きょうの話題に新野辺村は登場しません。新野辺村の五ヶ井用水の説明のまえに五ヶ井用水の歴史を見ておきます。
聖徳太子と五ヶ井用水
『日本書紀』に次のような記述があります。
「(今から1300年以上も前のことである)聖徳太子は、叔母の33代の推古天皇のために法華経等を講義された。この講義に推古天皇は、おおいに感動され、その労をねぎらうため、播磨の国の良田を聖徳太子に与えた。太子は、これを播磨に分け法隆寺の荘園とした・・・」
その土地は、揖保郡太子町の斑鳩寺(はんきゅうじ)あたりで、法隆寺領荘園鵤荘(いかるがしょう)だというのが大方の説です。
太子町の班鳩寺は、この荘園の管理と信仰の中心として11世紀ごろに創建されました。
一方、鶴林寺ですが、『鶴林寺縁起』はともかく、建築様式などから鶴林寺は平安時代初期の創建と考えられます。
五ヶ井用水と聖徳太子のつながりは考えにくいのです。
条里制と五ヶ井の水路
地方には国司・里長等の地方官が置かれました。これら地方官の仕事は治安、そしてなによりも農民から確実に税を納めさせることにありました。
政府は、税を確実にするために土地制度を整えました。これが条里制です。
条里制は、七世紀の末には始まっていただろうと思われます。
条里制の土地があったことは確かめられています。しかし、土地だけでは田畑になりません。水が必要です。
考えられることは、加古川の水を利用することです。
加古川は、暴れ川でした。加古川に堰をつくり、堰から溝に水を引いたとも考えられません。
この時代に大規模な堰・用水路を造る土木技術はまだありません。
加古川は、太古よりその流路を変えています。加古川の旧流路(図の黒く塗りつぶした部分)を見てください。
これらの加古川の旧流路と五ヶ井用水の遺構がたぶんに重なるのです。
つまり、条里制の土地は加古川の旧流路を用水路として手を加え利用したと考えるのが自然のようです。
五ヶ井用水の始まりは条里制の時代(奈良時代)にまで、さかのぼることができると想像されます。