ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

クソ日記を書く楽しさ

2005-08-04 19:19:49 | 脳みその日常
何が楽しいのかって? 理由は簡単だ。自分の思考回路で書けるからである。「そんなの、オマエの書くすべての文章がそうだろう」と思うかもしれない。確かにそうなのだが、厳密に言えば違う。

ここで書いている文章は基本的にはワシの脳みそからわき上がってきたものである。汲めども尽せぬくだらない発想をまとめたのが、ほぼ毎日お届けしているこのクソ日記に他ならない。ここには原則として他人の脳みそが介入する余地はない。だから楽しいのだ。

仕事柄、何かを説明する文章を書く機会は多い。そのほとんどは作品の解説だったりするのだが、この手の仕事というのは本当に面白くない。いや、正しく言えば疲れる。なぜ疲れるのか。それは他人の思考回路にとりあえず同調してみなければならないからだ。

解説する対象が、面識もなく、何の魅力も感じられない作曲家の場合だと最悪だ。「こんなつまらん脳みそに潜り込まなければならないとは何たる悲劇だろうか!」などと思ったりもする。「ワシはそういう風には考えんぞ」と思っても、解説だからそいつの脳みそに従って書くしかない。だから疲れるのである。

たまに翻訳の仕事をすることもあるが、やはり同じ気分になる。翻訳とは、ただ即物的に日本語にすればよいという単純作業ではない。文章にはそれぞれ独特の言い回しがあるように、著者によってはひとつの単語であっても違ったニュアンスで使用するケースがあるのだ。翻訳する人間はそれをうまく汲み取れなければダメ。つまりは、いったん著者の脳みそに潜入する必要があるのだ。うまく潜り込めないと、なぜここでこんな単語を使うんだろうということが皆目わからないからである。

時々、読んでもサッパリ意味が分からない翻訳書に出くわすことがあるが、それは翻訳家自身が著者の思考回路に同調できていないからである。もっとも、基本的な翻訳能力がないのはハナからお話しにならない。特に専門書を翻訳する場合は注意を要する。専門知識がないと、とんでもない恥ずかしい間違いをすることもあるからだ。

たとえば、movement という単語がある。普通の意味では「移動、運動」だが、音楽では「楽章」の意味で使われたりする。それを知らないと first movement は「最初の運動」なんて誤訳をするハメになる。この場合の正解は言うまでもなく「第1楽章」だ。この例は当時『The New Grove』の日本語版の編集の手伝いをしていた時に偶然見つけた本当の話である。

これはまだ初歩的な間違いだから許そう。次の例は笑うに笑えない。ある人が現代音楽の本を訳した。そのなかに music of change という語があるのだが、なんとその人は「変化の音楽」と堂々と訳しているのだ! この人が少しでもジョン・ケージ(1912-92)についての知識があれば絶対にこんな訳はしない。ここで言う change とはもちろん「易」の意味だからである。最初にこの訳書を目にした時には心底驚いた。目玉から視神経が抜けるんじゃないかと思うほどビックリしたことを思い出す。

いずれにしても、わからないと本当に疲れる。そんなことなら、いっそのこと自分で書いたほうがよっぽどラクだなと思うことも、しばしば。そうした意味で翻訳を生業にしている人はワシにとっては雲の上の存在に等しい。いつもながら、すごいなあと思う。
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