ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

大河・かこがわ(50) 古墳時代(17) 行者塚古墳(4)、日岡山から西条への移動の事情

2019-09-19 19:25:47 | 大河・かこがわ

       日岡山から西条への移動の事情

  加古川市には、大きく日岡山古墳群、西条古墳群、そして平荘古墳群があります。

  もちろん、この外にもたくさんの古墳がありますが、行者塚古墳は、西条古墳群に属しています。

 日岡古墳群の多くは、4世紀古墳であり、西条古墳群は5世紀古墳が中心です。

 この二つの古墳の関係が気になります。

 二つの古墳群の関係について、大阪大学の都出比呂志教授は、次のような見解をシンポジウムで述べられておられます。

 「・・・加古川のこの地方では、この行者塚古墳は5世紀の古墳ですが、その前には4世紀代には、日岡山に有力な墓があったんですね。

 ところが、この行者塚古墳の時期になりますと、(日岡山から西條に)移動する。

 その動く時期は、ちょうど大和や河内の大きな古墳が動く時期と一緒なんです。

 ・・・・ということは、・・・大和・河内という当時の政治的な先進地である中央との動きと、地方の動きとが連動している。

 ・・・・実は、この4世紀、5世紀の時代というのは、日本列島各地の王様がお互いに誼を通じた仲良しの連合というものを作っているわけですね。

 ですから、大和東南部に非常に大きな力を持った王様の時期は、その人達と誼を通じた人達は全国にネットワークを持っていた。

 大和の東南部を4世紀に支配していた人は、日岡山の王様と仲良くしていた。5世紀になって河内を拠点とする違う人が治めた時には、西条の王様と仲良くする・・・

 つまり、都出教授は、日岡山から西条への古墳への移動は、中央の支配者の変動に連動した動きと指摘されています。(no4749

*『開かれた古墳時代のタイムカプセル』(加古川市教育委員会)参照

*写真:西造り出し部の埴輪(デプリカ)、背景は行者塚古墳の後円部(インターネットより)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする