長い空白期をもつ『風土記』
もう少し『風土記』の話を続けます。
『風土記』は編集されて後、まもなく姿を消します。
何らかの事情で、厳重に保管されていたものの、その存在が分からなくなったようです。
そんな状況が、一変しました。
江戸時代、何百年もの空白の期間を経て風土記がみつかったのです。
『播磨国風土記』は、平安時代の中期以降に書写されたものが、江戸時代の終わりころ、寛政八年〈1796〉と嘉永五年(1852)再び写され、世に登場しました。
つまり、『播磨風土記』は、まったく世に知られない空白の期間が数百年も続きました。
この『風土記』の空白の間にも、「石の宝殿」は、近在はもちろん、広く不思議な大岩として世に知られていました。
人々は、この岩についていろいろと想像し、風土記とは関係ない伝説がつくられ、いまに至っています。
いつしか、この大岩は、「石の宝殿」と呼ばれるようになり、「神様の依り代(よりしろ:神の宿る場所)である」と、神となり、やがて社殿(生石神社)が建立されたようです。
つくられた伝承
10月31日(火)の午後、久しぶりで生石神社へ出かけました。
そして、「日本三奇播磨国石之宝殿生石神社略記」のパンフレットをいただきました。
そのパンフレットも、神代の昔、大穴牟遅(おおなむち)と少毘古那(すくなひこな)が、この大石を作ったという大石の起源を説明しています。
これも、江戸時代につくられた新しい伝承です。
「石の宝殿度は何者か」を探し出かけたいのですが、その前に石の宝殿・生石神社にまつわる伝承を先に先に見ておきます。(no3381)
*写真:生石神社と石の宝殿(大石)