万延元年(1860)から文久二年(1862)にかけて、新野辺村でおきた村方騒動をみておきます。
村方騒動
「小百姓」が集まり、不作のため「積立金」の支払いを庄屋・宗四郎に求めました。この時は「支払期日になっていないのでできない」と、支払いを断りました。
「小百姓」達は、納得できません。
また、庄屋・宗四郎が取り集めた講の積立金も一部しか渡さず、残りを自ら預かっていながら、支払いを延ばしていました。
積立金の支払いに不安を感じた「小百姓」が、度々支払いを求めました。
この騒動は、万延元年の不作のため生活に困った「小百姓」が庄屋・宗四郎に対し、安政元年に取り決められた積立金の支払いと、宗四郎が預かっている講の加入金の支払い要求したものでした。
① 騒動のはじまり (万延元年11月28日~12月5日)
11月末から「小百姓」は、積立金の不払いについて集まりました。
その時、「小百姓」の集まりとは別に住吉神社の氏子の主だった者(以下、頭分とする)と印形頭が村の会所で寄り合いをしていました。そこへ「小百姓」が多数押しかけました。
そこで、小百姓たちは庄屋・宗四郎の積立金不払いを訴えました。
庄屋・宗四郎が講出資金の支払いを行わない中で、とりあえず、大歳藤七郎と梅谷三右衛門は、独自に三貫目の支払いを行っています。
② 庄屋・宗四郎の退役願いをめぐって
「小百姓」たちが庄屋・宗四郎の糾弾を進める中で庄屋・宗四郎は病気を理由に庄屋の退役願いを提出しました。
12月26日、退役願いを受けて大庄屋・大歳藤七郎と頭分は話し合いました。
頭分たちは庄屋・宗四郎の退職を求めたのですが、大庄屋・大歳藤七郎は、庄屋・宗四郎をしばらく「病気養生中」として期限をつけながらも植田村庄屋・井上恵助の庄屋兼帯を藩へ上申し、井上が新野辺村の庄屋を兼ねることになりました。
③ 積立金支払いをめぐって (文久元年1月16日~2月30日)
文久元年、1月16日から、いよいよ大庄屋大歳藤七郎らにより積立金の問題についての調停が行われました。
庄屋・宗四郎を立ち会わせて積立金の取調を行っています。
その中で、大歳家が豊後屋善兵衛家へ入れた銀15貫目の借用書を宗四郎が差し出し、積立金の内から銀15貫目を大歳家へ貸し付けていることが判明しました。
これをうけて大歳藤七郎が宗四郎の言い分を委細を取り調べているのですが、それ以上、何も記録が残されていません。
が、おそらく、宗四郎の主張は事実だったと思われます。
しかし、事はそれだけでは終わりませんでした。
2月14日になって「村方」が今度は講の積立金・二貫目の不足を主張し始め、再び調停が行われています。
この調停には、大庄屋大歳藤七郎、兼帯庄屋・井上恵助等が取り調べ、さらに大歳藤七郎と対時する「村方」の中心の頭分と判頭惣代(五入組頭の惣代)が含まれていました。
新野辺村は、もはや大歳家の一存では運営できない状態でした。
この件は、宗四郎の病気全快後に支払いを行うこととなり、頭分が積立金の一部を家別に割り渡して、2月30日に一応の決着を見ました。
新野辺村の村方騒動についてもう少し続けます。
*『ヒストリア(193号)』(大阪歴史学会)より「播州姫路藩における大庄屋と村」(羽田真也)参照