ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

ゆらぁり、ゆらぁり

2005-08-16 18:26:44 | 脳みその日常
本日昼頃、東北から関東にかけて地震が発生。みなさまのところはいかがだったでしょうか。怪我などなければよいのですが。

それにしても今回の地震は穏やかな水面に浮かぶ小舟に乗っている感じだった。ドカン!と揺れるのでなく、長い時間をかけてゆっくり、ゆっくりと横に揺れていたからねえ。

たとえば「低周波震動」による不快感というのはよく知られている。人間の耳では感知できない低い周波数の発生により日常生活に悪影響を与えるというものである。今回の地震のイメージはまさにそんな感じだった。もっとも、低周波がすべて悪いというのではないらしい。「低周波音楽が不眠に利く」なんてことを唱えているサイトもあるからね。実際のところはどうなのか知らないが。

いずれにしても、そうした穏やかな揺れの地震だと、幸いなことにワシの家に被害は出ない。ドカン!と揺れると部屋にある様々な資料はドサン!と崩れるけれど。

でも、どのような揺れ方であれ、揺れないと思っている地面が揺れるのはやはり気持ちのよいものではない。地震学の発達していなかった昔の人々がこうした現象を「神の祟り」とか「不幸の前触れ」のように感じたのも無理はない。

実際1782年に起こった「天明地震」に続き、翌年には「浅間山が大噴火」している。その大量の降灰と日照不足の影響で1782年から86年にかけて歴史に名を留める「天明の大飢饉」が起きたのは周知の事実。そんな状況を目の当たりにすれば人々が地震を不吉なものとみなしたのも当然である。おそらく現代の我々の想像を超えた恐怖に怯えていたのではなかろうか。
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手のひらセンサー

2005-08-15 17:27:09 | 脳みその日常
どこぞのアヤシイ宗教とは無関係の話なので誤解なきように。

ほかの人はどうなのか知らないが、ワシの左手には特殊な能力があるらしい。というのも、左手を他人の身体に「かざす」だけでその人の悪い部分を感知できるからである。もちろんワシは超能力者じゃないので患部を治療することはできない。ただ手のひらが患部を発見するにすぎない。

先日も友人と会い、その話になった。興味をもった彼女は「じゃあ、試しにやってみてよ」と頼むので実験を開始。いくら直接身体に触れないとはいえ、さすがに身体の前面に手のひらを「かざす」わけにはいかない。セクハラ・オヤジと訴えられても困るし…。それで後ろを向いてもらい、背中を「かざす」ことにした。

すると位置的には腎臓のちょっと下あたりの部分でワシの手のひらに反応があった。そもそも悪い部分のところへ手のひらが来ると、自分の手のひらがジーンと熱くなるのでわかるのである。念のためそのあたりを確認しながら「かざす」。どうやら同じ高さのところの2カ所で反応がある。さりげなく尋ねた。

「あのさ、卵巣に異常があるように感じるんだけど」

背を向けていた友人は驚いて振り向いた。

「な、なんでそんなことがわかるのよ!」
「いや…手のひらが感知したからさ」

改めて聞けば、友人には以前から卵管に問題があったのだという。そんなことはもちろん初耳だ。念のため近いうちに医者にみてもらったほうがいいよ、とアドバイスしておいた。もっとも、被験者自身が鋭い感覚をもっていればいるほど、ワシが手のひらに感じた熱と同じものをその部分に感じるらしいが。いずれにせよ、手のひらの真ん中あたりにセンサーがあって、たぶん「気」というやつを発することで病巣を感知するのだと思う。

人間は誰でも「気」を発するらしいから、こんなことはやろうと思えば誰でもできるはず。一番分かりやすい例としては、突然お腹が痛くなった時に思わずお腹をさするでしょ? あれと同じ。さすることによってどうなるわけじゃないけれど、さすっているうちに痛さは和らいでくる。きっとそれも手のひらから発せられる「気」が痛みを和らげるからなのだろう。いや、何の根拠もないけどね(笑)

そんなセンサーがあるんなら、パソコン用のバックアップHDDの不調もどうにかできないかなと思ったり…。気温のせいなのか、HDDがイマイチ調子が悪いのである。仕事面においてこのHDDはワシの脳みそにとってなくてはならない存在なのだ。コイツの中に今までのワシの原稿のデータがすべて収められているからである。万一火災が発生したら、まず持ち出すのはこのHDDと決めているほどだから。

でも、相手は人間じゃないので「手のひらセンサー」は役に立ちそうにない。ったく、困ったもんだ。
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呆れるねぇ…まったく

2005-08-14 17:28:21 | 脳みその日常
NHKがまたバカなことを考えているらしい。

>NHKは公開番組の観覧申し込みについて、受信料を支払っている人に限定する措置を取ることが、13日分かった。NHKが公開番組への入場で受信料支払いを条件とするのは初めて。増加する受信料不払いへの新たな対応策となる。(参考記事)

「NHK歌謡コンサート」といった公開番組に応募してきた者に対し、「受信料の契約台帳を照合し、支払いを確認」したうえで入場整理券を配布するのだとか。あのさ、NHK側の主張したいこともわかるけど、それはちょっと違うんじゃないか?

そもそも受信料の支払を拒否するようになったいきさつを考えてみろよ。多くのバカ職員のやった愚弄行為で「NHKは信用ならん!」と契約者が感じたからこそ支払を拒否するようになったわけだよな? だとすれば、まずは信用を取り戻すことに努めるのが先じゃないのか?

今だってまだ世の中の人々はNHKに対して不信感を持っているに違いない。状況がロクに改善されていないのに、受信料を払った払わないどーのこーので、番組を見せる見せないっていうのも、どうかと思うぞ。

それはさておき、同じ公開番組でありながらなぜ「NHK歌謡コンサート」の場合は無料で、NHK交響楽団主催の演奏会は有料なのだろうか。同じ音楽でありながらどうしてそこに違いが出るんだろう。たたでさえクラシック音楽は隅へ押しやられているのに、「聴きたければカネを払え」ってのも、どうなのかと思うのだが。

NHKとNHK交響楽団は別の組織だからという意見もあるだろう。それはそうかもしれない。でも身分のうえではどちらも変わらない。両者ともに国から給料をもらっているという意味では。でも、国が運営している音楽番組ならば、ジャンルが違っても同じ条件でやるべきじゃないのか?

受信料は払っているのにクラシック番組をナマで鑑賞する場合は別途カネを払わなければならないんだぜ。その論で行くなら「NHK歌謡コンサート」だって有料にすべきじゃないのか? なぜ「NHK歌謡コンサート」の場合は特別扱いなんだ? おかしいだろ。
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305円の恐怖の迷路

2005-08-13 22:07:56 | CD/DVD
夏といえば「お化け屋敷」と相場は決まっている。だからというわけではないが、今回はそれに因むCDをご紹介しよう(笑)いらないって? まあまあ、そう言わずに。

CDショップでたまたま見つけたのが「THE HORROR MAZE」というアルバムである。ジャケットを見る限り、これがクラシックとは到底思えない。ヘヴィ・メタルのアルバムであっても何ら違和感はない。いや、それにしてはちょっとデザインがダサいと叱られそうだが。いずれにしても、中身はマジでクラシック音楽なのである。

そうはいっても、アルバム・タイトルが「THE HORROR MAZE (恐怖の迷路)」なのだからマトモな曲が入っているわけじゃない。そう、まさに「それらしい曲」が収録されているのだ。フィーチャーされている作品のラインナップは以下の通り。

・J.S.バッハ《トッカータとフーガ》ニ短調の最初の部分
・ムソルグスキー《はげ山の一夜》(抜粋)
・ストラヴィンスキー《魔王カシチェイの踊り》←バレエ音楽《火の鳥》のなかに含まれる曲
・サン=サーンス《死の舞踏》←な、なんとオルガンによる演奏!
・ショパン《葬送行進曲》
・ベルリオーズ《魔女のサバトの夢》←《幻想交響曲》の第5楽章
・J.S.バッハ《トッカータとフーガ》ニ短調の最終部分

このアルバムの魅力は、なんといってもストーリー性があること。ただ単に曲を並べただけでなく、曲と曲の間には「おどろおどろしい効果音」や、迷路を歩んでいる人がいかにも恐怖に怯えているかのような雰囲気や足音などが「つなぎ」として盛り込まれている。化け物の息づかいなども入っていたりして、もう涼しさと楽しさは満点。そのへんにあるオバケ屋敷なんて話にならないほどオモシロイ。それにほんの305円(!)で楽しめるのだから、これはお買い得である(笑)

ちなみにリリースされたのは1999年。発売元は「siren records」。ははーん、ジャケットがヘヴィメタっぽいのはそのせいか。なるほどねえ。
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鮮明な記憶

2005-08-12 13:53:16 | 脳みその日常
20年前の今日、日航機が御巣鷹山へ墜落し、520名の尊い命が一瞬にしてこの世から消えた。未だに詳細な原因は明らかでなく、責任の所在も明確化されていない。遺族にとっては本当にやりきれない思いだろう。

乗客のなかにワシの身内も知り合いもいなかったのだが、この日のことは今でも鮮明に覚えている。あの日も本日のように暑い日だった。夕方、実家へ到着し、挨拶もそこそこに茶の間のテレビのスイッチを入れた。何と最初に映し出されたのが「日航機墜落」のテロップだったのだ!

「日航機が墜落したってよ!」

誰に叫ぶでもなく、思わず言葉を発してしまった。すると、台所にいたオフクロが驚いて茶の間へ。しばらくは2人でテレビを食い入るように見ていたっけ。

時が経つに連れて乗客の情報が明らかになった。そのなかには歌手の坂本九さんも含まれていたことを知る。なんてことだ!

しばらくして、オヤジが仕事から帰ってきた。この日の食卓はワシの久々の帰省のことよりも墜落事故がメインとなる。おそらくその時茶の間にいた家族は揃って同じショックを受けていたように思う。

確か夕飯のおかずのひとつにはオフクロの得意料理のコロッケがあった。今でもオヤジは時々「あれ(=オフクロ)の作るコロッケはうまかったな」と回想することがあるが、それほどウマいコロッケだったのである。

たぶんあの日もそのコロッケを食ったには違いなかった。しかし、その味の記憶はない。それほどまでにあの事故がワシの心に与えた衝撃は強かったのだろう。

亡くなられた方々のご冥福を祈るばかりである。
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久々の朝帰り

2005-08-11 17:29:15 | 脳みその日常
おとといの話。夕方からピアニストのTさんと新宿の「しゃ菜り」で呑む。この店の創作料理はなかなか旨いので気に入っており、しばしば利用させてもらっている。料理も良いのだが、何といってもここではワシがお気に入りの「久米島の久米仙」が呑めること。久米仙は泡盛の銘柄のひとつで、クセがなく呑みやすいので気に入っている。それにいくら呑んでも二日酔いにならないのがイイ。

そんなわけで、何杯呑んだか覚えていないほど呑み、旨い肴をつまみながらTさんの話を聞く。ワシも10代半ばまではピアニストを目指していたこともあり、Tさんの話はとても興味深かった。どんなジャンルでもいいが、専門家と話すのは何より楽しい。何せ彼らはその道のプロフェッショナルだから本当のことを話してくれるからね。

話に花を咲かせていたら、もう閉店時間に。うーん、まだ話し足りない感じだ。互いにそう思ったようで、次の店を探す。

この日は平日にもかかわらず、どの店も人が多かった。困ったな、どうしようかな。そう思いながら、ふと見上げると明け方までやっているカラオケの看板が目に入る。「よし、ここで呑み直しますか?」「ですねえ」

ワシはカラオケをやらないわけじゃないが、この日は呑んで話すのが目的。だから1曲も歌わずに、すぐアルコールを注文する。もっとも、カラオケ屋に旨い酒はない。でも、とりあえずデカいボトルのワインをオーダー。話の続きが始まる。

周囲の部屋から漏れ聴こえてくるアップテンポの音楽を肴に話は進み、ついでにグラスも進む。そんなこんなで閉店の明け方になる頃にはデカ・ボトルのワインが2本カラになっていた。気づけばほぼ12時間呑み続けていたことになる。いやー、久々の朝帰りだ。心地よい気分のまま始発電車で帰宅。

ワシは自宅ではアルコールを1滴も呑まないが、呑むと決めたらかなり徹底的に呑むほうだ。それでも最近ではめっきり呑む機会も減っている。朝まで呑む仲間が少なくなったこともある。まあ、飲み過ぎないのだから健康には良いのだろうが。でも、呑み仲間が減ったのはちょっと寂しい。
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風変わりな協奏曲

2005-08-10 17:42:44 | CD/DVD
協奏曲といえば、独奏楽器とオーケストラという楽器編成である。独奏楽器として一般に馴染み深いのはピアノとかヴァイオリンであろう。ところが、ここでご紹介するアルバムでは珍しい楽器が独奏楽器として大活躍している。

最初の作品はジャン・バック(b.1937)の《スチールパンと管弦楽のための協奏曲》(1994)。スチールパンというのは、いかにも今の季節にピッタリなエキゾチックな楽器である。それが独奏楽器として協奏曲のなかで使われるのだからなかなか面白い。それにしても上にリンクしたジャン・バック自身のサイトはなかなかオチャメだ。

次はモートン・グールド(1913-96)の《タップダンサーと管弦楽のための協奏曲》(1952)。うーん、タップダンサーは楽器じゃないけど、それを独奏楽器と考えたところがグールドの「ひらめき」というべきか。もっとも、音だけ聴いているとタップはただバタバタとうるさいだけなので、こういう作品はやはりライヴで鑑賞するに限るだろうな。

3番目の作品はアルゼンチン生まれの作曲家、グスタボ・レオーネ(b.1956)の《ハープ協奏曲》(1995)である。これはコンチェルタンテ・ディ・シカゴの委嘱によって書かれたもの。ハープを独奏楽器とする協奏曲は特に珍しいわけではない。なので、このアルバムのなかでは「かなりマトモ」なほうであろう。

極めつけは最後のベネズエラに生まれた作曲家リカルド・ロレンツォ(b.1961)の《マラカスと管弦楽のための協奏曲》(1999)。おいおい、独奏楽器がマラカスかいな…。ずいぶんとマラカス(笑かす)じゃねーか。で、その音楽はというとなかなかドラマチックなオーケストラの「伴奏」の合間を縫ってマラカスが「シャカ、シャカ…」。ムムム、一体なんだろうねえ。コメントしづらい作品ではある。助けてくれぇー。
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あらえびす、啄木、そして賢治

2005-08-09 13:24:11 | 音楽あれこれ
あらえびす(1882-1963)をご存知だろうか。そう、20世紀前半に活躍した日本の音楽評論家である。音楽に関心のない人には「銭形平次」の作者である野村胡堂といえばピンとくるかもしれない。(年譜はこちら)

つい最近知ったのだが、あらえびすの故郷には「野村胡堂・あらえびす記念館」なるものがあるらしい。記念館が建設されたのは10年前の1995年で、総工費8億円(!)だそうだ。また、所蔵していた7,000枚(!)ものSPレコードが展示されているという。さらに私財1億円を投じて「野村学芸財団」を設立。それは育英資金や研究助成に貢献している。さすが天下のあらえびすセンセイ、すべてにおいてスケールが違う。ちなみに類似する助成金団体に「野村財団」というのがあるが、それとは全く関係はない。

あらえびすの故郷、岩手の有名人には石川啄木(1886-1912)もいるが、もう少し後輩には宮澤賢治(1896-1933)もいる。おいおい、錚々たる顔ぶれじゃないか!

宮澤賢治が無類の音楽好きであったことはあまりにも有名である。どこのサイトにあったか忘れたが、あらえびすが東京にいる頃、当時の岩手県では賢治が一番SPを所有していたという。つまりレコード会社にしてみれば賢治は「上得意」であり、感謝状を授与されたのだとか。

それにしても、なぜ明治・大正の時代の岩手県でそれほどの音楽情報が収集できたのだろうか。別に岩手県をバカにしているのでなく、純粋に不思議に思うのである。現代とは異なる瞬時に情報が伝わらない時代にあって、恐ろしいほどの音楽情報を入手していた賢治。

たとえば、ドヴォルザーク(1841-1904)が《新世界交響曲》を作曲したのが1903年なのに、その21年後の1924年に賢治はその第2楽章の旋律に「種山ケ原」というタイトルをつけて歌っていたという。ドヴォルザークの同僚のフィッシャーがアメリカで「Goin' home」という歌詞を付けたのが1922年ということを考慮しても、本当にスゴイことだと思う。(参考サイト)

あぁ、なんだか東北へ行きたくなってきた…
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バラキレフのピアノ音楽

2005-08-08 06:19:55 | CD/DVD
おとといの原稿ではセレクトしなかったものをここでご紹介しよう。しつこいと言うなかれ。単に暑くて外出することがなかったのでネタがないというだけの話。

ミーリ・バラキレフ(1837-1910)といえば、言うまでもなくロシア五人組のなかで中心的な役割を果たした人物として知られている。とはいえ、このオッチャン、まともな音楽教育を受けたわけではない。まさにもって生まれた才能だけを頼りに作曲を行なったといっても過言ではないのだ。そう、言うなれば「感覚だけの人」である。

この人にとって作曲理論なんて「屁」みたいなものと思っていたから、後年同じ五人組の仲間であるリムスキー=コルサコフ(1844-1908)が懸命に作曲理論を学び、リムスキーから「これこれこういう作曲法があり、それに照らし合わせると…」と教えられても、「ほー、だから何だよ」みたいな態度を取って両者の関係が険悪になったのは有名な話だ。

傲慢といえば聞こえは良くないが、バラキレフにはそれほどまでに自分の才能に絶対的な自信があったということなのだろう。それは武満徹(1930-96)が終生「自分はアカデミックな勉強をして来なかった」というコンプレックスに苛まれ続けたのとはまさに対照的である。もっとも、バラキレフの時代のロシアでは現代のように作曲法の書物がほとんど普及していなかったという事情もあるのだが(なかったわけではない!)。

それはさておき、バラキレフのピアノ作品で思いつくのはまず《イスラメイ》(1869初版/1902改訂)であろう。というより、ほとんどの人は《イスラメイ》以外の作品は知らないのではないか。音大の学生でも試験で《イスラメイ》を弾いたことはあっても、「じゃあ、バラキレフの他の作品を弾いてみて」と言われたら、たぶん99パーセントの学生はピアノの前でフリーズすること間違いなし! 100パーセントにしなかったのは、なかにはバラキレフ・マニアもいるかもしれない、いや、いて欲しいという希望的観測からである(笑)

エラソーなことをほざいてはいるが、ワシとて他には変ロ短調の《ピアノ・ソナタ》ぐらいしか思いつかなかったのだからドングリの背比べである。お恥ずかしい。

ともかく、このアルバムはバラキレフの作ったピアノ作品が6枚のCDにすべて収められた貴重なものである。しかも値段がまたリーズナブルなのだ。税抜きで2,800円ぐらいだし。ただ、発売元は「ブリリアント・クラシックス.com」という微妙にアヤシイ外国の会社。アヤシイといってもイカサマをしているのではない。簡単にいえば版権の切れた録音テープを元の会社から許可を得て自分のレーベルとして再発売しているということ。

でもなあ、「www.brilliantclassics.com」というURLが商品に書いてあるのに実際にアクセスしてみるとそこから「Joan Records」というオランダの会社に飛ぶのもアヤシイ要素のひとつではある。ちなみに、今回ご紹介した録音のオリジナルの版権は「ESS.a.y.Records, USA」という会社が持っているようだ。あれっ、でもそのサイトでも自社レーベル商品として販売してるじゃないか! しかも50ドルで…。もっとも、こちらが正規の値段だとは思うが。うーむ、やっぱり「ブリリアント・クラシックス.com」はクサい。海賊盤のレーベルかもしれん。ま、そんな情報はどうでもいいか。

演奏しているのはアレクサンダー・パレー(b.1956)というモルダヴィア(現モルドバ共和国)生まれのピアニスト。そのプレイはムチャクチャすごいというわけではないが、むしろひと通り聴いて思うのは、バラキレフという作曲家はかなりピアノが達者だったんだなと気づいたこと。まあ《イスラメイ》みたいな曲を書くぐらいだから当然といえば当然なのだが。

グダグダと書いてきたが、これはバラキレフ・フリークにはオススメのボックス・セットである。
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「ながら脳」のできない脳みそ

2005-08-07 13:03:26 | 脳みその日常
同業者のなかには驚異的な脳みその持ち主がいるらしい。限られた時間のなかで、信じられないほどのレビューを書くからである。どうやったらそんなに仕事がこなせるのだろう。ワシなどは音楽を聴きながら原稿を書くなど絶対にできないからである。音楽を聴く時にはじっくり耳を傾け、他のことは一切しない。そして原稿を書く時にも他のことは一切考えない。いや、考えられないと言うほうが正しい。

つまり、音楽の新譜批評をするにあたって、ワシの場合は音楽を聴く時間とそれを書く時間が必要になるというわけだ。単純な脳みそしか持たない人間からすると、同時にいくつものことができる人は本当にスゴイと思う。

昨日書いたような原稿の場合、たかが4枚ほどの原稿なのにやたらと時間がかかった。まず20枚ほどのCDを聴く時間が必要だからである。そこから5枚をセレクトして原稿を書く。1枚のCDあたり1時間としても聴くだけで20時間かかる勘定になる。もうそれだけで発狂しそうになるのだが…。もっとも、なかにはくだらないCDもあるので、実際には20時間聴き続けているわけじゃない。それでも10数時間は聴いていただろうか。

さて、その作業が終わるとようやく原稿に取りかかることになる。実はもうこの時点で仕事は終わったも同然なのだ。書く内容はすでに頭のなかで決まっているのだから、あとは文章化するだけ。せいぜい2時間もあればこの原稿は書けてしまう。

それにしても原稿料から計算してみると何と効率の悪い仕事であることか。単純に時給で換算すると、とてもここには書けないほど恥ずかしい金額になる。そう考えてみると「ながら脳」の持ち主は羨ましいなとつくづく思う。

ところが、そこにはちゃんとオチがあった。「ながら脳」で仕事をしているという人に話を聞いたところ、時間的に無理だなと判断した場合はロクに音楽を聴かずに書くのだとか…。おいおい、そりゃマズイだろ。
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赤字もいいとこ

2005-08-06 12:51:49 | 音楽あれこれ
ある音楽雑誌から「最近聴いたCDで面白いものを5枚紹介してくれ」との依頼を受ける。

面白いものねぇ…。もちろんクラシック音楽の範疇だから爆笑したCDなんてまずあり得ないし。

そもそも「面白い」っていう依頼が困るのだ。なぜなら奇妙キテレツな演奏も面白いといえば面白いものに属するからである。でも、そんなヘンテコな演奏を紹介しても仕方がない。何よりその雑誌は一応真面目な内容のものだからねえ。そんな雑誌にいわゆるエグいCDを紹介したらどうなるか…。簡単である。ワシの評論家人生に終止符が打たれるだけのこと。そりゃさすがに困る。

というわけで、マトモなCDを探しにショップへしぶしぶ出掛ける。なんでわざわざ出掛けるのかと思うかもしれない。最近購入したCDをチェックすればいいではないか、と。いやいや、何をいつ買ったのかなんて覚えてないっての。だから確認の意味も込めて出掛けたのだ。既に購入したものであれば買わなければ済むことだし、買ってなければ購入しなければならないから。

恐ろしいのはショップの魔力である。たとえばスーパーへ行くと目玉商品以外でもついつい買ってしまうのと同じく、CDショップもワシにとってはスーパーそのもの。目についたものは「おっ、これはいいな」とか「ややっ、こんなものがあるのか」などと狂喜乱舞してしまう。結局、原稿には関係ないものまでドッサリとお買い上げ(泣)

なんてこったい!
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知っていたのか

2005-08-05 04:37:48 | 脳みその日常
神奈川県の道路を走っていたら、まるで予言者のような歯医者さんを発見。その名も「しょーしか」。いつ開業したのかは不明だが、近年の「少子化」をまさに予見したようなネーミングである。とはいえ、これからの経営も大変なんだろうな、と余計な心配をしてみたりして。

夜中の午前3時すぎにこんなものを撮っているワシって、一体…
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クソ日記を書く楽しさ

2005-08-04 19:19:49 | 脳みその日常
何が楽しいのかって? 理由は簡単だ。自分の思考回路で書けるからである。「そんなの、オマエの書くすべての文章がそうだろう」と思うかもしれない。確かにそうなのだが、厳密に言えば違う。

ここで書いている文章は基本的にはワシの脳みそからわき上がってきたものである。汲めども尽せぬくだらない発想をまとめたのが、ほぼ毎日お届けしているこのクソ日記に他ならない。ここには原則として他人の脳みそが介入する余地はない。だから楽しいのだ。

仕事柄、何かを説明する文章を書く機会は多い。そのほとんどは作品の解説だったりするのだが、この手の仕事というのは本当に面白くない。いや、正しく言えば疲れる。なぜ疲れるのか。それは他人の思考回路にとりあえず同調してみなければならないからだ。

解説する対象が、面識もなく、何の魅力も感じられない作曲家の場合だと最悪だ。「こんなつまらん脳みそに潜り込まなければならないとは何たる悲劇だろうか!」などと思ったりもする。「ワシはそういう風には考えんぞ」と思っても、解説だからそいつの脳みそに従って書くしかない。だから疲れるのである。

たまに翻訳の仕事をすることもあるが、やはり同じ気分になる。翻訳とは、ただ即物的に日本語にすればよいという単純作業ではない。文章にはそれぞれ独特の言い回しがあるように、著者によってはひとつの単語であっても違ったニュアンスで使用するケースがあるのだ。翻訳する人間はそれをうまく汲み取れなければダメ。つまりは、いったん著者の脳みそに潜入する必要があるのだ。うまく潜り込めないと、なぜここでこんな単語を使うんだろうということが皆目わからないからである。

時々、読んでもサッパリ意味が分からない翻訳書に出くわすことがあるが、それは翻訳家自身が著者の思考回路に同調できていないからである。もっとも、基本的な翻訳能力がないのはハナからお話しにならない。特に専門書を翻訳する場合は注意を要する。専門知識がないと、とんでもない恥ずかしい間違いをすることもあるからだ。

たとえば、movement という単語がある。普通の意味では「移動、運動」だが、音楽では「楽章」の意味で使われたりする。それを知らないと first movement は「最初の運動」なんて誤訳をするハメになる。この場合の正解は言うまでもなく「第1楽章」だ。この例は当時『The New Grove』の日本語版の編集の手伝いをしていた時に偶然見つけた本当の話である。

これはまだ初歩的な間違いだから許そう。次の例は笑うに笑えない。ある人が現代音楽の本を訳した。そのなかに music of change という語があるのだが、なんとその人は「変化の音楽」と堂々と訳しているのだ! この人が少しでもジョン・ケージ(1912-92)についての知識があれば絶対にこんな訳はしない。ここで言う change とはもちろん「易」の意味だからである。最初にこの訳書を目にした時には心底驚いた。目玉から視神経が抜けるんじゃないかと思うほどビックリしたことを思い出す。

いずれにしても、わからないと本当に疲れる。そんなことなら、いっそのこと自分で書いたほうがよっぽどラクだなと思うことも、しばしば。そうした意味で翻訳を生業にしている人はワシにとっては雲の上の存在に等しい。いつもながら、すごいなあと思う。
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猛暑でのロシア語学習

2005-08-03 16:40:25 | 脳みその日常
暑い時こそ前向きに生きる。そう思わなければ余計にバテそうな気がするから。で、思いついたのはロシア語を復習すること。しかし、ただでさえ暑いのにこんな時に読書をするなんて正気の沙汰ではないと思うだろう。そりゃそーだ。暑けりゃ、集中力もなくなるもんね。

そこで、テキストとして本棚から引っ張り出してきたのは右に示した本である。これはソフィヤ・ヘーントヴァ(1922-2002)が著した『指揮者ロストロポーヴィチ』(1993)。ヘーントヴァといえば一般には作曲家ショスタコーヴィチ(1906-75)の研究者として有名であろう。代表作のひとつとしては『驚くべきショスタコーヴィチ』(筑摩書房 1997)がある。

ただし、ショスタコーヴィチの評伝についてはローレル・F・ファーイの『ショスタコーヴィチ ある生涯』(2002初版/2005改訂 アルファベータ)が近年ではその内容にかなり信憑性のあるものとされている。だが、ロシア音楽の専門家として知られるイアン・マクドナルドが、そのレビューにおいてファーイの方法論などに些か疑問を呈しているのは誠に興味深い。


話がそれてしまった。ヘーントヴァに戻ろう。その著書『指揮者ロストロポーヴィチ』を開いてみると、右に見る通り、左側にロシア語、右側に英語が併記されている。つまり、これは露英辞書のようなもので、ロシア語の内容がわからなければ横にある英文を見ればよいという便利な代物なのだ。

ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(b.1927)は指揮者でもあるが、優れたチェリストでもある。本書はロストロポーヴィチの指揮者としての側面に焦点を当て、彼がどのような経緯で指揮者になったのかが綴られている。したがって、内容はさほど難しいものではない。ただ、ネットで検索する限り本書は現在のところ絶版になっているようだ。

もっとも、ヘーントヴァの著作には『ロストロポーヴィチ チェロを抱えた平和の闘士』(新読書社 2005)というのもあるようだが、今回ワシがチョイスしたのとは全くの別もの。まあ、そんなことをしながらワシは猛暑を凌いでいるのである。

そういえば、昨晩後輩のT君から急な仕事の依頼があった。全部で8つの演奏会の曲目解説を2週間ほどで書いてもらえませんか、と。ヒマを持て余していたところなので快諾するも、タイトな日程に軽いめまいを覚える(笑)

よし、頑張ろう!
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うわっ…

2005-08-02 19:52:35 | 脳みその日常
せっかく本日のブログを書いていたら、うっかりブラウザを閉じて消してしまった。
キョーレツに鬱である。
うーん、かなり気合いを入れて作ってあったのになあ。
暑さ故に、油断したのかもしれん。
うぅぅぅぅ。
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