生石神社炎上
戦国時代です。三木別所軍は秀吉軍と戦いで籠城戦を強いられました。
この三木の籠城戦は、1年10ヵ月つづきました。
三木城へのほとんどの食糧補給のルートが止まってしまいました。
秀吉は、三木城に降伏をせまりました。
三木城から返事が来ました。
「ご憐憫をもって城兵を助けおかるれば、某(それがし・三木城主別所長治のこと)腹をきるべく相定め訖(おわんぬ)」という文面でした。
天正8年(1580)年1月17日、別所氏一族が自害し、三木合戦は終わりました。
生石神社の宮司は、神吉頼定の弟
秀吉に反抗し、生石神社焼失
この戦いで、三木城に味方した近隣の多くの城(構居)・寺院は、ほとんど焼かれました。
生石神社もその一つです。
当時、生石神社の宮司は、神吉城主・神吉頼定の弟でした。
三木城を包囲し、神吉城を攻めたのは、信長の長男・信忠でした。
生石神社は、秀吉・信長軍に対して非協力的な態度を取っていました。
神吉城攻撃の時、秀吉は、使者を送り生石神社の南の地を借りたいと申し出ましたが、宮司は当然のごとく断りました。
秀吉は、大いに怒り、弟の秀長を大将として2000の兵で生石神社を攻めました。
神社の四方から火をかけました。
おりからの強風に神社はたちまちのうちに灰と化し、領地も取り上げられました。
生石神社は、その後、氏子たちにより神社は再建されましたが、昔の威容は失われました。(no3396)
*写真:生石神社の前殿と本殿
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