ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

大河・かこがわ(40) 古墳時代(8) ヤマト・タケル物語(4)、タケル東国(焼津)へ、

2019-09-08 09:25:03 | 大河・かこがわ

    古墳時代(8) タケル東国(焼津)へ、ヤマトタケル物語(4)

 イズモ・タケルを征伐して大和に帰ってきたとおもうや、父・景行天皇は、こんどは「・・・東の方にらんぼうな、大和に従わない悪者がいる。それらを、従えて参れ・・・」とタケルに命令するのでした。 

 タケルは東国への途中、伊勢の叔母のヤマトヒメを訪ね別れの挨拶をしました。

 なぜか、悲しくなり「帝(父・景行天皇)は、東国を征服してまいれ、とおっしゃいました。

 私は、どうなってもよいとお考えなのでしょうか・・・」とヤマトヒメに泣き崩れるのでした。

 ヤマトヒメは「もしものことがあったら・・・」と、剣と袋を与え、やさしくタケルを慰めました。

 タケルは尾張(愛知県)の長官・ミヤズヒメの館にとまり、結婚の約束をして、さらに東へと進みました。

 やがて、相模(静岡県)に着きました。その国の長は、うまくタケルをだまし殺してしまおうと嘘を言ったのです。

 「・・・あの広い野中に、大きな沼があります。そこに人々を苦しめる悪い神が住んでいます。どうか、平らげてください・・・・」と。

 それを信じたタケルは、その野に出かけました。

 背丈ほどの枯れた草が伸びていました。しばらくするとパチパチ・・・というカヤの燃える音がしました。

 やがて、青い炎・・・

 「おや・・」と思ったときは、すでに火に囲まれ、次第にタケルにせまってきました。

 その瞬間、叔母のヤマトヒメからもらった袋のことを思い出しました。

 開いてみると、火打石がでてきました。

 タケルは、剣を抜き、枯れた草をサッ~と切り倒し、その火打石で火をつけました。

 すると、どうしたことか、たちまちに風向きが逆になり、火も反対に燃え広がっていったではありませんか。

 敵は逃げることができず、家もろとも焼き払われてしまいました。

 それ以来、その場所は「焼津(やいづ)」と呼ぶようになったということです。(no4760)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする