ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

石の宝殿と生石神社の話(19) 生石神社炎上

2016-11-17 09:10:02 | 石の宝殿と生石神社の...

   生石神社炎上

 戦国時代です。三木別所軍は秀吉軍と戦いで籠城戦を強いられました。

 この三木の籠城戦は、1年10ヵ月つづきました。

 三木城へのほとんどの食糧補給のルートが止まってしまいました。

 秀吉は、三木城に降伏をせまりました。

 三木城から返事が来ました。

 「ご憐憫をもって城兵を助けおかるれば、某(それがし・三木城主別所長治のこと)腹をきるべく相定め訖(おわんぬ)」という文面でした。

 天正8年(1580)年1月17日、別所氏一族が自害し、三木合戦は終わりました。

    生石神社の宮司は、神吉頼定の弟

           秀吉に反抗し、生石神社焼失

 この戦いで、三木城に味方した近隣の多くの城(構居)・寺院は、ほとんど焼かれました。

 生石神社もその一つです。

 当時、生石神社の宮司は、神吉城主・神吉頼定の弟でした。

 三木城を包囲し、神吉城を攻めたのは、信長の長男・信忠でした。

 生石神社は、秀吉・信長軍に対して非協力的な態度を取っていました。

 神吉城攻撃の時、秀吉は、使者を送り生石神社の南の地を借りたいと申し出ましたが、宮司は当然のごとく断りました。

 秀吉は、大いに怒り、弟の秀長を大将として2000の兵で生石神社を攻めました。

 神社の四方から火をかけました。

 おりからの強風に神社はたちまちのうちに灰と化し、領地も取り上げられました。

 生石神社は、その後、氏子たちにより神社は再建されましたが、昔の威容は失われました。(no3396)

 *写真:生石神社の前殿と本殿

  〈お知らせ〉

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