ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

新野辺を歩く(32):幻の三か寺の諸仏は薬師堂に

2012-08-05 07:32:14 |  ・加古川市別府町新野辺

  鶴林寺浄心院と消えた三か寺  

008『加古川市誌(第二巻)』に、新野辺にあった寺院と鶴林寺浄心院の関係についての記載があるので、その一部を掲載しておきます。

すでにブログで紹介した内容と重なります。

(以下、『加古川市誌(第二巻)』より

・・・・新野辺は、早くから浜ノ宮天神社を産土神と仰ぐ同神社の氏子であり、しかも、その浜ノ宮天神社の神宮寺が鶴林寺であったことは、同神社を介して、同村と同寺の間には不可分離的な親縁関係の存したことがうかがうことができるであろう。

よって、前述のように天明ころから寺院が無住となった新野辺では、観林寺が浜ノ官天神杜の神官寺であるという密接な関係からと、一面、このころ、同寺が朱印百十七石余を擁して威勢がよかったので、同寺の檀信徒になることは社会的にも大きな誇りであった関係から、これらが誘因の基調となって、同寺へ転宗して行ったものと考えられる。

しかして、これを徴証するものに、浄心院所蔵和七年五月の「新霊記」があり、これに新野辺に在住した人々の法名がしるされている。

なお、古老の語るところでは、新野辺の住民が朴氏(とじ)として出かせぎに行く際、聖徳太子と縁故のある鶴林寺の檀信徒であるといえば便宜が与えられたという。

これもまた新野辺が同寺の檀信徒となった大きな魅力の一つであったと思われる。

・・・・・・

031また、浄心院の住職のうち尊慶・慶讃・弘慶が新野辺村の有力者であった梅谷家の出であり、また慶讃の代に同院が全焼した際、梅谷家は一個人の浄財でこれを再建した関係もある故、このような因縁から同院についたのではないかとの説がある。

  消えた三か寺の諸仏は

新野辺の薬師堂で祀られる

かつて、新野辺にあった幻の三寺院の姿を今では見ることはできません。

その内、円福寺は今の薬師堂です。

薬師堂は鶴林寺の末寺で、もちろん天台宗のお寺です。

薬師堂は、平成8年現代のように建て替えられました。

3か寺の建物では、もう現存するものはありません。

でも、本尊等の仏像はすべてこの薬師堂に集められており置くようが続いています。

*写真上:現在の新野辺の薬師堂

*写真下:薬師堂に祭られている薬師如来

コメント
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