ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

石の宝殿と生石神社の話(5) 長い空白期をもつ『風土記』

2016-11-02 07:05:20 | 石の宝殿と生石神社の...

          長い空白期をもつ『風土記』

 もう少し『風土記』の話を続けます。

 『風土記』は編集されて後、まもなく姿を消します。

 何らかの事情で、厳重に保管されていたものの、その存在が分からなくなったようです。

 そんな状況が、一変しました。

 江戸時代、何百年もの空白の期間を経て風土記がみつかったのです。

 『播磨国風土記』は、平安時代の中期以降に書写されたものが、江戸時代の終わりころ、寛政八年〈1796〉と嘉永五年(1852)再び写され、世に登場しました。

 つまり、『播磨風土記』は、まったく世に知られない空白の期間が数百年も続きました。

 この『風土記』の空白の間にも、「石の宝殿」は、近在はもちろん、広く不思議な大岩として世に知られていました。

 人々は、この岩についていろいろと想像し、風土記とは関係ない伝説がつくられ、いまに至っています。

 いつしか、この大岩は、「石の宝殿」と呼ばれるようになり、「神様の依り代(よりしろ:神の宿る場所)である」と、神となり、やがて社殿(生石神社)が建立されたようです。

    つくられた伝承

 1031日(火)の午後、久しぶりで生石神社へ出かけました。

 そして、「日本三奇播磨国石之宝殿生石神社略記」のパンフレットをいただきました。

 そのパンフレットも、神代の昔、大穴牟遅(おおなむち)と少毘古那(すくなひこな)が、この大石を作ったという大石の起源を説明しています。

 これも、江戸時代につくられた新しい伝承です。

 「石の宝殿度は何者か」を探し出かけたいのですが、その前に石の宝殿・生石神社にまつわる伝承を先に先に見ておきます。(no3381

 *写真:生石神社と石の宝殿(大石)

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