史料にみる印南野の開発
前回、天満大池の開拓は鎌倉時代としました。
さらに論を進めたいのですが、私には荷が重すぎます。
そのため、中世史の学者のご意見を参考にさせていただきます。
間違った紹介になっては失礼です。
いまのところA先生とさせていただきます。
A先生は、蛸草郷(現在の稲美町蛸草ではなく天満大池の西部に広がる地域)の開発は1315年前後とされています。
それを、証明する史料として「道常寺領寄進状(相模国円覚寺文書)」(正和四年・1315)と「道常置文(相模国円覚寺文書)」(正和四年・1315)を紹介しておられます。
詳しくは、これらの文書は、『加古川市史(第4巻)』(p83~84)に紹介されています。
前者の史料では、道常が播磨五箇荘園の土地を北條氏から得てそれを円覚寺に寄付をし、後者の史料ではで下記のように記載しています。
・・・(印南野の)新たに開墾した耕地に関しては、開墾の対価である「年貢免除期間」が終了したら、全面的に円覚寺の収入にしてください。
それから、現地支配権は、関屋弥七忠政に与えますので、そのようにしてください。
現地支鰹権は関屋弥七忠政の子孫に相続されます。
重大な過失(年貢の大幅ば未納など)がない限りは現地支配権者を他の人にしないでください。・・・
関屋弥七忠政についての詳細は分かりませんが、鎌倉幕府の執権北條貞時の有力な家臣のようです。
つまり、印南野開発に円覚寺や中央の政治が関係しています。
この時、天満大池の大規模改修が行われたと考えられるのです。
もちろん、これらの開発に西大寺系のインフラ整備のエキスパート集団が関係することになります。(no3420)
*写真:現在の天満大池
◇きのう(4/7)の散歩(10.678歩)
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