ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

あらえびす、啄木、そして賢治

2005-08-09 13:24:11 | 音楽あれこれ
あらえびす(1882-1963)をご存知だろうか。そう、20世紀前半に活躍した日本の音楽評論家である。音楽に関心のない人には「銭形平次」の作者である野村胡堂といえばピンとくるかもしれない。(年譜はこちら)

つい最近知ったのだが、あらえびすの故郷には「野村胡堂・あらえびす記念館」なるものがあるらしい。記念館が建設されたのは10年前の1995年で、総工費8億円(!)だそうだ。また、所蔵していた7,000枚(!)ものSPレコードが展示されているという。さらに私財1億円を投じて「野村学芸財団」を設立。それは育英資金や研究助成に貢献している。さすが天下のあらえびすセンセイ、すべてにおいてスケールが違う。ちなみに類似する助成金団体に「野村財団」というのがあるが、それとは全く関係はない。

あらえびすの故郷、岩手の有名人には石川啄木(1886-1912)もいるが、もう少し後輩には宮澤賢治(1896-1933)もいる。おいおい、錚々たる顔ぶれじゃないか!

宮澤賢治が無類の音楽好きであったことはあまりにも有名である。どこのサイトにあったか忘れたが、あらえびすが東京にいる頃、当時の岩手県では賢治が一番SPを所有していたという。つまりレコード会社にしてみれば賢治は「上得意」であり、感謝状を授与されたのだとか。

それにしても、なぜ明治・大正の時代の岩手県でそれほどの音楽情報が収集できたのだろうか。別に岩手県をバカにしているのでなく、純粋に不思議に思うのである。現代とは異なる瞬時に情報が伝わらない時代にあって、恐ろしいほどの音楽情報を入手していた賢治。

たとえば、ドヴォルザーク(1841-1904)が《新世界交響曲》を作曲したのが1903年なのに、その21年後の1924年に賢治はその第2楽章の旋律に「種山ケ原」というタイトルをつけて歌っていたという。ドヴォルザークの同僚のフィッシャーがアメリカで「Goin' home」という歌詞を付けたのが1922年ということを考慮しても、本当にスゴイことだと思う。(参考サイト)

あぁ、なんだか東北へ行きたくなってきた…
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