千代新田のスポンサーたち
文化十三年(1816)新野辺村の大歳冶部右衛門へ姫路藩から「池田浜の海中に潮留堤防をつくり新田を開拓するように・・・」という命令があり、新田造成が始まりました。
場所は、前号で紹介した岩崎新田の東となり(右図の赤く彩色した場所)です。
高砂の岸本吉兵衛、大野村の荒木弥一衛門、そして新野辺村の大歳吉左衛門の三人で開発にとりかかりました。
文政四年(1621)、ようやく「千代新田」として検地をうけ、田14町5畝・140石5斗、畑4反4畝16歩2分5厘・3石5斗6升3合3夕、合わせて14町4反9畝2歩5厘・144石6升3合が高入れされました。
千代新田は、一区割りごとに所有者が決められたわけでなく、岸本・荒木・大歳の外、姫路の児島又右衛門を加えて四人の連名の所有でした。
そして開発の諸費用は、はじめは、岸本が5歩(5割)、荒木が3歩、大歳が2歩の割で負担することにしていましたが、開発、検地がなされたのち、文政四年に三人の負担率は岸本4歩4厘、荒木・大歳それぞれ2歩8厘に改められた。
この段階では、千代新田の所有者は4人でありながら、児島又右衛門だけは諸費用の負担者となっていません。
しかし、文政七年(1824)に、児島も負担者となり、開発以来の諸費用について岸本が3歩5厘、荒木・大歳が各2歩、児島2歩5厘の負担をすることに変更となりました。
塩害の新田
「千代新田」開発のために労働力を提供した池田村に対しては、文政三年から同七年まで年々銭350貫491文ずつ5年間の計算で、合わせて銭1752貫455文が文政七年に支払われています。
その費用の負担は所持する新田の面積に従って4人が負担しました。
開発後、附近の村々の者を耕作者として入植させましたが、「千代新田」は、海岸であるため潮気が多く、稲が立ち枯れる被害にあい、耕作の始まった文政四年、さっそく多くの入植百姓が元の村に帰ってしまったほどでした。
これを防ぐために、借財などで村方へ帰れない者や流浪人でも人柄を見て入百姓にし、家を建てて住まわせ耕作させたといいます。
やっと、文政10年(1827)、25俵を姫路藩に献上しました。
しかし、文政13年の史料によれば文政3年以降12年まで、毎年植えつけても作物は十分に生育せず、この間入植者は地主から助成してもらうことも多かったようです。
このような事情でしたから、天保四年(1833)より年貢を上納する新田として発足しましたが、年貢率はさしあたり3ツ(3割)と低い年貢率(免相)と定めらました。
*『加古川市史(第二巻)』より