ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

新野辺を歩く(31):長谷寺(郡西国三十番札所)

2012-08-03 22:23:37 |  ・加古川市別府町新野辺

   西国巡礼

002西国三十三観音霊場巡りは、平安時代の中ごろ、庶民の間に流行しはじめて、後に貴族たちがまねをするようになりました。

人々は、病気の平癒(へいゆ)を願い、病気が癒えるとお礼のために、または亡き人の供養のために、さらに自らの死後の平安を求めて、人々は西国三十三観音霊場めぐりに出かけました。

第一番の那智山青岸渡寺から最後の三十三番目の谷汲山華厳寺までの寺めぐりでした。

それは、まさに苦行の旅でした。

江戸時代になり、治安もよくなりました。

交通機関も整備され、西国三十三観音霊場めぐりも比較的やりやすくなり、苦行であった巡礼も、レクレーション的な性格さえ持つようになりました。

それでも、誰にでもできる気軽な巡礼の旅ではありませんでした。

苦しい生活の庶民にとって、三十三観音霊場巡りは現在の外国旅行よりも、ずっと縁の遠いものでした。

そこで考えられたのが播磨の国に三十三か寺の観音霊場を定め、それらの寺を巡礼すれば、同じ功徳があるとしてはじまったのが「播磨西国三十三所霊場めぐり」です

このような巡礼がはじまったのは、江戸時代の初めの頃です。

  郡西国三十三札所めぐり

長谷寺は三十番札所

「播磨西国霊場めぐり」よりも簡単に、誰にでもできる巡業として、加古郡内に三十三観音めぐりの霊場が定められました。

これが「郡西国三十三札所(郡西国ともいう)」です。

この郡西国の三十番札所が、新野辺村の長谷寺でした。

なお、長谷寺の観音菩薩は、現在薬師堂に祭られています。

ちなみに、その他の近在の三十三ヶ所の霊場をあげておきます。

(加古)郡西国一番は池田村観音寺、二番・長田村長田寺、七番・今福村延命寺、三十二番・長砂村円長寺、三十三番・長砂村西方寺などです。

なお、池田村の観音寺は播磨西国の札所でもあり、郡西国では一番の霊場でした。

*写真:延命地蔵堂(長谷寺跡)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新野辺を歩く(30):廃仏毀釈

2012-08-03 08:29:49 |  ・加古川市別府町新野辺

 ウィキペディアから「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の説明の一部を読んでおきます。

   廃仏毀釈

一般に「廃仏毀釈」と言えば、日本において明治維新後に成立した新政府が慶応4年に発した太政官布告(通称神仏分離令)、明治3年に出された政策によって引き起こされた、仏教施設の破壊などを指す。

神仏分離令等は神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)とも呼ばれる民間の運動を引き起こしてしまった。

明治4年(1871)ごろ終熄したが、影響は大きかった。

さらに、1871年(明治4年)正月5日付太政官布告で寺社領の上知令が布告され、境内を除き、寺や神社の領地が国に取り上げられる。

これにより経済的な基盤を失い、一層困窮し荒廃することになった。(以上、「ウィキペディア」より、一部文章を変えています)

   加古郡は27ヶ寺が廃寺に(明治4年)

027加古郡の場合、この時期に27ヶ寺が廃寺に追い込まれました。

この27ヶ寺のうちに、新野辺村の円福寺・長谷寺・正覚寺が含まれています。

少し、思いすごしかもしれませんが、余談を書いておきます。

この廃寺になった27ヶ寺のうち9ヵ寺が浄土宗の寺です。つまり、三分の一が浄土宗の寺院でした。

新野辺村の3ヵ寺も浄土宗の寺でした。

全国的に廃仏毀釈で最も標的にされたのが、浄土宗の寺々でした。

明治新政府は、浄土宗に厳しい取り締まりの目を向けました。

というのは、江戸幕府を開いた徳川家が浄土宗であり、江戸時代、浄土宗に手厚い保護をあたえていたからです。

もちろん、新野辺村の3ヶ寺は、経済的に維持できない状態であったようですが、廃仏毀釈の影響をもろに受けた寺だったのでしょう。

明治4年、新野辺村の3ヵ寺は廃寺となりました。

 *写真:現在の正覚寺跡(新野辺住吉神社の東に隣接する空き地)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする