話題をガラッと変えて、別府町つまり別府町新野辺の加古川市への合併の裏話を4回シリーズで取り上げます。
*「新野辺を歩く」は、まとまった内容・順序だった報告になっていません。読みづらいと思いますが、ご了承ください。
加古川市との合併①
別府町は、昭和26年(1951)10月1日、難産の末、結果的には加古川市と合併しました。
別府町は海運船舶業がさかんで、別府町との合併は「臨海工業都市への発展」を秘めた極めて魅力的な青写真でした。
そのため、別府町への合併の誘いは、加古川市だけではありませんでした。
◇三つの合併構想◇
加古川市から別府町へ合併の申し入れがなされたのは、昭和24年(1949)でした。
当時、加古川市との合併以外に、別府町には二つの選択肢がありました。
一つは、加古郡別府町、阿閇村・二見町が合併する東播臨海都市建設構想でした。
神戸新聞は「・・・・(阿閇村・二見町との合併は)あらゆる面で共通した条件を持つものの団結で、将来の発展を期したいという提案があり、全員が大体賛成の意向を示したのでちかく関係町村によって正式の合併相談が行われる模様である・・・」(昭和24年11月17日)と報じました。
今にも、別府と阿閇・二見との合併が実現しそうな雰囲気でした。
もう一つは、加古郡別府町、高砂市、尾上村、荒井村、印南郡伊保村との合併構想です。
高砂・尾上・荒井・伊保、そして別府を加えて一海岸都市を構想していました。
高砂市長のこの構想は、高砂・伊保を中心とする構想であり、別府町にとっては少し面白くありませんでした。
ともかく、合併の利害が対立し、別府町内は分裂状態となったのです。
*『加古川市史(第三巻)』参照
写真:別府町・加古川市の合併式