ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

大河・かこがわ(56) 古墳時代(23) 平荘古墳群・カンス塚古墳の場所は、どこ!

2019-09-27 09:57:53 | 大河・かこがわ

         カンス塚古墳の場所は、どこ!

 平荘湖のあたりには、かつて図のようにたくさんの古墳が集中していました。

 私事ですが、最近、腰痛の治療を兼ねて散歩をしています。

 たくさんの古墳を見ることができます。

 アクア交流館の前あたりでは、一部が水面に浮いたように姿を現わしている古墳を眺めながら散歩をしています。

 地図で「金のイヤリング」が出土したカンス塚古墳の場所を確かめてください。

 以下の説明は『加古川市史(第一巻)』の記述をお借りしていますが、文章(文体)・記述等は、少し変えています。

     平荘湖古墳群の語ること

 海浜の工業地帯に用水を供給する平荘ダム建設のために、多くの古墳が平荘湖に沈んでしまいました。

 工事に並行して、1962年(昭和37)から66年にわたり、数次の調査が行われました。

 水没した古墳は約50基ですが、升田山に約11基、飯盛山に約5基の古墳が残っています。

 かつては、かなりの数の墓古墳がありました。

 これだけの古墳をつくった人々の生活の基盤になったのは、ここから南西に広がる平野部であったと考えられます。

 加古川右岸(東岸)は、早くから開発が進み4・5世紀を形成する勢力が存在していました。

 が、それに比べると左岸(西岸)はやや遅れ、6世紀になって、豪族はようやく大きな勢力に成長したとみてよいでしょう。

 

 このように、左岸の開発が遅れたのは、加古川の河口部の分流がほとんど左岸に集中しており、西岸の平野部の流れが長く安定しなかったためと考えられます。(no4755)

 *『加古川市史(第一巻)』参照

 *地図:平荘湖周辺の古墳群

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