新野辺の大歳家について調べることにします。
新野辺村の大歳家は、天明八年(1788)~寛政二年(1795)頃に新野辺村の庄屋を務めていました。
文化元年(1818)11月、大歳吉左衛門は大庄屋格となり、そして天保9年(1838)大歳藤八郎は、新野辺組の大庄屋となりました。
大庄屋任命後も安政治九年(1854)まで新野辺村の庄屋を兼ねていました。
藤八郎が大庄屋に任命された理由は、はっきりとは分かっていません。
新野辺組大庄屋・大歳家
大庄屋と大歳家について「新野辺を歩く(3)」をご覧ください。復習をしておきます。
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江戸時代、各村には村を治めるために庄屋がおかれました。大庄屋は、それらの庄屋をまとめる庄屋のことです。
庄屋の中の庄屋という存在で、ふつう大庄屋の治める村は、10数ヵ村で、それを「組」と呼んでいます。その組の名は、ふつう大庄屋の住んでいる村名で呼ばれました。
ですから、大歳家のおさめる村々は、「新野辺組」でした。
新野辺組は、天保9~明治4年(1838~71)、新野辺村の他11ヶ村(北在家・植田・備後・別府・口里・長田・今福・養田・池田・小松原・高砂・荒井)と2新田からなる組でした。(新野辺組の村々については「新野辺を歩く・3」の地図をご覧ください)
各村におかれた庄屋とちがい、大庄屋は苗字・帯刀をゆるされ、農民の代表というより、藩(姫路藩)のお役人のようでした。(以上「新野辺を歩く・3」より)
大庄屋は、藩が自らの意思で選び、庄屋などの意見は考慮されていません。
大庄屋の主な仕事をあげておきます。
① 藩の代官から伝えられる法令・命令・お触れを各村の庄屋へ伝達すること。
② 組内の百姓の訴訟を解決すること。
③ 藩への願いなどに奥印をすること。
*写真:大正7・8年頃の大歳家
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