いま、「かこがわ100選」を連載していますが、少し休憩して、戦争中の学童疎開について紹介します。
「かこがわ100選」は、志方町への「学童疎開」の紹介の後に続けます。
学童疎開
学童疎開(がくどうそかい)は、第2次世界大戦末期の日本で、アメリカ軍の空襲などによる被害をさけるためおこなわれた大都市の小学校(当時は国民学校)児童の農村部への移住政策です。
1943年(昭和18)末から親戚などをたよる縁故疎開がはじまり、44年(昭和19)6月に学童疎開促進要綱を政府は決定し、半強制的な集団疎開となりました。
このとき対象となった都市は、東京都区部・横浜・川崎・大阪・神戸・名古屋など13都市で、対象児童は初等科3~6年生でした。
1945年(昭和20)3月からはさらに疎開政策が徹底化され、1、2年の児童もふくむ全員疎開が目標になりました。
敗戦までに集団疎開した児童は約45万人に達したといいます。
疎開先は主に農村部の寺院などで、こうした集団生活では、食糧難や親元をはなれた生活な不安、農村との生活習慣の違いなどでいろいろな混乱や悲劇がおきました。
最終的に都市への引き揚げがおわったのは敗戦の3カ月後の1945年(昭和20)11月でした。
志方への学童疎開
志方町の散策をしていた時、神戸の児童が志方町への学童疎開があったことを知りました。
そして、かつての「疎開児童」は、平成六年(1994)年10月、疎開先の妙正寺(志方町横大路)等を訪問し「同窓会」をされています。
そして、その後、当時の体験を「学童疎開追想」と題した文集にまとめられました。
このブログでも、(文集)『学童疎開の追想』の一部を読んでみましょう。
*写真:文集『学童疎開追想』(神戸小学校学童疎開追想編集委員会)
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