下流の村・新野辺
五ヶ井用水は加古川を水源にもつだけに、水量は豊かで、よほどの早魅でないかぎり水は十分にありました。
五ケ井郷の上流の村々では、水争いが起きた事例はほとんど史料に表れていません。
しかし、五ケ井郷の下流の村々では若干事情が異なります。しばしば水争いが発生しています。
五ケ井郷の村々の旱魃や水争いについて少し述べておきます。
延宝四年(1676)の大干ばつでは、五ケ井郷においても田植えができなかったことが史料にみえます。
また、寛政元年(1789)の旱魃もひどく、新野辺村でも田植えが遅れました。
5月23日の早朝から樋を抜いて水を別府村へ送り、暮れには堰止め、新野辺村は24日に井溝筋付近から植え付を始めました。
しかし、その頃から五ケ井の水が減じ、新野辺村まで下ってこなくなり、井溝の水を何度もかえあげ田植えを続けています。
たまたま、安田・長田・口里村では麦の取入れが遅れ、まだ田植えにかかっていなかったため、3力村に下った五ケ井の水は、いたずらに加古川へ抜き落とされていました。
そこで、新野辺村は口里村に交渉して水をかえあげさせてもらい、田植えの用水に当てることができました。
雨乞い、そして水争い
このような事態に、27~29日の間平松(現在の加古川大堰の東詰)で、雨乞いの祈禱を行ないました。
鶴林寺は高砂組の村々(新野辺は当時高砂組)の依頼で24~26日に雨乞いの祈禱を行なったし、6月2日・3日には浜ノ宮天神社でも行なわれました。
しかし、雨はほとんど降らず、5月末の段階で新野辺村の田52町1反余の内35町余は、なんとか田植えがでたのですが、16町5反9畝余りはできませんでした。
6月3日のことでした。
五ケ井の水は、少しばかり新野辺村の手前まで流れ下ってきました。
が、それを上手の長砂村が竜骨車(揚水機)で水を汲みあげ、新野辺村に下らなくなり、新野辺村は長砂村に抗議しました。このため、長砂村では竜骨車の使用を止めました。
その後、6月8日ごろ遅れて田植えにかかった口里村等も水不足となりました。
そのときは、新野辺村は字壱丁田の溝口堰の水を落として口里村に水を回しています。
*『五ヶ井土地改良区誌』(五ヶ井土地改良区誌編さん委員会)参照