ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

新野辺を歩く(37):千代新田

2012-08-09 06:29:40 |  ・加古川市別府町新野辺

   千代新田のスポンサーたち

A60eece6文化十三年(1816)新野辺村の大歳冶部右衛門へ姫路藩から「池田浜の海中に潮留堤防をつくり新田を開拓するように・・・」という命令があり、新田造成が始まりました。

場所は、前号で紹介した岩崎新田の東となり(右図の赤く彩色した場所)です。

高砂の岸本吉兵衛、大野村の荒木弥一衛門、そして新野辺村の大歳吉左衛門の三人で開発にとりかかりました。

文政四年(1621)、ようやく「千代新田」として検地をうけ、田145畝・1405斗、畑441625厘・35633夕、合わせて144925厘・14463合が高入れされました。

千代新田は、一区割りごとに所有者が決められたわけでなく、岸本・荒木・大歳の外、姫路の児島又右衛門を加えて四人の連名の所有でした。

そして開発の諸費用は、はじめは、岸本が5(5)、荒木が3歩、大歳が2歩の割で負担することにしていましたが、開発、検地がなされたのち、文政四年に三人の負担率は岸本44厘、荒木・大歳それぞれ28厘に改められた。

この段階では、千代新田の所有者は4人でありながら、児島又右衛門だけは諸費用の負担者となっていません。

しかし、文政七年(1824)に、児島も負担者となり、開発以来の諸費用について岸本が35厘、荒木・大歳が各2歩、児島25厘の負担をすることに変更となりました。

   塩害の新田

「千代新田」開発のために労働力を提供した池田村に対しては、文政三年から同七年まで年々銭350491文ずつ5年間の計算で、合わせて銭1752455文が文政七年に支払われています。

その費用の負担は所持する新田の面積に従って4人が負担しました。

 開発後、附近の村々の者を耕作者として入植させましたが、「千代新田」は、海岸であるため潮気が多く、稲が立ち枯れる被害にあい、耕作の始まった文政四年、さっそく多くの入植百姓が元の村に帰ってしまったほどでした。

これを防ぐために、借財などで村方へ帰れない者や流浪人でも人柄を見て入百姓にし、家を建てて住まわせ耕作させたといいます。

やっと、文政10年(1827)、25俵を姫路藩に献上しました。

しかし、文政13年の史料によれば文政3年以降12年まで、毎年植えつけても作物は十分に生育せず、この間入植者は地主から助成してもらうことも多かったようです。

このような事情でしたから、天保四年(1833)より年貢を上納する新田として発足しましたが、年貢率はさしあたり3ツ(3割)と低い年貢率(免相)と定めらました。

*『加古川市史(第二巻)』より

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