、ここは市街地の中にあるんです。だから感覚的には、とてもダムとは思えません。写真左下に見えるのが洪水吐。



左岸、ダム横から見たダム上。手前の橋の下が洪水吐からの水路。



池が増水すると、先ほどの洪水吐から溢れた水はこの水路を通ってあちらへ流れてゆきます。



ダム上にはいくつかの石碑があります。一番左岸寄りにあるこの碑は「寺ヶ池築造350年記念碑」。平成11年(1999年)建立。寺ヶ池は、もともとこの地にあった寺ヶ池という小さな池を河内長野の庄屋である中村輿次兵衛勝直(なかむらよじべえかつなお:1600/01-1670)が妙法寺平(現在の千代田駅北側)に新田開発をするために改築を発案したもので、1649年に完成したものらしい。(参考



これは「須田翁頌徳碑」。須田翁とは誰ぞ? 調べてみるとここがまだ千代田村だった頃の村長、須田孝なる人物の功績を讃えたものらしい。大正11年(1922年)に建立されたそうな。(参考)なお、この千代田村の名称は大正天皇(1879-1926)の即位(1912)にちなみ江戸城(現在の皇居)の別名である千代田城に由来するもので、千代田村は1916年4月1日より市新野村(いちしのむら)から改称して発足し、1940年6月1日、長野町(ながのちょう)に合併するまで存在していました。



少し中央寄りには3つの石碑が並んでいます。向かって右にあるのは「祐和碑」。「祐和」とは上に記した中村輿次兵衛が隠居後極楽寺に入った際の名前(号)。そこには輿次兵衛の功績が記されています。石碑は明治22年(1889年)に建立され長らく中村家の前にあったものをここへ移設したという。真ん中にあるのは昭和14年(1939年)に樋管伏替工事を行なった際の記念碑。木製の樋からコンクリート製のものに交換したらしい。



そして左にある石碑は「寺ヶ池改築記念碑」。これは昭和44年(1969年)に改築工事を行なった際のもの。


ダム上、中央から見た寺ヶ池の景色。



同、下流側の様子。ご覧の通り、近くは住宅地。



対岸(右岸)に来ました。振り返ると、おじさんが歩いています。そう、ここは近所の人たちの散歩道でもあるようです。



実際に行ってみると街の中にある大きな池という印象ですが、調べてみるとそれなりに意味のある池であることがわかりました。なるほど、なるほど。
コメント