ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

薬栗(加古川市上荘町)

2006-08-09 05:41:42 |  ・加古川市上荘・平荘町

11409a06_1 《薬栗》   *慶長時代の絵図では「葛栗」の字をあてている。

  「古地名新解(石見完次著)」と「加古川万華鏡(岡田功著)」を手がかりに、薬栗を訪ねたい。

  地名語源辞典では、クスクリのクスはたいてい崖・自然堤防・崩れの意味で、クリは刳りとられた地形、または栗石のことであるという。

  確かに、薬栗は承応年間(1652~55)に東方の小字・古屋敷(ふるやしき)から移住している。また、寺の元(てらのもと)・寺の山(てらのやま)という小字があるが元、長慶寺があった場所である。

  ともに移住の原因は洪水であろう。

《薬栗・長慶寺山古墳》

  加古川右岸には、左岸に比べ古墳の規模・数において圧倒的に劣っている。その中にあって、長慶寺山にある古墳群は、内行花文鏡などを出土した貴重な古墳群である。

  この古墳に関して「加古川市史(第一巻)」に、少し気になる記述がある。

  「・・・前方後円墳(長慶寺山古墳群のこと)は、1955年(昭和30)に地元の中学生によって、不用意に発掘されたため、詳細はよく分からない。・・・・(出土品により)4世紀古墳にさかのぼる古墳かと考えられる。

  4世紀古墳とすると、日岡古墳群と同時期の古い時代のものである。古墳時代、薬栗あたりは、左岸に劣らず輝いていた。

* 図は長慶寺山古墳群(「播磨風土記への招待」-浅田芳朗著」より

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 神仏分離(平荘神社の板碑に... | トップ | 山角廃寺(加古川市平荘町) »

コメントを投稿