ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

大河・かこがわ(44) 古墳時代(11) ヤマトタケル物語(7)、ヤマト・タケルの物語ること

2019-09-11 07:51:29 | 大河・かこがわ

    古墳時代(11) 

     ヤマト・タケル物語が語ること(7)

     

  最近は、神話が語られることも少なくなりましたが、ヤマト・タケルの物語はいかがでしたか。

 加古川誕生の古代の英雄です。おもしろさも倍増します。

 でも、神話であることを頭の隅においてお読みください。

 ヤマト・タケルの語ることを考えてみましょう。

いろいろと想像できるのですが、ここでは、次のように考えておきます。

     ヤマト・タケルの物語ること

 「ヤマト・タケルは、どうも好きになれない」という人もおられたのではないかとも想像します。

 というのは、クマソ・タケルやイズモ・タケルを征伐するときに「だましうち」にしているのです。

 ここで、少し断っておかなければなりません。

 古代においては「ダマす(謀る)」ということは悪いことではなく、ダマされる者が、それを見抜くことができなかった愚か者と考えられていたようです。

 つまり、ダマす(謀る)ことは、知恵(科学)の芽生えなのかもしれません。

 この物語には、やたら「タケル」という人物が登場しました。

 「タケル」というのは勇者という意味です。

 ですから、ヤマト・タケルというのは大和の勇者ということです。

 「タケル」という人は、大和に従わない地方の豪族の中にもたくさんいました。

 この物語は、4世紀の後半から5世紀の初めのころを中心としていると思われますが、この時期は、地方にも軍事組織である「健部(たけるべ)」が存在していました。

 そして、なお不思議なことに、その土地の多くは鉄の産地なのです。

 こんな事実から考えると、ヤマト・タケルの物語は、地方のタケル(地方豪族)との戦いであり、それも鉄の産する地方を支配しようとする物語なのかもしれません。

 それがいつしかヤマト・タケル一人の物語をして描かれていったのでしょう。

 注:図の太線は古事記によるヤマト・タケルの征服コース、細線は日本書紀の記す征服コース(no4763)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大河・かこがわ(43) 古墳時代(10) ヤマトタケル物語(6)、タケル白鳥に

2019-09-10 07:48:42 | 大河・かこがわ

      タケル白鳥に

 大和に帰ろうとします。

 オトタチバナヒメのことが忘れられません。

 しかし、悲しんでいるばかりおれません。

 甲斐の国(今の山梨県)を過ぎ、信濃(今の長野県)に入り、そこにはびこっている悪者を従え、尾張の国(今の愛知県)に帰りつきました。

 そこには、結婚の約束をしたミヤズヒメが待っていました。

 姫の顔はなぜかさえません。

 「本当に長い年月を待っていたので、とうとう病気になってしまいました・・・・」と答えるばかりでいた。

 タケルは、剣をミヤズヒメに預けて伊吹山の賊を征伐に出かけました。

 「この山の神(賊)ぐらい素手でも捻りつぶしてやるぞ・・・」と山を登って行くと、白い大きなイノシシが現れました。

 気にもとめず、さらに登りつづけました。

 このイノシシこそ、山の神が姿を変えて現れていたのでした。

 やがて、枝葉が折れるばかりの雹(ひょう)が降ってきました。

 「苦しい(寒い)・・・どうすればいいのか・・・・」タケルは歯を食いしばり、山を下り、やっと正気に戻りました。

 タケルの旅はさらに続きます。

 ある村にたどり着いた時でした。

 「ああ・・・私の足はこんなに三重に曲がってしまった。もう歩けない・・・」とつぶやくのでした。

 そのため、その地を三重(今の三重県)と呼ぶようになったといいます。

 それでも我慢して能煩野(のぼの)というところまでたどり着きました。

 そこからはあの懐かしい大和の地が見えます。

    大和は 国のまほろば

    たたなづく 青垣

    山ごもれる 大和しうるはし

 タケルは、この歌を歌い終わると、力つき息を引き取りました。

 皆が泣き悲しんでいる時でした。

 一羽の白鳥が、海岸の方へ飛んでいくでは、ありませんか。

 タケルの魂が白鳥になり、大空に舞い上がったのです。

 王子たちは、どこまでも、どこまでも追いかけて行ったといいます。(no4762)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大河・かこがわ(41) 古墳時代(9) ヤマト・タケル物語(5)、オトタチバナヒメ

2019-09-09 09:05:57 | 大河・かこがわ

         古墳時代(9) ヤマト・タケル物語(5)、オトタチバナヒメ

 相模で敵をたおしたタケルは、さらに東へ進み、走水(はしりみず)に着き、対岸の上総(かずさ・今の千葉県の南部)に渡ろうとしました。

 が、海は大荒れになりました。

 舟は木の葉のように揺れ、今にもしずみそうになりました。

 その時です。

 タケルに従っていた弟橘姫(オトタチバナヒメ)が、「・・・これはきっと海神のたたりです。

 私がタケル様の身代わりになって、海神の怒りを鎮めましょう。

 どうか、帝の命令を成し遂げられ、無事に大和にお帰りください・・・」と海に菅(すげ)の畳を八枚、皮の畳八枚、それに絹の畳八枚を重ねて海面に敷き、それに飛び乗りました。

 大波は、美しい姫をたちまちにのみ込んでしまいました。

 海は、嘘のように静まり、タケルは上総に向かって進むことができました。

 タケルが上総に上陸して七日目でした。

 海岸にオトタチバナヒメの櫛が流れ着きました。

 上総では、大和に従わない者どもを征服しました。

 この大任をはたしたタケルは、懐かしい大和へ帰ろうとしました。

 だが・・・・(no4761)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大河・かこがわ(40) 古墳時代(8) ヤマト・タケル物語(4)、タケル東国(焼津)へ、

2019-09-08 09:25:03 | 大河・かこがわ

    古墳時代(8) タケル東国(焼津)へ、ヤマトタケル物語(4)

 イズモ・タケルを征伐して大和に帰ってきたとおもうや、父・景行天皇は、こんどは「・・・東の方にらんぼうな、大和に従わない悪者がいる。それらを、従えて参れ・・・」とタケルに命令するのでした。 

 タケルは東国への途中、伊勢の叔母のヤマトヒメを訪ね別れの挨拶をしました。

 なぜか、悲しくなり「帝(父・景行天皇)は、東国を征服してまいれ、とおっしゃいました。

 私は、どうなってもよいとお考えなのでしょうか・・・」とヤマトヒメに泣き崩れるのでした。

 ヤマトヒメは「もしものことがあったら・・・」と、剣と袋を与え、やさしくタケルを慰めました。

 タケルは尾張(愛知県)の長官・ミヤズヒメの館にとまり、結婚の約束をして、さらに東へと進みました。

 やがて、相模(静岡県)に着きました。その国の長は、うまくタケルをだまし殺してしまおうと嘘を言ったのです。

 「・・・あの広い野中に、大きな沼があります。そこに人々を苦しめる悪い神が住んでいます。どうか、平らげてください・・・・」と。

 それを信じたタケルは、その野に出かけました。

 背丈ほどの枯れた草が伸びていました。しばらくするとパチパチ・・・というカヤの燃える音がしました。

 やがて、青い炎・・・

 「おや・・」と思ったときは、すでに火に囲まれ、次第にタケルにせまってきました。

 その瞬間、叔母のヤマトヒメからもらった袋のことを思い出しました。

 開いてみると、火打石がでてきました。

 タケルは、剣を抜き、枯れた草をサッ~と切り倒し、その火打石で火をつけました。

 すると、どうしたことか、たちまちに風向きが逆になり、火も反対に燃え広がっていったではありませんか。

 敵は逃げることができず、家もろとも焼き払われてしまいました。

 それ以来、その場所は「焼津(やいづ)」と呼ぶようになったということです。(no4760)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大河・かこがわ(39) 古墳時代(7) ヤマト・タケル物語(3)、 イズモ・タケル

2019-09-07 08:00:21 | 大河・かこがわ

      古墳時代(7) ヤマトタケル物語(3)

            イズモ・タケル

 出雲(いずも)の国は歴史も古く、大和の国にも決して劣らない、誇り高い国でした。

ヤマト・タケルにとって出雲の国の主、イズモ・タケルはいつか戦わなければならない大敵でした。

 クマソ・タケルを征伐したものの、大和をでる時にいた供の勇ましい兵(つわもの)も半分ほどになり、剣も度重なる戦でボロボロになってしまいました。

 このままでは、イズモ・タケルを倒すことはできそうにもありません。

 それに、出雲は立派な剣が作られているところですから、なおさらのことです。

 ヤマト・タケルは「されど、イズモ・タケルに勝たねばならない・・・」とつぶやくのでした。

 「そうだ、謀(はかりごと)を使おう・・・まず、イズモ・タケルを味方と思わせることだ・・・」

 こう考えたヤマト・タケルは、さっそくイズモ・タケルの館を訪ねました。

 館の美しいこと、豊かな稲の稔のことを誉めたたえました。

 「オロチ退治のあった斐川(ひのかわ)に案内してもらえないか・・・」「お望みとあれば・・・」

 二人は、斐川にでかけました。

 ヤマト・タケルは言うのでした。

「このあたりで水浴びをしようではありませんか・・・・」

 安心したイズモ・タケルは、一緒に汗を流しましたが、これが謀だったのです。

 先に水から上がったヤマト・タケルは前もって用意していた木で作った剣をイズモ・タケルの剣と取り替えました。

 そして、イズモ・タケルを待ちました。

 やがて、自ら上がったイズモ・タケルに言いました。

 「あなたは、出雲で一番の勇者。ひとつ、勝負をしようではありませんか」

 イズモ・タケルは「私に勝てる者はあるものか・・・」と剣を抜こうとしました。

 ところが抜けません。

 ヤマト・タケルは、イズモ・タケルをなんなくやっつけることができました。(no4759)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大河・かこがわ(38) 古墳時代(6) ヤマトタ・ケル物語(2)、熊襲征伐へ

2019-09-06 07:14:58 | 大河・かこがわ

    古墳時代(6) ヤマト・タケル物語(2)、熊襲征伐へ 

 ヤマトタケルとはどんな人物なのでしょうか。

 この物語は、小碓命(オウスノミコト)が父・景行天皇の命令を裏切った兄・大碓命(おおうすのみこと)を便所に入いるところを捕まえて、殺してしまったところから始めます。

 兄はオオウスノミコト、弟はオウスノミコトです。間違わないようにしてください。

 

 天皇はこの話を聞いてビックリ、「こんな気性の荒いミコトを傍においていては、どんなことがおこるかもしれない」と思い、「お前は、西の果ての九州に悪い熊襲がいる。

 これから出かけて征服してまいれ・・・」と命じました。

 オウス・ノミコトは、伊勢の叔母のヤマトヒメのところにお別れに行くと、女性の衣装と剣をくださいました。

ミコトは、日を重ねて、熊襲の住む九州に着きました。

 その時、熊襲は新しくできた館のお祝いの準備のまっ最中でした。

 いよいよ、お祝いの日になりました。

 ミコトは、ヤマトヒメからもらった衣装を身につけ、乙女の姿に変装して宴会の出入りする女たちに混じって、首尾よくクマソ・タケルの館に入りこむことができました。

 それとも知らず、クマソ・タケル兄弟は(ヤマト)タケルを傍に座らせ、やがて歌が始まりました。

 宴会も最高潮に達したときでした。

 (ヤマト)タケルは、まず兄のクマソ・タケルを一突きにし、そして逃げる弟のタケルの背中をつかむや剣を突きさしました。

 弟のタケルは、苦しい息の下から「あなたはどなた様でしょうか・・・」と尋ねるので、ミコトは、「私はヤマトのミコトで、お前たちを征伐に来たのだ・・・」と名のると、彼は、「私より強いあなた様に私の名前のタケルをさしあげます。

 今日からあなたは、ヤマト・タケルと名にのりなさい・・・」と言うのでした。

 それを聞くや、ミコトはクマソ・タケルの弟を見事に切り殺し、これよりミコトは「ヤマト・タケル」と名のるようになりました。(no4758)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大河・かこがわ(37) 古墳時代(5)、ヤマトタケルの話をしよう 

2019-09-05 08:46:20 | 大河・かこがわ

 日岡御陵は、ヤマトタケルのお母さんの墓と伝えられています。 

     ヤマトタケルの話をしよう

 ・・・大和(奈良)豪族にとって播磨地方は、畿外への防衛の最前線でした。

 加古川地方は4世紀ごろには奈良の勢力圏に入っており、大和地方にとっても、加古川地方は重要な地域でした。

 そのため、大和と東播磨地方の間には、さまざまな交流があったと想像されます。

 このような状況が。日岡山のヤマトタケル伝承を誕生させたと考えられます。

 伝承によれば、ヤマトタケルは、加古川市に生まれ、母は、播磨の豪族の娘:稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)です。

 *『播磨風土記』では、稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)は、印南別嬢(いなびのわきいらつめ)として登場します。

    母は、稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)

   最近は、『古事記』・『日本書紀』のクライマックスに登場する英雄ヤマトタケルといっても、 ピンとこない人(世代)が多くなりました。

 『古代史の謎に挑む(一)』(NHK出版)は、ヤマトタケルを、次のように説明しています。

 ・・・その昔、日本に一人の英雄が登場した。それはいまからおよそ1600年前、日本の歴史の中でもっとも多くの謎につつまれている4世紀ここと言われている。

 その英雄こそ大和朝廷の日本統一に大きな役割をはたしたと伝えられているヤマトタケルである。・・・

 彼は、播磨、現在の兵庫県加古川市付近に生まれたと伝えられている。第十二代 景行天皇(けいこうてんのう)を父として、母はこの地方出身の稲日大郎姫命(いなびのおおいらつめのみこと)であった。

 ヤマトタケルは双子の弟であり、幼名を小碓命(おうすのみこと)と名のった・・・・

  もちろん、ヤマトタケルの物語は史実を語ったものではありません。しかし伝承であれ、加古川から日本統一にかかわった英雄が登場しているのは愉快な話です。(no7457)

 *絵画:ヤマトタケル像(青木繁筆・東京国立博物館蔵)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大河・かこがわ(36) 古墳時代(4)、同范鏡(どうはんきょう)

2019-09-04 09:02:33 | 大河・かこがわ

       古墳時代(4) 同范鏡(どうはんきょう)

 日岡山の古墳から3枚の神獣鏡(しんじゅうきょう)が出土しています。

 これら神獣鏡は「同笵鏡(どうはんきょう)」です。

 耳慣れない言葉ですが、「同笵鏡」は、同じ鋳型でつくられた鏡のことで、この「笵同鏡」を研究している学者は、次のように結論づけています。

 力を持った豪族が、同盟関係を結んだ印として他の豪族に与えたもので、従って、同笵鏡の分布状態を調べることにより当時の勢力関係をしることができます。

 日岡山の豪族は、どうやら大和の豪族からこの鏡を与えられたようです。

 そうすると、4・5世紀の頃、日岡豪族は、大和の豪族の勢力下にありました。

 日岡豪族にとっても、大和の豪族と同盟関係をむすぶ必要があったようです。

 というのは、自分たちと大和の豪族が結びつくことにより権威を高めることができるし、そして、何よりも自分たちの地方が攻撃を受けた時、大和から援軍も期待できます。

 加古川地方は、大和とそれに対する出雲・吉備地方との接点にあり、絶えず自らの軍事力を必要としました。

 日岡山の伝説には、天皇の話がしばしば登場します。

これはこの地方が大和と強く結びついていたためでしょう。(no4756)

*写真:東車塚古墳出土の同范鏡

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大河・かこがわ(35) 古墳時代(3)、日岡山山頂の古墳:御陵

2019-09-03 08:55:14 | 大河・かこがわ

    古墳時代(3)

                 日岡山山頂の古墳:御陵

 ・・・大和(奈良)豪族にとって播磨地方は、畿外への防衛の最前線でした。

 加古川地方は4世紀ごろには奈良の勢力圏に入っており、大和地方にとっても、加古川地方は重要な地域でした。

 そのため、大和と東播磨地方の間には、さまざまな交流があったと想像されます。

 このような状況が。日岡山のヤマトタケル伝承を誕生させたと考えられます。

 伝承によれば、ヤマトタケルは、加古川市に生まれ、母は、播磨の豪族の娘:稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)です。

 *『播磨風土記』では、稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)は、印南別嬢(いなびのわきいらつめ)として登場します。

    母は、稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)

   最近は、『古事記』・『日本書紀』のクライマックスに登場する英雄ヤマトタケルといっても、 ピンとこない人(世代)が多くなりました。

 『古代史の謎に挑む(一)』(NHK出版)は、ヤマトタケルを、次のように説明しています。

 ・・・その昔、日本に一人の英雄が登場した。それはいまからおよそ1600年前、日本の歴史の中でもっとも多くの謎につつまれている4世紀のここと言われている。

 その英雄こそ大和朝廷の日本統一に大きな役割をはたしたと伝えられているヤマトタケルである。・・・

 彼は、播磨、現在の兵庫県加古川市付近に生まれたと伝えられている。第12二代 景行天皇(けいこうてんのう)を父として、母はこの地方出身の稲日大郎姫命(いなびのおおいらつめのみこと)であった。

 ヤマトタケルは双子の弟であり、幼名を小碓命(おうすのみこと)と名のった・・・・

 

 もちろん、ヤマトタケルの物語は事実を語ったものではありません。しかし伝承であれ、加古川から日本統一にかかわった英雄が登場しているのは愉快なことです。(no4755)

 *写真:稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)の御陵

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大河・かこがわ(34) 古墳時代(2)・日岡山古墳群

2019-09-02 08:26:52 | 大河・かこがわ

         古墳時代(2)・日岡山古墳群

 日岡山には図のように多くの古墳があります。

 現在残っている古墳は図のように、①勅使塚、②南大塚、③西大塚、④北大塚、⑤狐塚、⑥西車塚です。

 これらの古墳群の多くの古墳は4世紀にさかのぼり、被葬者は日岡山の南に広がる平野を約200年にわたって支配していたと考えられます。

 平野部には、南西約2キロメートルの溝口遺跡・美乃利遺跡等の遺跡があります。そのあたりは、早くから開けていたようです。

 中でも、「溝口・美乃利遺跡」は、弥生時代から平安時代にかけての複合遺跡で、古墳時代の住居跡も発見されています。

 この辺りは、加古川の氾濫原の中にあって比較的安定し、しかも水利に恵まれた場所でした。

   溝口遺跡・美乃利遺跡は、 

       日岡豪族の生活した集落か

 『加古川市史(第1巻)』に、次のような面白い記述があります。

 ・・・日岡山古墳群の現存する5基(前述の4基と稲日大郎姫の御陵)の前方後円墳は、すべて前方部を南に向けている。前方後円墳については、必ずしも定説があるわけではないが、前方部を平野側に向けている場合が多い。

 それはまた、被葬者が支配した土地とみなしてよさそうである。したがって、日岡山古墳群の方向と平野部の遺跡との関係は大変興味深い・・・

 つまり、溝口遺跡・美乃利遺跡は、日岡豪族が生前生活していた集落であったと指摘しています。

 (no4754)

 *地図:『加古川市の文化財』(加古川市教育委員会)より

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大河・かこがわ(33) 望塚(ぼんづか):銅鐸の出土地は?

2019-09-01 07:49:04 | 大河・かこがわ

 前号から古墳時代の紹介を始めましたが、弥生時代の銅鐸の紹介が抜けていましたので、挿入させていただきます。

    望塚(ぼんづか):銅鐸の出土地は?

 東沢1号墳は、(加古川近辺で発見された唯一の銅鐸が発見された)望塚(ぼんづか)があった水田の下の地層から新たにみつかった古墳です。

 調査の結果、5世紀前半に造られた古墳であることが明らかになりました。

 古墳の斜面には、葺石(ふきいし)が比較的良好に残存するとともに、古墳の周りを囲む周溝内からはたくさんの埴輪(はにわ)や土器が出土しています。

 この他、弥生時代(約1800年前)の竪穴住居跡もみつかりました。

 東沢1号墳は、望塚(ぼんづか)があった水田の下の地層から新たに見つかった古墳です。

 望塚の場所から、加古川市内で唯一、弥生時代の祭器である銅鐸が発見されました。

少し、不思議です。説明が必要のようです。

 銅鐸は、弥生時代の青銅器です。

 東沢1号墳は、もちろん古墳時代の塚です。

 歴史は、弥生時代から古墳時代へと移行します。

 とすると、少しおかしなことになります。

 新しい古墳時代の遺跡の上に、古い弥生時代の望塚があることになります。

 『加古川市史(第一巻)』から、望塚についての記述を読んでみます。

 「・・・(望塚の)銅鐸の出土した年代については諸説があり、一致しない。

 大正二年、同三、四年、同七年、同十三、四年の五つの説がある。・・・・銅鐸出土に関しては、こうした基本的なことさえ、わからにことが多いのである・・・」

 塚の上に「大正十四年八月、末沢隆次建立」の文字がありますが、当時すでに発見場所もはっきりしなくなっていたのでしょう。

 そして、場所の確定のないまま、「この辺にしておこう」と土盛りをして望塚としたのが真相に近いようです。

 東播磨南北道路が望塚の上を通過することになりました。遺跡の調査が行われ、このことが確かめられました。

 現在、銅鐸の出土地とされている望塚は、少し東へ移動しています。(no4753)

 *写真:望塚(ぼんづか)から出土した銅鐸

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする