ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

新野辺を歩く(57):新野辺大歳家①・新野辺組大庄屋

2012-08-28 00:09:37 |  ・加古川市別府町新野辺

新野辺の大歳家について調べることにします。

新野辺村の大歳家は、天明八年(1788)~寛政二年(1795)頃に新野辺村の庄屋を務めていました。

 文化元年(1818)11月、大歳吉左衛門は大庄屋格となり、そして天保9(1838)大歳藤八郎は、新野辺組の大庄屋となりました。

大庄屋任命後も安政治九年(1854)まで新野辺村の庄屋を兼ねていました。

藤八郎が大庄屋に任命された理由は、はっきりとは分かっていません。

新野辺組大庄屋・大歳家

78s大庄屋と大歳家について「新野辺を歩く(3)」をご覧ください。復習をしておきます。

・・・・

江戸時代、各村には村を治めるために庄屋がおかれました。大庄屋は、それらの庄屋をまとめる庄屋のことです。

 庄屋の中の庄屋という存在で、ふつう大庄屋の治める村は、10数ヵ村で、それを「組」と呼んでいます。その組の名は、ふつう大庄屋の住んでいる村名で呼ばれました。

ですから、大歳家のおさめる村々は、「新野辺組」でした。

新野辺組は、天保9~明治4年(183871)、新野辺村の他11ヶ村(北在家・植田・備後・別府・口里・長田・今福・養田・池田・小松原・高砂・荒井)と2新田からなる組でした。(新野辺組の村々については「新野辺を歩く・3」の地図をご覧ください)

 各村におかれた庄屋とちがい、大庄屋は苗字・帯刀をゆるされ、農民の代表というより、藩(姫路藩)のお役人のようでした。(以上「新野辺を歩く・3」より)

大庄屋は、藩が自らの意思で選び、庄屋などの意見は考慮されていません。

大庄屋の主な仕事をあげておきます。

  藩の代官から伝えられる法令・命令・お触れを各村の庄屋へ伝達すること。

  組内の百姓の訴訟を解決すること。

  藩への願いなどに奥印をすること。

*写真:大正7・8年頃の大歳家

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