ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

新野辺を歩く(59):新野辺大歳家③・たかまる小作百姓の不満

2012-08-30 07:05:05 |  ・加古川市別府町新野辺

   大歳家:新野辺村の小作人は77人

96b7ca2d安政元年(1854)当時、大歳家は新野辺村において分家を含め97石を所持していました。

新野辺以外の土地を拡大させつつも、新野辺村の所持地こそが、大歳家の経営の中心でした。

安政元年四月の大歳家に残る古文書によれば、大歳家は分家を含んだ村内の所持地と数石程度の池田村・別府村内の所持地とを一括して管理し、この年、田地から年貢米と小作米150石弱、畑地から1貫856匁余を得る予定でした。

そのうち大歳家の自作地からは米9石弱を得るに過ぎず、大半が小作地でした。

大歳家は、小作地では80人の小作人を抱え、うち77人が新野辺村の百姓でした。

所持地の大半を小作地とし、新野辺村の百姓を数多く小作人としてかかえていたのです。

おそらく梅谷家も大歳家と同様の地主経営を行っていたと考えられます。

    たまる下層農民の不満!

万延元年(1860)も5月上旬と7月の台風によって安政4年と同じく不作となりました。

新野辺村も他村と同様に藩へ手当米(給付米)を出願しました。

921日、代官によって見分が行われ、庄屋・宗四郎へ手当米411斗が申し渡されました。

その翌日の事です。村役人・住吉神社の氏子代表・五人組頭により、手当米の披露が行われ、その後、大歳・梅谷家に対して小作料の減額について話し合われました。

新野辺村の百姓の多くが大歳・梅谷両家の小作人でした。

この話し合いでは、村役人(五人組頭)の惣十郎と久次兵衛が小作人の側にたって行動しています。

大歳家が庄屋就任後に新野辺村で所侍地を急速に拡大させています。

それにより村内では地主・小作関係が強まり、大歳家と住吉神社の氏子、五人組頭、そして下層小作人との間に対立が生まれていました。

そしえ、大歳家が金銭問題に絡み、大庄屋と兼任していた庄屋を退役させられ、その後、大歳家は村において大きな発言権を弱めました。

それは、大歳家とおなじ経営を行っていた梅谷家も同じで、村運営における発言権を弱めています。

このあたりの事情を次回でも、さらに検討することにします。

*『ヒストリア(193)』(大阪歴史学会)より「播州姫路藩における大庄屋と村」(羽田真也)参照

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