ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

大河・かこがわ(57) 古墳時代(24)  稚児ヶ窟古墳石棺の身と蓋

2019-09-28 07:51:38 | 大河・かこがわ

 平荘湖の湖底の中ほどに、かつて稚児ヶ窟(ちごがくつ)古墳と呼ばれた池尻16号墳がありました。前号地図で稚洞ヶ窟古墳のあった場所を確認ください。

 この古墳の石棺は、市内最大の石棺で、蓋と身がそろうめずらしい例です。

     稚児ヶ窟古墳石棺の身

 石棺の身は、志方町の投松(ねじまつ)公会堂の庭に置かれています。

 長さ228㌢、幅142㌢、高さ95㌢の堂々とした大型石棺です。

 内部は土が詰まっています。

 石棺の前に立つと、その大きさが実感できます。

 この石棺に身の部分について、石棺の側に次のような説明(加古川市教育委員会)があるので読んでおきます。

 ・・・この石棺の身は、かつて平荘ダムに水没した稚児ヶ窟古墳にあったものを姫路藩主、榊原式部太夫が泉水に使うため運ぼうとしたが、重くて投松峠に放置したという記録がある。

 昭和11年、県道拡張の時、ここに運んできたと言われている。

    稚児ヶ窟古墳石棺の蓋

 この石棺の蓋は、平荘湖畔、弁天社の広場に置かれています。

 とにかく、デカイ石棺の蓋です。

 被葬者は、在地系豪族と考えるよりも畿内から移ってきた有力豪族の墳墓と考えたほうが良いのかもしれません。

 蛇足ですが、投松は「ねじまつ」と読みます。クイズになりそうな集落の名前です。(no5756)

 *写真上:稚洞ヶ窟古墳出土の石棺の身、

  同 下:稚洞ヶ窟古墳出土の石棺の蓋

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