*今日の報告は、「新野辺大歳家」についてまとめるため「新野辺を歩く⑬」と重なっています。後日、整理編集します。ご了承ください。
大歳家は、多くの貴重な古文書が保存されていることでも知られています。
嘉永四年(1851)当時の古文書から村の様子を拾ってみます。
新野辺村は三重構造の村
羽田真也先生(関西学院大学)は、幕末の新野辺村の特色を「大歳家文書」から次の3点(①~③)を指摘されています
今日の報告は『ヒストリア(193号)』の羽田先生の「播州姫路藩における大庄屋と村」を参照させていただきました。
① 新野辺村の土地は、ほぼ村内だけの所有
この件については③にみます。
② 突出した大歳家・梅谷家の土地所有
当時、梅谷三右衛門家が143石弱、大歳慈父右衛門家が96石の所持高でした。
所持高第3位の善兵衛家が21石で、新野辺村では梅谷・大歳家が突出しています。
梅谷家は、近世初頭から18世紀後半まで大歳家と交替するまで庄屋を務めていました。
大歳家は、元文二年(1737)当時33~4石であったこと、文政10年(1827)前後に所持高が52石余であることなどから、梅谷家とは対照的に18世紀末の庄屋就任以降土地を集積しています。
③ 多い無高層・小高持層
もうひとつの新野辺村の特色は、無高が61軒、所持高1石未満が56軒、1石以上3石未満の29軒を占めており、これだけで軒数の57%を占めていることでした。
このように、生産高から見ると梅谷家と大歳家が突出した所持高を有し、その対極に無高層・小高持層が多数存在する村でした。
しかし、村への村の必要経費の負担額から判断すると、土地の所持高からだけでは判断できません。
新野辺村では商業活動に励んでいる百姓が多数存在していたことです。
幕末期の新野辺村は、梅谷家と大歳家が突出した大百姓である一方では商業流通にかかわって成長を遂げる百姓も多数存在していました。
しかし、これらの対極に零細経営の百姓が分厚く存在するという状況でした。
大歳家・梅谷家を突出した大百姓と紹介しましたが、両家は自ら直接米の生産にたずさわったのではありません。
梅谷家・大歳家の土地は当然小作に出されました。
新野辺村には、零細経営の百姓が分厚く存在していました。かれらは、梅谷家・大歳家の土地を小作していました。