ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

石の宝殿と生石神社の話(21) 山形県に生石神社の分社が

2016-11-19 08:29:20 | 石の宝殿と生石神社の...

        山形県に生石神社の分社が

   『印南郡史』に「秋田県なる生石(おうしこ)は、成務天皇の十一年、当社より分霊を勧請せしものなり」と分社の存在が書かれています。

 この『印南郡誌』の記述は、氏子の間では知られていましたが、「はたして、秋田県酒田市に生石神社が実在するか、否か?」については、そのままになっていました。

 昭和55年、氏子の中で捜してみようという声がおこりました。

 ためしに『印南郡誌』に記載されている宛名へ手紙を出すことになりました。

 なんと、11月中旬に返事がきました。

 差出人は、「山形県酒田市生石大字十二の木1776、生石神社宮司、生石正喜」となっています。

 さっそく、氏子19人が酒田市に出向くことになりました。

   石の宝殿より神霊を勧請 なぜ?

 なんと、酒田生石神社の祭神は高砂の生石神社と同じで、神社には、石宝殿より神霊を勧請し、成務天年、生石村を開いたという伝えが残され、「生石の神」という呼び名もあり、石の宝殿を本社とする分社であることが確かめられました。

 何とも不思議な話です。

 今のところ、どういうルートで酒田市に石の宝殿の分社があるのか分かりません

 ロマンのある話です。かくれた歴史がありそうです。・・・

 理由をご存知の方は一報ください。

 このニュースは、昭和56年3月15日の神戸新聞に大きく取り上げられ話題を呼びました。(no3398)

 *写真:山形県にあった生石神社の分社の本殿(神戸新聞より)

 

  〈お知らせ〉

   http://hirokazu.webcrow.jp/kurakumatsuemon_blog.pdf

   上記のURLをクリックすると「工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛」が通しでお読みいただけます。


コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 石の宝殿と生石神社の話(2... | トップ | 円照寺の花たち(195) ... »

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
出羽の生石神社 (吉備津彦)
2019-09-24 17:12:08
生石の地名が先にあったようです。

生石は珍しい地名ですけども全国にあります。
日本書紀に「出石刀子」が自分で石上の神庫から淡路島に飛んでいき、今も神として祀られている。という記事があります。
この淡路島の社は由良の湊の「生石鼻」にある「出石神社」だと言います。
出石、生石、大石は同じものを表しているのです。
私の住む岡山県には。和妙抄備前国御野郡に「出石郷」備中国賀陽郡に「生石郷」「大石郷」があります。
古代には硬い物(鉄、銅、岩など)全てイワと呼んで、石の字で表したのです。
生石は「イワを成す」で広く石工、金工全般を指す言葉だと思います。
返信する
続 出羽の生石神社 (吉備津彦)
2019-09-29 00:37:58
今は延命寺の鎮守社の様になっていますが、出羽の生石神社は非常に古い社です。
鎮座地(生石字大森山)からもそれがわかります。式内社のような古社で、地元では「大森明神」と呼ばれているという例が多いのです。
「大森明神」は普通に「お宮さん」と云うのと同じです。
この地に城輪柵が造られて出羽国府が置かれた時に始まると思います。鷹尾山(集落東方の丘陵)一帯で奈良、平安初期の須恵器窯遺跡が見つかっています。
生石は国衙に鉄器や須恵器を供給して発展したのでしょう。鎌倉、室町時代まで「生石板碑群」に象徴的な鷹尾山修験の活動は続いています。
石の宝殿との関係が出来るのは、江戸時代に入ってでしょう。
酒田と上方は北前船で強く結ばれていましたし、庄内平野の開発も進みました。生石は当時「大石村」と言ったそうですが、村興しで石の宝殿勧進となったのでしょう。また修験者もこういう話は最も得意とするところです。
いずれにしても「石の宝殿」が全国的に知られるようになってからだと思います。
地名というのは本当に面白いですね。


返信する

コメントを投稿