ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(138) 文観を追え(15)、真言律宗の足跡(7)・法華山の一乗寺の傘塔婆

2018-04-05 08:04:41 | お爺さんが語る郷土の歴史

 加西市の一乗寺に出かけます。一乗寺と傘塔婆(そとうば)の話です。

 山川均先生の論文「東播磨の中世石仏と文観」をお借りしています。

    法華山の一乗寺の傘塔婆

      ◇文観(13歳)、一乗寺で得度◇

 文観は正応三年(1290)、一乗寺において慶尊律師の下で得度(とくど・出家)しました。

 文観13歳の時でした。

 ということは、文観が小僧として常楽寺(加古川町大野)に入ったのは10歳ごろだったのかもしれません。

 一乗寺の正門付近は、高さ290㎝の大型の笠塔婆(凝灰岩製)があります。

 文字は読みにくいですが、写真をご覧ください。

 塔身正面の上部に種子(梵字)「アーク(大日如来)」と彫り、その下に大きな字で「金輪聖王」、その下に少しあけて「自金堂一町」と彫られています。

 その下に、やや小さな字で「正和五 十二月廿一日」「依 勅造立之」と二行に分けて刻まれています。

 この笠塔婆は、正和五年(1316)十二月に造立されたものであることを知ることができます。

 「勅」というのですから、通常ならは天皇による命です。

 この傘塔婆の場合「金輪聖王」という表現に注目ください。

 文観は、よく知られているように後醍醐天皇のことを、しばしば「金輪聖王」と呼んでいます。

 一乗寺の笠塔婆銘文の「金輪聖王」も、後醍醐天皇を指す可能性は高いと考えられています。

 また、一乗寺と文観の関係を考えればその可能性はますます高まります。

 また、ある学者は、一乗寺の傘塔婆にある梵字・アーク(大日如来)の字体は文観の字体によく似ているといわれています。

 文観・一乗寺・後醍醐天皇は、強い糸でつながっているようです。(no3417)

 *写真:一乗寺の傘塔婆

 *「東播磨の中世石仏と文観(山川均先生の論文)」参照

 ◇きのう(4/4)の散歩(11.115歩)

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