ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

石の宝殿と生石神社の話(17)  竜山石

2016-11-15 08:41:35 | 石の宝殿と生石神社の...

      竜山石

 石の宝殿は竜山石です。竜山石について触れておきましょう。

 古代の加古川の主流は、現代の加古川よりも西をながれていたと想像されます。

 河口は、竜山の採石場(写真)のあたりだったのでしょう。

 万葉集で歌われているナビツシマ(加古川の三角州でできた島)が、前方にひろがり、このあたりは、加古川の河口というよりも、海がせまり湾のような地形をつくっていたようです。

 そこに、竜山石の採石場がありました。

 真壁夫妻の研究によれば「五世紀ごろの畿内大王家の古墳のほとんどは竜山石であり、竜山が五世紀の畿内勢力と密接に関係し、畿内勢力下で、この石切り場が開発されたとも考えられる」と、述べておられます。

 竜山石は、もちろん大和地方へだけではなく、はるばる九州地方にまで運ばれました。

 竜山石は、海上を目的地まで運ばれ、当時の運搬用具である「修羅」に移しかえられ設置場所まで運ばれたのでしょう。

 道路の整わない当時の陸上を運ぶより、海上を運んだ方がはるかに容易に早く運べました。

 竜山石は、加工しやすい柔らかい石材(凝灰岩)でしたが、何よりも運搬に便利な川(湾)に面した絶好の場所で産出しています。

 竜山石・石の宝殿の詳細については『石宝殿・古代史の謎を解く(真壁忠彦・葭子共著)』(神戸新聞総合出版センター)をお読みください。(nono3394)

*写真:竜山石採石場

 〈お知らせ〉

http://hirokazu.webcrow.jp/kurakumatsuemon_blog.pdf

 

上記のURLをクリックすると「工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛」が通しでお読みいただけます。

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工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛について、PDFファイルにまとめました

2016-11-14 14:47:53 | PDF文書一覧

工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛をPDFファイルにまとめました

http://hirokazu.webcrow.jp/kurakumatsuemon_blog.pdf

 

 きょうで、ブログは3393号なりました。もう少し続きそうですのでお付き合いください。

 なお、連載した話題は、ブログのままでは読みづらいため、話題をまとめて掲載することにしました。

 きょうは、その1として「工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛」を掲載します。

 ほかの原稿も編集しなおさなければなりませんので、月1~2のペースで掲載を予定しています。

 お読みいただければ、幸いです。

 上記のURLをクリックしていただくと、ご覧になれます。

 なお、コピー等でご自由にご利用ください。(no3394

 



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石の宝殿と生石神社の話(16) そして、神様になった

2016-11-14 08:52:34 | 石の宝殿と生石神社の...

   石の宝殿の伝承がない理由

 石切り場の工人たちの多くは、蘇我氏の命令であったとしても、単に中央からの命令として、黙々と作業を続けるだけで「何を何のためにつくっていること」など考えなかったのではないでしょうか。

 当時、竜山では、この大石の製作だけではなく、多くの石棺を命ずるままにつくり、その多くは大和地方にも運ばれていました。

 その延長で、石工は命じられるままに作業を進めていただけかもしれません。

 「中央の政治上の都合で石の宝殿の工事が中止と決まっても、それについて深く考えなかった」と想像するのです。

 

 私たちは、中止になった理由を考えてしまいますが、当時の工人は案外製造の理由なんてどうでもよいことであったのかもしれません。

 そう考えると、「伝承がない」ことも納得できます。

    「石の宝殿」は、永遠に語り継がれる謎(ロマン)

 確実な伝承もないままに、「石の宝殿」は打ち捨てられたままに残されました。

 時は過ぎます。

 伝承がないだけに、よけいに人々は石の宝殿に「不思議さ」を感じたのではないでしょうか。

 後の人は「こんなでっかい石塊は、人が作ることは不可能である。きっと神様がつくられたものであろう」と考えたのかもしれません。

 記録によれば、平安時代にはこの「石の宝殿(大石)」は神となり、社殿「生石神社」が作られたようです。

 歴史学者・真壁ご夫妻は、この不思議な石の宝殿を学問的に研究されています。

 『石の宝殿‐古代史の謎を解く』(神戸新聞総合出版センター)で詳細を述べておられます。

 詳しくは、その著書をお読みください。

 でも、まだ「誰が・何のため」につくられたのかには、確実なことはわっかっていないようです。

 「石の宝殿」は、おそらく永遠の謎(ロマン)として語り続けられることでしょう。(no3393

 *写真:石の宝殿「西遊旅譚(司馬江漢)」より

 

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石の宝殿と生石神社の話(15) 「石の宝殿」は蘇我氏が作ろうとしたものか

2016-11-13 08:46:27 | 石の宝殿と生石神社の...

 石の宝殿(大石)ですが、途中で放棄されています。

 このことに関して前回の青木説で「石の宝殿は、蘇我氏との争いに敗れた物部氏のモニュメント」とする説を紹介しました。

   「石の宝殿」は蘇我氏が作ろうとしたものか

 今回は、『石の宝殿・古代史の謎を解く(真壁忠彦・葭子共著)』から、反対に石の宝殿は蘇我氏がつくろうとしたモニュメントであるとする説を紹介します。

 

 ・・・・石の宝殿は、ほとんど完成品にちかい段階で放棄されています。

 よほどのことがあったと考えられます。

 石の宝殿が「飛鳥時代のもの」で、これだけの石造物の製造を命令することのできるのは、中央の最高権力者です。

 その権力者とは「蘇我氏」以外に考えられません。

 それでは、なぜ蘇我氏がこのモニュメントづくりを中止したのでしょうか。

 よほどの理由があったはずです。

    蘇我氏は大化の改新で滅び、事業は中止されたのか

 その理由を探すなら、「大化の改新で蘇我氏が急に滅亡した」と考える以外に理由はみつかりません。

 当時、蘇我氏は、大王家(天皇家)をしのぐ権力を持っていました。

 蘇我氏が「石の宝殿」のようなものをつくろうと命令することは、なんの造作のもないことです。

 「大化の改新により蘇我氏がほろぼされ、急に勢力がなくなり、石の宝殿の製作を中止してしまった」とする推理です。

 いかがでしょうか。

 それにしても、蘇我氏が何のためにこの石の宝殿をつくろうとしたのでしょうね。

 何らかの、伝承があってもよさそうなものですが、何も語られていません。(no3392

 *写真:蘇我氏のつもり

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石の宝殿と生石神社の話(14) 青木説にみる「石の宝殿」③・「石の宝殿」は敗者のモニュメント

2016-11-12 14:03:38 | 石の宝殿と生石神社の...

      「石の宝殿」は敗者のモニュメント

 青木一夫氏は、物部氏が大石を作ろうとした目的を「・・・物部氏は、日本古来の信仰である大きな岩などに霊力がやどるとする自然信仰もっていた。

 とにかく、この東播磨の地で大石をつくり、その霊力で仏教の大和への侵入を防ごうとしたのではないか。つまり、大和に仏教が入る手前の東播磨の地でこの大石をつくろうとした」という説です。

 少しだけ、つけ加えます。

 物部氏と蘇我氏の戦いの結果は蘇我氏の勝利で終わりました。

 この争いの中でつくられていた大石(石の宝殿)は、その後「敗者のモニュメント」として(未完成のまま)打ち捨てられたのです。

 敗者のモニュメントは、その存在さえなにも許されないもので、それらは、ふつうは打ち壊されます。しかし石の宝殿は未完成品であり、打ち崩すには大きすぎ、頑丈すぎました。

 蘇我氏の支配する社会では、大石については語られることも許されず、ひっそりとその姿を横たえているだけの存在になっていたのではないかと思われます。

 これだけ大きな、モニュメントが語りつかれなく作られてから100年ぐらいでそのつくられた目的がわからなくなったのには作為を感じます。

   「生石神社」は平安時代初期の記録に登場

 石の宝殿をご神体とする生石神社は、やっと平安時代(養和元年・1185の『播磨国内神明帳』に登場しますが、大きな神社ではなさそうです。

 10世紀のはじめ、醍醐(だいご)天皇の時代に作られた規則である延喜式(えんぎしき)に、その名が見られる神社のことを「式内社(しきないしゃ)」といいますが、生石神社は「式内社」でもありません。

 ということは、奈良時代から平安時代の初期のころは、まだ、ここには神社がなかったとも考えられるのです。(no3391

 *写真:石の宝殿(部分)とその回廊

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石の宝殿と生石神社の話(13) 青木説にみる「石の宝殿」②・大石は、仏教の侵入を塞ぐためにつくられたのか

2016-11-11 08:16:16 | 石の宝殿と生石神社の...

      『風土記』は、蘇我と物部の争いを語る

 「石の宝殿」のつくられた時期の日本社会のようすを中学歴史教科書にみてみます・

 6世紀の日本では、地方の豪族が反乱を起こし、大和王権でも豪族同士の争いが続くなかで、豪族の蘇我氏が渡来人と強い結びつきを持ち、力を伸ばしました。

 外国の宗教である仏教を取り入れようとして、これに反対する物部氏を滅ぼし、大きな勢力をふるいました。・・・・(中学歴史教科書:大阪書籍より)

 つまり、聖徳太子の時代外国の勢力と結んだ蘇我氏と物部氏の勢力が激しい争いをしていました。

 蘇我氏は、仏教を取り入れ百済の力を借りようとしました。

 それに対して、物部氏は「仏教は我が国を亡ぼす邪教である」として反対しました。

 結論は、蘇我氏を中心とする勢力がこの戦いに勝利しています。

 この争いの前から物部氏は、大石(石の宝殿)を作り始めたようです。

 でも、この大石が完成する直前の頃蘇我氏が敗れ。ほとんど完成していた大石の工事は中止になり、そのままに打ち捨てられた状態になってしまったようです。

    大石は、仏教の侵入を塞ぐために物部がつくったか!

 それでは、物部氏は、何のためにこの大石を作ろうとしたのでしょうか。

 青木氏は、次のように説明しておられます。

 ・・・・物部氏は、大石が持つ神聖を信じていました。

 日本古来の信仰は大きな岩などに霊力があるとする自然信仰です。

 物部氏は、「大きな石を置くことにより、その霊力で仏教が日本に入ることを防ぐことができる」と考えたようです。

 とにかく、「この東播磨の地で大石をつくり、その霊力で仏教の侵入を防ごうとしたのではないか」と想像されるのです。

 つまり、大和に仏教が入る手前の東播磨の地でこの大石をつくろうとしたのではないでしょうか。

 いかがですか。(no3390

 *写真:石の宝殿頭頂部

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石の宝殿と生石神社の話(12) 青木説にみる「石の宝殿」①

2016-11-10 08:20:39 | 石の宝殿と生石神社の...

     石の宝殿は、移動させるにはデカすぎる!

 石の宝殿(大石)は、「高さ5.7㍍、幅6.5メール、奥行きは屋根形の突起をいれて7㍍、重さが500トン」ととてつもない大きな石造物です。

 石の宝殿(大石)は、「高さ5.7㍍、幅6.5メール、奥行きは屋根形の突起をいれて7㍍、重さが500トン」ととてつもない大きな石造物です。

 巨石という以外に表現がありません。

 繰り返しますが、この大石を完成後他の場所に移動するという考えは無理があるようです。ましてや、山の中腹につくられています。

 ど素人ですが、「松本清張や歴史学者の真壁氏ご夫妻の考えの完成後大和に移動予定であった」とする説に同意できかねるのです。

 そんなことを考えていた時、『兵庫史の謎(青木一夫著)』(神戸新聞総合出版センター)で「石の宝殿は石棺にあらず‐仏教の東進はばむ境界に‐」の記述を読みました。

 青木氏は、石の宝殿の移動させる予定であったという説はとっておられません。。

 青木説を紹介しましょう。結論は次回になります。

    青木説にみる「石の宝殿」①

 『風土記』の記述を引用して、次のような説明をしておられます。

 「石の宝殿と生石神社の話(3)」の復習をしておきます。

 〈大石〉

  ・・・原の南に作り石があります。形は家のようです。

  長さは二丈(約6㍍)、広さは一丈5尺、高さもそれぐらいです。

  名は大石といいます。

  伝えられていることは、聖徳太子の時代に弓削大連(ゆげのおおむらじ・物部の守屋)作らせた石です。・・・・

 青木氏は、上記の風土記の「聖徳太子の時代に弓削大連(ゆげのおおむらじ・物部の守屋)作らせた石です」の記述に注目されています。

 次回を楽しみにしてください。(no3389)

 *図:石の宝殿付近の地図(『石の宝殿』:真壁ご夫妻著より)

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円照寺の花たち(194) シュウメイギク

2016-11-09 08:01:42 | 円照寺の花たち

 9月おわりの頃から「円照寺の花」が少なくなり、ブログでは「瀧瓢水」を取り上げ、今「石の宝殿」を掲載しています。

 きょうは久しぶりで、「円照寺の花たち」として「シュウメイギク」の紹介です。

    シュウメイギク

 本州、四国、九州の山野や里山に自生する毎年花を咲かせるはなで、日本原産ではなく、古い時代に中国からやってきて、野生化したもの言われています。

 漢字で書くと「秋明菊」、9月~10月の秋まっさかりな時期に開花する名前通りの花です。

 アネモネの仲間で英語ではジャパニーズ・アネモネ(Japanese anemone)と呼ばれます。

 もともと、中国からやってきた花なのに「ジャパニーズ・アネモネ(Japanese anemone)」とは変ですね。

 ヨーロッパには、日本経由で伝えられたからでしょうね・・・・

   円照寺の花たちは、2月の「蝋梅」まで、ねむりにつきます

 シュウメイギク(秋明菊)は、上記の説明のように9月~10月が最盛期の花です。

 いま、円照寺では、少し盛りを過ぎましたが、今年の最期の花として、境内で頑張っています。

 やがて、シュウメイギクも消えたとき、本格的な冬がやってきます。そして、円照寺の花たちは、しばしの眠りにつきます。

 そして、2月ごろ「蝋梅」が春を告げ、新しい円照寺の花たちは活動を始めます。

 その時はまた、そんな花たちを案内しましょう。(no3388)

 *写真:シュウメイギク

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石の宝殿と生石神社の話(11) 石の宝殿は、移動が可能か 

2016-11-08 07:15:05 | 石の宝殿と生石神社の...

 今回は、ど素人(私)の妄想です。

   石の宝殿(大石)は、大和に運ばれる予定であったのか

 昔といっても、江戸時代ごろまでは、石の宝殿(大石)は、近在だけではなく広く知られていたようです。

 松巡り(当時の観光)とセットで、この地を訪れた人もたくさんありました。

 それに比べ、最近は知名度が下がっているようです。

 まだの方は一度訪ねてください。この500トンもある大石に圧倒されます。この大石はご神体ですが自由に直に触れることができます。

 大石の周囲を一周できます。

 ご神体体の大きさに比べて周辺の空間が狭く、よけいに大きく感じられます。

 いま、真壁ご夫妻や松本清張の書かれた石の宝殿についての著書を読んでいます面白いです。

   石の宝殿は、大和までの移動が可能か

 が、一つだけどうしてもストンと胸に落ちないことがあります。

 それは、松本清張氏も真壁氏もこの大きな石を切り出して、大和(奈良)に運び、それぞれの目的のために利用する予定であった」とされていることです。

 確かに、この周辺ではたくさんの石棺がつくられ、奈良だけでなく広く各地に運ばれています。

 ですが、石棺が運ばれたことと、このデカイご神体(石の宝殿)が運ばれることは、どうしても結びつきにくいのです。

 この大石(石の宝殿)は、宝殿山の中腹に鎮座しています。

 当時、石の宝殿を作った指導者たちは、宝殿山のふもとは海が迫っていたのでしょうが、「このでかい500トンもの石塊を切り出し、山の下まで運び、海を渡り大和まで運ぶことができる」と考えたのでしょうか。

 無理です。まして、大和まで運ぶことはさらに無理です。

 とするならば、「この場所で何らかの目的のために利用するために作られた」と思われるのです。

 松本清張氏は、大和地方に運びゾロアスター教の拝火壇としたのではと想像されましたが、「この石塊はこの場所で何らかの目的のためにつくられた」と想像するのが自然でではないでしょうか。

 このブログは、まるで素人の独断で書いています。

 ゾロアスター教の拝火壇説は興味をもってフンフンと納得しながら読ませていただきました。

 でも、切り出して大和まで運ぶというこの部分だけは、どうにも同意できないのです。

 「ご神体(石の宝殿)の上部に穴が開いており、そこで火を焚いたのではないか」という説には興味がひかれます。

 果たしてその穴は、なに・・・・(no3387)

*挿絵:石の宝殿(『火の路(松本清張)』より)

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石の宝殿と生石神社の話(10) 石の宝殿は、ゾロアスター教の拝火壇か?②

2016-11-07 06:06:46 | 石の宝殿と生石神社の...

       日本に入ったソロアスター教(祆教)

 石の宝殿つくられた7世紀、日本は新しい国づくりの真最中でした。

 新しい文化が中国からどんどん取り入れました。

 その最大の文化は、なんといっても仏教です。

 でも、ちょっと考えください。

 日本に入ったのは仏教のみだったのでしょうか。熱心さにおいて温度差(公私の差)はあるものの、仏教だけでなく道教、当時中国に伝わっていたキリスト教、その他の宗教も同時に日本に入ったと考えるのが自然です。

 宗教だけではないはずです。

    ペルシャから日本へ

 古代中国では、ハイカラな風習としてイランを源流とするものが大いに流行しています。

 胡桃(くるみ)・胡麻(ごま)・葫(にんにく)など「胡」のつく植物・野菜は、たいていイランを原産地とするもの又はイラン経由のものです。

 柘榴(ざくろ)・葡萄(ぶどう)もイランから輸入されています。

 獅子や駱駝(らくだ)動物もそうです。

 そうであれば、日本へイランやイラン経由で中国へ伝えられた文化が、こんどは、中国経由で日本へ伝えられたのは当然のことと想像されます。

 松本清張氏は、飛鳥に残る不思議な石造物をヒントに、ソロアスター教(祆教・けんきょう)も日本入っていたと想像されました。

 そして、NHK取材班と一緒にイランへその証明のために取材に出かけられています。

 その結果をまとめられたのが『ペルセポリスから飛鳥へ』(日本放送協会)です。

 この本と小説『火の路』を読んだとき、石の宝殿を調べてみたくなりました。

 これらの本には石の宝殿も登場します。

 少しだけ、結果を先に紹介しておきます。

 石の宝殿はゾロアスター教の拝火壇で、上面は樹木が生えていますが、ここは、穴が開いていて火を焚いた場所ではないかと想像されています。(no3386

 *写真:ゾロアスター(祆教)でたかれる神聖な火(『ペルセポリスから飛鳥へ』より)

 

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石の宝殿と生石神社の話(9) 石の宝殿は、ゾロアスター教の拝火壇か?①

2016-11-06 08:50:15 | 石の宝殿と生石神社の...

    「石の宝殿」は何?

  先に紹介したように、『播磨風土記』には「・・・作り石あり、形屋のごとし、長さ二丈、広さ一丈五尺、たかさもかくのごとし、名を大石と言う。 伝えていえらく、聖徳の王の御世、弓削(ゆげ)の大連(おおむらじ)の造れる岩なり・・・」としています。

 『風土記』のつくられた8世紀には、すでにこの大石は、造られていたものの、その時点ですでにこれは何のために造られたのか分からなくなっています。

 江戸時代は、今とは違いこの大石は、よほど人びとの興味をひいたらしく、広重は浮世絵に、シーボルトは銅版画に、司馬江漢はスケッチにこの大石が描かれています。

しかし、「この大石は何か」について決定的な答はありません。

 いま、石の宝殿の探索のために『石の宝殿‐古代史の謎を解く‐(真壁忠彦・真壁葭子著)』を読んでいます。

 神殿説・古墳説・石棺説などさまざまです。

    石の宝殿は、ゾロアスター教の拝火壇か?

 このブログで石の宝殿を調べてみたくなったのは、松本清張氏の小説『火の路』を読んだからです。

松本氏は『火の路』で、「石の宝殿」は、ゾロアスター教の拝火壇であるとの説を主張しておられます。

次号では、少し雰囲気を変えて、「石の宝殿・ソロアスター教拝火壇説」を取り上げます。(no3385

 *写真:ゾロアスター教の拝火壇と松本清張氏(『ペルセポリスから飛鳥へ』日本放送協会)

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石の宝殿と生石神社の話(8) 竜山1号墳・被葬者は、「石の宝殿」の製作の事情を知っていた?

2016-11-05 07:12:01 | 石の宝殿と生石神社の...

  春の一日、生石神社のすぐ西にある竜山1号墳の撮影に出かけました。

 桜が覆いかぶさるような「竜山1号墳」でした。

   竜山1号墳

   被葬者は、「石の宝殿」の製作の事情を知っていた?

 山腹斜面にずり落ちるばかりに置かれていた石棺身部分のすぐ上部に小形の石室が確認されました。

 石棺の大きさは、蓋の大きさで、幅0.6メートル、長さ1.18メートル、蓋と身の高さをあわせると0.62メートルです。

 この古墳は、生石神社の境内にあり、石宝殿と無縁とは思えない位置にあります。

 この古墳の時期について、棺形から7世紀中頃までとされていますが、長さが1メートル少々の小形棺で、場合によっては火葬骨が納められていても不思議のない大きさです。

 この種の棺で、子供を納めた事例は知られていません。大人を納めた石棺です。

 場合によると8世紀に入っている可能性もある古墳とも言われています。

 とすると、すでに奈良時代です。

 ともかく、この棺に納められ、人物は、とのような生涯を送ったのでしょう。

 小さくとも竜山の伝統的な石棺に納められたこの人物は、この地方では中心的な人物の一族であろうと想像されます。

 この人物は、石宝殿製作時を記憶している人かもしれません。

 この人物の親か祖父があの「石宝殿(大石)」製作工人の中心的人物であり、製作の事情を知っていた可能性は強と想像するのです。(no3384

 *『高砂史(第一巻通史編)』参照

 *写真:竜山一号墳の石棺と蓋

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石の宝殿と生石神社の話(7) 伝承・神々のイサカイ

2016-11-04 07:45:47 | 石の宝殿と生石神社の...

    生石神社の伝承

 『峰相記(みねあいき)』という本があります。

 著書は「峰相山鶏足寺(けいそくじ)」の某僧となっていて名前はわかりませんが、鎌倉時代末期から南北朝のころまでの播磨のようすを知る貴重な本です。

  『峰相記』には、さまざまな話が取り上げられていますが、その中に高御位・生石神社の神様の話が登場します。

 湊神社(姫路市的形)の宮司、神栄宣郷氏が『郷土志(15号)』で、鎌倉時代の民衆の信仰としてこの話を紹介しておられます。

 本稿では、さらに平易な文にさせていただきました。

 ちょっと、ユーモラスは神様たちの物語です。

    神々のイサカイ

 石の宝殿(生石神社)の神様は、むかしから、「生石子(おおしこ)神」と呼ばれていました。

 峰相記に「陰陽二神としてあらわれたまう・・・」とあって、生石子神は女神で、高御位の神様は男神で、この二人の神様は夫婦でした。

 ところが、ここに日向大明神という、それは美しい女神が美しい侍女をたくさん伴って、加古の浜辺へご上陸になりました。

 高御位の神様は、日向大明神やお供の侍女たちの美しさにビックリして、とうとうご自分の所へ招待されました。

 このありさまを知った生石子神は、カンカンになり承知なさるはずがありません。

 “怒り”がおさまりません。

 美しい日向大明神を、川向うの山(日岡山)へ追いやると同時に、侍女たちを別にして泊神社(現:加古川町木村)へ押し込んでしましました。

 この高御位の神と生石子の物語は、どこか俗っぽい話で、およそ神様らしくない話です。

 こんな話からも神と共に笑い、共に泣いたむかしの人々の気持ち、考え方が伝わってきそうです。(no3383)

 *『郷土志(15号)』(神栄宣郷)参照

 (注)

 昔、日岡神社(加古川市)は、「日向神社」と呼ばれていました。現在の「日岡神社」に名前を変えたのは明治3年(1870)のことです。

 

 

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石の宝殿と生石神社の話(6) 伝承はこうしてできた

2016-11-03 08:35:23 | 石の宝殿と生石神社の...

       祭神は、「大国主神と少彦名」

 前号で紹介したように、生石神社の祭神は大国主神(おおくにぬしのみこと)と少彦名(すくなひこな))の神です。

 「どうして、この二神が祭神であるか」について考えてみます。

 万葉集に、次の歌があります。

 〝大汝(おおなむち)、少彦名乃(すくなひこなの) 将座(いましけむ) 志都乃(しずの) 岩屋者(いわやは) 幾世(いくよ) 将経(へぬらむ)〟(三五五)

 なんとなく、石の宝殿(大石)を思い浮かべるような歌です。

 作者の名前は、生石村主真人で生石神社の「生石」と同じです。

 そして岩屋も登場しています。

     祭神は、万葉集から

 「生石」「岩屋」と重なると、この歌は、石の宝殿(大石)を詠んだ歌と想像してしまいます。

 生石村主真人は、美濃の人のようです。かれは播磨国印南郡出身だとする理由はみつかりません。

 古代史には、生石村主真人という人物は多く登場します。

 万葉集に登場する上記の人物が播磨の人であることは判定でしません。

 また、「志都乃岩屋(しずのいわや)この歌が「石の宝殿」を詠んだものであるであると決めつけるのは少し無理があるようです。

 現在、万葉集の研究者も、石の宝殿を詠んだ歌と考えるのは無理としています。

 江戸時代、「石の宝殿」を知る「文化人」が、万葉集のこの歌を「石の宝殿」と結びつけ、生石神社の祭神は大国主神(大汝)と少彦名ということにして、広がったようです。(no3382

 *挿絵:神様たち

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石の宝殿と生石神社の話(5) 長い空白期をもつ『風土記』

2016-11-02 07:05:20 | 石の宝殿と生石神社の...

          長い空白期をもつ『風土記』

 もう少し『風土記』の話を続けます。

 『風土記』は編集されて後、まもなく姿を消します。

 何らかの事情で、厳重に保管されていたものの、その存在が分からなくなったようです。

 そんな状況が、一変しました。

 江戸時代、何百年もの空白の期間を経て風土記がみつかったのです。

 『播磨国風土記』は、平安時代の中期以降に書写されたものが、江戸時代の終わりころ、寛政八年〈1796〉と嘉永五年(1852)再び写され、世に登場しました。

 つまり、『播磨風土記』は、まったく世に知られない空白の期間が数百年も続きました。

 この『風土記』の空白の間にも、「石の宝殿」は、近在はもちろん、広く不思議な大岩として世に知られていました。

 人々は、この岩についていろいろと想像し、風土記とは関係ない伝説がつくられ、いまに至っています。

 いつしか、この大岩は、「石の宝殿」と呼ばれるようになり、「神様の依り代(よりしろ:神の宿る場所)である」と、神となり、やがて社殿(生石神社)が建立されたようです。

    つくられた伝承

 1031日(火)の午後、久しぶりで生石神社へ出かけました。

 そして、「日本三奇播磨国石之宝殿生石神社略記」のパンフレットをいただきました。

 そのパンフレットも、神代の昔、大穴牟遅(おおなむち)と少毘古那(すくなひこな)が、この大石を作ったという大石の起源を説明しています。

 これも、江戸時代につくられた新しい伝承です。

 「石の宝殿度は何者か」を探し出かけたいのですが、その前に石の宝殿・生石神社にまつわる伝承を先に先に見ておきます。(no3381

 *写真:生石神社と石の宝殿(大石)

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