言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「襟を正す」といふこと

2016年11月28日 09時03分55秒 | 日記

 再び、鷲田清一氏の『おとなの背中』より引用する。

「『襟を正す』という言葉がある。じぶんでは能(あた)わないであろう『大義』に怖れおののくということである。不完全なものが不完全なままでそれでもどうにかここまでやってこれたのは、そういう『大義』にちらっとでも触れてきたからである。そのことを子どもに伝えることが大事なのではないか。ひとが身を持ち崩さずにいられるのは、じぶんの存在を超えた価値というものの存在を、たとえおのれが体現できなくても知っているからではないかとおもうのだ。/全能感に浸された人は、ささいな挫折にもひどく傷つく。そう、『わたしには何もできない』という無能感に過剰にむしばまれる。おとなであれ子どもであれ。」

 哲学者としては少々飛躍があつて、このことを言ふだけで一冊の本を書くべきだと思ふが、それは措くとして、大義といふものによつていつたん「自己否定」をし、その上でその大義を知ることで「自己肯定」することで、全能感と無能感との間にあつて「身を持ち崩さずにいられる」のであらう。

 昨今、「自己肯定感」といふ言葉をよく聞くが、その時にどうしても「いやな感じ」を抱いてしまふのは、さういふプロセスを経てゐるのかといふ疑問があるからである。

 「私には何もできない」といふ無能感に襲はれてゐる人に、「そのままでいいんだよ」と伝へることは、「自信にはそれを裏付ける根拠などいらないのだ」といふことを伝へることになりはしないか。その結果得られる全能感は、いつまた無能感に反転するか分からない。

 さうであれば、大事なことは「じぶんの存在を超えた価値というものの存在を、たとえおのれが体現できなくても」、「知」るといふことが必要で、それをできてゐない自分がゐるけれども、それを「知」るといふことで、「身を持ち崩さずに」生きていくといふことができるのである。

 自己肯定とは、それが単純な「自己による自己肯定」であれば、独りよがりにすぎない。自己肯定が他者(じぶんの存在を超えた価値)による肯定であるとき、意味あるものとなる。「じぶんの存在を超えた価値」とは分かりにくいが、いきなり「絶対者」と言へば大仰であるし、なかなか日常でさういふ存在を意識する訓練をしてゐるわけではない私達にあつては、共同体や仲間といふことになるだらうか。

 ただその共同体や仲間といふものは、画一的なものになりがちな私たちの社会にあつては、やはりそれら「の存在を超えた価値というものの存在」を意識すべきである。以前は、それを「大義」と言つたのである。鷲田氏も「じぶんの存在を超えた価値」とはどういふものであるのかを示すために、日本語を探し回つたはずである。なるほど「大義」とはいい言葉である。

 「大義」、子どもたちがイメージできるかどうか訊いてみようか。

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