【母と歩けば犬に当たる…目次】

東海道みとり旅の記録
【母と歩けば犬に当たる】
目次

01|母とオンボロ自転車
02|土砂降りの中を歩く
03|45ウイスキー
04|遠距離と家族
05|誕生日の朝
06|入院
07|母の住所録
08|黄昏を歩く――告知
09|女と台所と冷蔵庫
10|かたちあるもの
11|巴川夕景
12|まちの死といなかの死
13|人生の一番長い日
14|みんな
15|病室のピクニック
16|甘食を知っていますか?
17|病院に歌が流れるとき
18|ひとまず退院
19|親子の対話
20|出清水記
21|楽しい病院とはなにか
22|小春日和
23|親子の遠近法
24|アホの壁
25|冬の旅人
26|営食養生
27|天職
28|靴が鳴る
29|旅の原点
30|あの角を曲がるまで
31|Wけんじという漫才コンビがいた
32|ドアを開けて
33|春の詫び状
34|男ならやってみな?
35|病床六尺
36|春の雨はやさしいはずなのに
37|いい町へ
38|タイヘン
39|春の中心
40|辞書と金閣寺
41|ざっくばらん
42|あーぬけにひっくらかる
43|種漬花(たねつけばな)
44|浪花節的医者考
45|連鶴
46|サトウハチローとおかあさん
47|痛み
48|わが胸の底のここには
49|別れの一本杉
50|夏と朝顔

51|◉極私的・夏休み親子六義園自然観察教室……1[タイサンボク]

52|◉極私的・夏休み親子六義園自然観察教室……2[君の名は]

53|◉極私的・夏休み親子六義園自然観察教室……3[アリジゴク]

54|◉極私的・夏休み親子六義園自然観察教室……4[鯉と亀と人]

55|◉極私的・夏休み親子六義園自然観察教室……5[小さい世界の大きい楽しみ]

56|◉極私的・夏休み親子六義園自然観察教室……6[夏の葬列]

57|◉極私的・夏休み親子六義園自然観察教室……7[ハト派スズメ派カラス派]

58|◉極私的・夏休み親子六義園自然観察教室……8[カメくらべ]

59|◉極私的・夏休み親子六義園自然観察教室……9[クコの実]

60|透明な九月――清水へ
61| 一歩先の秋
62|もう一度
63|ダラシネの旅へ
64|いのちの終え場所
65|祈るしかない
66|泳ぎ続けるマグロ
67|週末の旅愁
68|東海道行ったり来たり
69|月曜日の時計
70|清水富岳百景
71|駅弁は死なず
72|朝のデイサービス
73|タクシー・ドライバーのチカラ
74|さらばミカン娘
75|病院で死ぬということ
76|ろくよんとしちさん

77|◉極私的・夏休み親子六義園自然観察教室……10忘れかけた最終回[旅の終わり]

78|みなとの午後三時
79|ひとり食堂
80|冬どなり
81|ハンマー投げの母
82|立ち往生
83|連想ゲーム
84|母が米にうるさいわけ
85|見えるもの見えないもの
86|母の鉛筆
87|木の名前
88|ユリイカの時代
89|病院のメリー・クリスマス
90|冠雪
91|行く年来る年
92|最強の男は誰だ!
93|ホルモン道場
94|ヤツガシラ
95|あさぎり
96|金太郎の週末
97|母が女に見えるとき
98|マーキング
99|巴川河口にて
100|井上靖の絶筆
101|天国にいちばん近い食堂
102|がんセンター寸景
103|足裏の思考
104|春のベランダ
105|春の食卓――からし菜
106|春の食卓――ハンバ
107|カスピ海ヨーグルト
108|卓上のクローン
109|しょうがない男
110|大根の一週間
111|天王山今昔
112|夏みかんの頃
113|相生町のたこ焼き
114|麦わら帽子の夏
115|スキップ

116|終わりのない夏の手帳 01 ─迎え火
117|終わりのない夏の手帳 02 ─イビとの別れ
118|終わりのない夏の手帳 03 ─梅干し修行
119|終わりのない夏の手帳 04 ─買い物
120|終わりのない夏の手帳 05 ―家内労働
121|終わりのない夏の手帳 06 ―灯ろう流し:
122|終わりのない夏の手帳 07 ―家事
123|終わりのない夏の手帳 08 ―定点観測の窓
124|終わりのない夏の手帳 09 ―洗濯物干し
125|終わりのない夏の手帳 10 ―順応
126|終わりのない夏の手帳 11 ―自分のことは自分で
127|終わりのない夏の手帳 12 ―ボケとツッコミ
128|終わりのない夏の手帳 13 ―洗濯ネット
129|終わりのない夏の手帳 14 ―フレンチトース
130|終わりのない夏の手帳 15 ―八月のクマゼミ
131|終わりのない夏の手帳 16 ―インターネット
132|終わりのない夏の手帳 17 ― 一時的入院
133|終わりのない夏の手帳 18 ― 一時的入院
134|終わりのない夏の手帳 19 ―付き添い

135|ありがとうございました

136|夏のおもいで草むしり―母と子のねじを巻く

三好春樹による解説

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【母と歩けば犬に当たる……三好春樹による解説】

東海道みとり旅の記録
【母と歩けば犬に当たる……三好春樹による解説】
 

解説
三好春樹

 石原雅彦さんと出会ったきっかけは、故筒井眞六氏だ。筒井さんは、福祉の出版社である筒井書房を立ち上げて成長させ、病に倒れて認知症を呈しながらも奇跡的に生き延び、その筒井書房が時代の波に抗しきれず倒産するのを待っていたかのように、2015年に亡くなった。
 他に類例のない人物だった。経営にも編集にも専門的知識はなかったが、「才能ある奴を知ってればいいんだ」というのが口(くち)グセで、私もその一人と思ってもらったらしく、広島の老人福祉施設をやめて東京に出てきたときには、事務所を借りるための保証人も、電話の名義もみんな引き受けてくれた。
 私は当時、おそらく日本で初のフリーの介護講師という新しい人生を始めるところだった。東京、大阪など各地で「生活リハビリ講座」を開くこと、その受講者たちの交流のための雑誌を出すことが上京の目的だった。
 雑誌の名前は「Bricolage」。すでに薄っぺらな「創刊準備号」が刷りあがっていた。それを一目見た筒井さんが「これじゃ売れんな」と言って、「いいデザイナーを紹介してやろう」と引き合わせてくれたのが石原さんである。

 筒井眞六さんをはじめ、出版社の編集者やライターなど、東京には〝変な人〟がいっぱいいた。35年も地方都市で暮らしてきた私には、周りへの適応力はどう見ても無さそうだが、自分はこれができるぞ、と手を挙げれば認めてもらえて個性的に生きている人がこんなにいることが新鮮だった。
 もちろん石原さんもその一人だ。彼は「デザイン料はいらないから、その代わり、自分の好きなようにやらせてくれ」と言うのだ。異論のあろうはずがない。
 おかげで「Bricolage」は、創刊号から見違えるように立派になり、今ではもっとも古い介護雑誌であり、一時ほどではなくなったものの、個人が直接購読する雑誌としては大手出版社をおさえてもっとも多い発行部数を維持し続けている。

 私は介護の本を何十冊も出しているのだから、文章を書く才能は多少はある。しかし、Bricolage(=手作り、器用仕事)を看板にしているというのに、絵は描けないし、不器用で物も作れない。さらに色彩感覚も乏しいみたいだ。それは、ロールシャッハテストをやってみて判った。評価法をマスターして自己分析してみると、「色彩反応」がゼロなのだ。つまり色に興味がない。「部分反応」もゼロで、全てが「全体反応」。これは「過度の抽象性」の表れだという。
 一方で「常識反応」が多い。これは「平凡」ということ。ああそうか、自分は「過度の抽象性」と「平凡」の間をバランスをとったり、ときに失ったりして生きてるなぁと思って、以来、私はロールシャッハテストを信用している。

 さて、石原さんはその私には欠落した才能を持っていて、私は目を見張るばかりなのだが、それだけではない。「天は二物を与えず」というのは嘘で、彼は文章まで書ける。
 彼は「Bricolage」の「表2(ひょうに)」と呼ばれる表紙の裏側に「装丁者のひとりごと」というコラムを書き始めた。それはだんだん長くなり、入りきれないときは活字が小さくなるのだった。
 その3人の親の介護についてのコラムは、連載している介護職をさしおいてファンが現れ始める。介護する側の雑誌に、介護家族の視点も新鮮で、しかし、よくある家族の手記とは一味も二味も違うのだ。
 介護保険という近代的制度が始まったとはいえ、介護家族の気持ちは複雑である。親を他人にみてもらっていることに後ろめたさを感じてしまうのだ。そこで介護家族のタイプは二つに分かれる。
 一つは、卑屈になるタイプだ。こういう家族は施設入所している親に対して「職員さんを困らせちゃダメよ」と言いきかせる。もう一つのタイプは、後ろめたさを打ち消すために傲慢になる。入所施設や介護職のアラさがしクレーマーになる。
 どちらにも欠けているのは、介護保険という制度によって契約している当事者同士であるという意識だ。利用者の老人を中心にして、家族も介護者も当事者として横の関係にならねばならないのだがこれが難しい。
 石原さんのコラムの、特に、特養ホーム面会記は、その難しさをヒョイと越えているように感じられた。元特養ホーム職員の私としては、「こんな家族がいてくれたらいいなあ」と心から思うのだ。
 しかし、この「卑屈でもなく傲慢でもなく」という人間関係は、介護場面だけではなくて、私たちの人生で問われている課題なのだと思うと、そう簡単に越えられるものではないのだけれど。

 私は老人介護の専門家だと思われている。本も出し、テレビにも出て、自分で言ったことはないけれど「介護のカリスマ」と呼ばれることさえある。
 ただ私が興味がある老人介護は、新聞やテレビに出てくる学者や評論家が語るような「老人問題」ではない。彼らが語るのは、政策や制度である。だけど私はそれには興味がない。あるのは介護そのものだ。
 だから介護保険制度が始まるときに、業界では賛否をめぐって騒いだが、私は一貫してこう言い続けた。「いくら良い制度を作っても、その制度を使ってどんな介護をするのかという肝心なことがわかっていなくては何の役にも立たない」と。
 じつは今ではその制度そのものが崩壊しつつある。要介護度5という最も重い状態になっても特養ホームに入所できないのだから。保険料だけは払わせておいてサービスは提供せず、代わりに現金給付もしないのならこれは詐欺ではないか。
 さらに介護の中身も問題だ。歩けなくなるとすぐオムツ、機械浴なんていう安静看護技術がいまだに介護だとされているのだから。介護福祉士の養成校に、機械浴はあっても普通の家庭の浴槽はないというのがその象徴である。
 とはいえ、私も、制度や政策が大事ではないと思っている訳ではない。ただ、それだけで問題が解決すると思っている風潮に対して異議を唱えているのだ。
 制度、政策も大事、介護の中身も大事。
 そしてもう一つ大事なものを付け加えることにしよう。それは、私自身が介護家族の仲間入りをしたと、石原さんの文章によって気づいたことだ。
 私の両親は健在で、父91才、母89才になった。夫婦揃ってこの齢まで長命なのは珍しい。一年前、母親がうつ病、そして二度目の脊椎圧迫骨折を経て要介護2、父親は要支援で、2人でケアハウスに入居している。
 私は介護職歴は41年だが、介護家族歴は1年目。
 大事なこと、それは、介護、いや人生という悪路を、文章を自在輪として軽やかに走り抜けることだ。
 実際には脱輪もし、転倒もする。しかし文章にすれば、半ば負け惜しみであったとしても軽快に表現できる。表現すればそう見えてくるし、そう思えてもくる。それが石原さんの文章から学んだことだ。
 私も走り抜こう。

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【母と歩けば犬に当たる……136】

東海道みとり旅の記録
【母と歩けば犬に当たる……136】
 

136夏のおもいで草むしり―母と子のねじを巻く

 何もかもが愛おしく100%許しあえる恋人同士はいても、そういう完璧に相性の良い親子は少ない。子は親を選べないし、親は思い通りの性格に子どもをつくり上げることができない。
 完璧に相性が良いわけでもない親子が、相思相愛の恋人同士より濃密に、一緒になって人生を生きなければならない事態に出会うこともある、という点に親子の悲劇のひとつがあるかもしれない。
「あんたの育て方を間違えた」
母は言葉に出してそうののしり、
「ひどい母親がいたもんだ」
と言い返したこともある。
 母と息子二人きり、そういう親子が向き合って過ごす息苦しい夏の夜が、在宅介護の末期にはあった。
 母のものの考え方が許せず、どうしても言葉を荒げてしまい、自室に戻ってから、もういつ死んでもおかしくないほど病み衰えた母に、どうしてもっとやさしく接してやれないのだろう、と煩悶することも多かった。
 どんなに病んで弱者になったように見えても、息子には許し難い母の一面があり、骨と皮ばかりになっても嫌いな性格が衰えないという点で母は弱者でなかったし、それゆえに化け物のようにも思えたのだった。
 寝癖のついた髪を振り乱しておぞましいことを言う母に、早くお迎えが来ればいいのに……などと思ったこともある。
 病院から早朝の呼び出しがあり、タクシーで駆けつけて病室の前に立つと、病室の扉が開いており、ベッド脇にかがみこんで
「お母さん、お母さん」
と揺すって呼びかけたけれど返事がない。
 ベッドサイドに測定器のようなものがあって様々な数値が表示され、折れ線グラフのような表示が横一直線になっていたので、母は死んだのか……と思い、ぼんやりナースステーションまで歩き、
「あの……、母は死んでいるんでしょうか?」
と尋ねたらびっくりして担当看護師を呼んでくれた。
 急いで葬儀社を決め、遺体の引き取りを待つあいだ、明るい朝の病室で、寝癖がついて振り乱したような母の髪が気になり、持っていたブラシでといたら優しい顔になった。
 どうしていつもこうしてやらなかったのだろう、こうしてやれば良かったな、と思ったらとめどなく泣けた。
 帰宅して一人になった実家で、嫌いだった母の一面を連想させる暮らしの痕跡を見ても、ちっとも母を嫌いでなくなっている自分がいて驚いた。
 母と過ごした最後の濃密な夏の夜は、互いの心のゼンマイをギリギリと巻くのに似ていたのかもしれない。死によって留め金がはじけ、締め上げられたゼンマイが一気に開放されることによって、母と子の葛藤のエネルギーは放出され、僕は母のすべてを許し、母のすべてを愛せるようになったのかもしれない。
 葬儀の日の未明、母が愛した姪が享年39歳で母のあとを追うように死んでしまい、翌日が通夜になった。
 従妹の葬儀後、精進落としの席で隣り合わせた従兄が、
「死んだ人は仏になって救われる」
と言うので、
「〇〇ちゃんは自分のお母さんのことが100%好き?」
と聞いてみた。
「とんでもない、そうじゃないのは、おまえならわかるだろ?」
と答えるので
「だったら年を取ったお母さんにとことん寄り添ってみるといいよ。きっとお母さんのすべてを許して、すべてが好きだといえる日が来るから。仏になって救われるのは、実はのこされた息子の方かもしれないよ」
と言ってみた。

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【母と歩けば犬に当たる……135】

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【母と歩けば犬に当たる……135】
 

135ありがとうございました

 母が不治の病いで倒れて丸二年。
 二年前の夏の日、母が重いすい臓がんであり、早ければあと半年くらいの命かもしれないという宣告を受け、
「三十数年前の夏にも肺がんだという間違った診断を受け、一度はあきらめかけた命ですから、死ぬことはちっとも怖くないです」
と、まだ告知に不慣れそうな若い医師をいたわるように母は笑いました。
 そして母とふたり病院の帰り、黄昏せまる巴川べりを歩きながら、これからの生活のことを話し合ったのがつい昨日のことのようです。
 ひとり息子の僕は同じくひとり娘である妻と結婚しました。母がすい臓がんであることがわかった前年の夏、妻もまた両親が重病で倒れ、すでに介護生活のまっただ中でした。そんな最中、頼りにしていたわが母まで重病で倒れ、ひとりっ子同士の夫婦が三人の親を支える暮らしになったのでした。
 1年足らずの家族五人による東京暮らしのあと、
「お母さんはひとりでがんばるから、あんたちも両親を大切にしてがんばりなさい」
そう言って母が再び清水でひとり暮らしをはじめたのが昨年の九月でした。
 清水に戻って、親類の者のみならず、多くのお友達や在宅介護を支援してくださる皆さんの力を借り、息子の僕が毎週末に帰省することで隙間を埋めながら、母はなんと一年間も病いに耐えてひとり暮らしを続けることができたのでした。
 暑さがしだいに強まる今年の七月に入って、母の体力がいよいよ限界に近づき、僕は終わりのない長い夏休みと決めて母とのふたり暮らしを始めました。そして八月四日、いよいよ母の衰弱が激しくなり、ここから先、在宅では母の生命の質を損なうばかりであると判断し、母の入院を決めました。
 「もう一度がんばって自宅に帰る、あんたが作るご飯の方がおいしい」
などと思いがけない言葉をつぶやいて息子を喜ばせる母でした。
 八月七日、清水みなと祭り最終日はとくに切ないらしく、肩や背中や、お腹をさすると
「ちっともいい母親じゃなかったね」
と母が言い、
「ううん、そんなことないよ」
と答え、もっともっと言いたいことがあったのに、なんだか別れの言葉を話してしまうようで怖くて何も言えませんでした。
 日も暮れかかり、
「花火が始まるからもう帰りなさい、大丈夫、明日の朝は元気にご飯を食べるから」
と母は言い、それが母から聞いた最期の言葉になりました。
 母がちっともいい母親でなかったのなら、自分だってちっともいい息子でなかったのかもしれないし、母とふたりの人生はちっともいい人生ではなかったのかもしれません。
 果てしなく長く感じた闘病の歳月が、母を失った瞬間とてつもなく短く感じられ、それどころか幼い頃父親を失ってから、何でも母とふたりで相談しあって生きてきた半世紀の歳月すら、あっという間の出来事だったと思えることに驚いています。
 そして、ちっともいい人生でなくても、母とふたりでもう一度苦労がしてみたいと思えるのは、ふたりぼっちでもふたりぼっちじゃなかったから、たくさんの人に出会ってたくさんたくさん助けていただいた思い出があるからこそだと、急に母が消えてしまったいまになってわかった気がします。
 亡き母とともに、ここにいらっしゃる皆様、さまざまな事情でお会いするのがかなわない皆様にも、深くお礼させていただきます。どうもありがとうございました。母と二人で歩いた半世紀は、やっぱりいい人生でした。(喪主挨拶全文)


【写真】 母と別れて外に出たら綺麗な夕焼けだった8月7日の市立清水病院沿いの県道。

【写真】 通夜と葬儀に集ってくださった皆さんを待つ母。写真は2004年元日。駒込吉祥寺で撮影したもの。

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【母と歩けば犬に当たる……134】

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【母と歩けば犬に当たる……134】
 

134|終わりのない夏の手帳 19 ―付き添い

 病室で付き添いながらパソコン仕事をする生活が始まった。初めての体験である。
 最初は真っ黒なノートパソコンを持ち込もうとしたのだけれど、そう決めてあらためて眺めると、病人の脇で携帯用仏壇を開いているようで不吉な気がし、ひと回り小さな白いノートパソコンの方にした。
 窓際に置いて仕事をし、パソコンの前を離れ、しばらく母の介助をしているうちにスクリーンセーバーが起動し、白いパソコンの中で色とりどりの花が揺れていると、沈鬱になりがちな病室に生気が戻ったようにこころがなごむ。
 病院は女性が多い。終日病院内で過ごしていると粗雑な振る舞いが抑えられてやさしい気分になり、そういう意味でも白いノートパソコンは病室向きの小道具かもしれない。
 母に付き添って3つめの病院入院である。この病院は女性看護師が病室をのぞきに来る回数が多い気がする。
「失礼しま〜す」
と頻繁に入ってくるので仕事の集中が途切れることも多いけれど、居眠り防止には都合が良いし、ぼんやりしがちな母の刺激にもなっている。
 病院の気風がそうなのか、女性看護師たちはよくしゃべり、それが親しみやすい地元訛りの言葉であるのが良い。いちばん耳につく清水言葉は「だもんで」であり、たとえば大腸内視鏡検査の準備室だと、
「まだ便の色が濃いもんで、もうちょっと頑張ろうね。うん、お薬を飲んで歩くのもいいし、お腹にのの字を書くようにさすってもらうと出やすくなるもんでやってみようよ。まだ検査には時間があるもんで○○さん、頑張ろうね」
などと患者に丹念に話しかけており、聞いているとリラックスしてこちらまでお腹にのの字を書きたくなる。
 8月4日の夜、病院帰りに寄ったラーメン屋で飲んでいたら
「市立二中で中澤君と同級生じゃないっけ?」
と聞かれ、忘れかけていた中澤君を思い出した。中澤君は冬になると手のひらから指にかけて真っ黄色になっていたと言うと、
「おうおう、昔はおおぜいいたっけなぁ、ミカンの食い過ぎで手が黄色くなってるやつ」
と大笑いしていた。清水の冬はどこの家庭でも膨大なコタツミカンを食べ、黄色い手のひらはミカン好きの証拠だった。
 母に黄疸が出て、給食のちくわカレー揚げのようになった。
 おそらく胆嚢から出ている胆管が腫瘍などで圧迫されて狭くなり、胆汁が流れにくくなっているのだという。内視鏡を入れてステント(★1)を挿入し、流れる道を作ってやることで黄疸が改善できるかもしれないと主治医の話があった。
 ただ、すい臓がんの治療とは直接関係がないので、本人が内視鏡を入れることの辛さを拒むなら、治療は一切しないという選択肢もある。母はぜひやってもらいたいと言うので8月5日午後2時半から1時間強をかけて内視鏡手術をお願いした。
 8月5日。
 直径2ミリくらいの管を挿入し、直後から流れが改善されたのが見えたとのことで、ほっと胸をなで下ろす。黄色人種ではあってもあまりに黄色くて母がかわいそうだ。
 母がいなくなった入江南町にも、小さな清水みなと祭りの櫓が組まれ、提灯がともされて屋台も出ている。小学生の頃はこういう小さな祭り会場をはしごして歩いたものだった。
「子どもたち、お祭りは終わりました。おうちに帰りましょう」
とハンドマイクで大人が叫んでいる。立ち去りがたいのは子どもたちだけではない。さみしさを紛らわすため、また浜田のラーメン屋に行ってみた。
 故郷を離れた人間が懐かしむ暮らしも、生まれ故郷で暮らし続けている人には息苦しく感じられることもあるだるう。ひとり飲んでいると、
「臆病だもんで結局清水から出られないっけなあ。だけん狭い場所でも狭いなりに楽しみを見つけられる人もいるだよ。それでええじゃん」
などという話をしている客の声が聞こえて夜が更ける。
 店の前の道をぞろぞろ歩く人々がいて、
「あ、みなと祭りの踊りが終わったね」
と誰かがつぶやく。病室でひとり寝ている母を思い出し、勘定を済ませて外に出た。

(2005年8月6日の日記に加筆訂正)

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★1 ステント
ひとの体の中で管状になった部分を内部から広げるための医療機器。

【写真】 2005年、町内の地区踊り。

 

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【母と歩けば犬に当たる……133】

東海道みとり旅の記録
【母と歩けば犬に当たる……133】
 

133|終わりのない夏の手帳 18 ― 一時的入院

 母が入院してしまって所在ない夜に、父が遺したアルバムをなんとなくめくっていたら、昭和29年清水みなと祭りの写真があるのに気づいた。
 そのページにあまり良い写真はないので見過ごしていたのだけれど、黒地の台紙に白いインクで「清水みなと祭りにて」と小さく書き込まれていた。
 昭和30年代あたりの清水は、市街地とはいえ夜は深く、濃い闇に覆われた町のあちこちに踊りの櫓(やぐら)が組まれ、地区それぞれに踊りの輪ができ、夏の夜の誘蛾灯のように人が群がっていた。
 父古澤信、昭和29年清水にて撮影。
 仙台生まれの父は清水に住んでいた母と文通で知り合い、結婚してから子どもが生まれてしばらくのあいだ清水で暮らし、清水の夏にみなと祭りを体験したのだった。
 「栄町」とか「不二見園芸」とか「木本(?)商店」とかの文字が見えるけれど、父が清水のどこにできた踊りの輪を撮影したのかはわからない。ここに写っている若い女性は70歳を過ぎに、少女たちももう60歳になるのだろう。
 昭和29年の8月1日は日曜日である。
これらの写真が撮影された1ヶ月後には息子が生まれるのに、父は大きなお腹をした母を家に残してみなと祭りの見物にでかけたのかしらと思ったら、母が写っている写真が1枚だけあった。
 8月4日、母の入院二日目。夕食を食べ終え、薬を飲んだ母を見届けて帰宅。午後6時半を過ぎると町は薄暗いので前照灯をともし、発電用ダイナモを回すため重くなった自転車のペダルを踏んで帰宅する。

(2005年8月5日の日記に加筆訂正)

【写真】 母と昭和二十九年のみなと祭り。

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【母と歩けば犬に当たる……132】

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【母と歩けば犬に当たる……132】
 

132|終わりのない夏の手帳 17 ― 一時的入院

 病気が人の命を削っていく計算問題は、希望を捨てない人の意表をつくように出題される難問のようだ。
 肝機能が著しく低下して黄疸が出ていた母は、当然身体がだるいし痛み止めのモルヒネの影響もあって寝ていることが多い。
 それでも毎日短時間のホームヘルプと息子のつたない介助で在宅生活が成り立っていたのは、声をかければベッドの上で起きあがって自分で食事をし、深夜に目覚めればひとりでトイレに行く機能が母に残っていたからである。
「それでは食事を自分で体内に取り入れる作業、ベッドから起きあがってトイレに行き排泄を終えてベッドに戻る行為をするための体力がなくなったらどうしますか?」
母は紙おむつを当てるのは嫌ではないと言っていたし、食事を作って片づける作業の間に食べさせる介助が必要になってもそれはかまわない。
「それでは意識の混濁によって食事や排泄に思いがけない行動が現れたらどうしますか?」
健常者にとって食事が食事であり排泄が排泄であるのが当然なように、病人にとっても食事が食事であり排泄が排泄であると認識してくれることが介助者へ最低限の手助けになるのだけれど、肝機能低下による意識の混濁にはまいった。
 深夜に失敗の片付けをし、早朝にベッド周りの惨状を見て、失敗や惨状の片付けは別として、それほどまでに母の機能の引き算が進行していることに驚く。
 汗まみれ、泡まみれ、汚物まみれ、涙まみれのつぎはぎ在宅介護と、病院で受けられるはずのプロによる看護・介護を天秤にかけると、現時点、少なくとも夏の間は母にとって入院生活の方が生活の質が高い。ここが一つの分水嶺かもしれないと深夜まんじりともせずに考える。
 ひとりっ子のひとり介護なので決断の負担は重いけれど、じぶんが腹をくくれば実行に障害はない。
 母に一時入院を提案すると、
「もう疲れた、もうどうでもいい」
と虚ろに言う。救急車で行くか、車いす付きの介護タクシーで行くか、と聞くと
「救急車は嫌だからがんばってタクシーで行く」
と言う。
 午前8時半を過ぎるのを待って訪問看護師に電話。消化器外来を受診し、診察医の承諾を得て初めて入院が可能だという。午前中に連れて行くからと主治医への伝言をお願いし、ケアマネージャに母の入院について連絡する。午前10時に介助付き車いすタクシーを手配してもらい、午前9時から2時間ホームヘルプに入る予定だったヘルパーさんと、自転車で駆けつけたケアマネージャに手伝ってもらい、家の中に車いすを運び込んで母を運び出す。
 車いすを入れることなど考慮外の築50年の家なので、駐車スペース脇の全面窓から出そうと言ったら年下の女性ケアマネージャに常識のなさをたしなめられる。出棺ではないのだから確かに縁起でもない。
 市立病院の救急玄関でストレッチャーに乗せ、消化器外来へ。ヘルパーさんも帰ってここからはひとりで付き添う。そうか、外来受診の際はストレッチャーを借りて病人を乗せ、母にぐったりと寝ていてもらえば、検査などの付き添いもすべて看護師さんがやってくれるのか、と気づく。
   ***
 市立清水病院南南東向きの病室で書く日記。
 遠くに駿河湾が見える。今から38年前の夏、かつてこの場所にあった県立富士見病院で母は少女時代に煩って自然治癒した肺結核の跡を、末期の肺ガンと診断されて入院していた。
 同じ方角を向いていた富士見病院の病室で、母は同室の患者さん達と一緒に、見舞いを終えて帰る学校帰りの息子に向かって窓から手を振ってくれた。もうすぐお別れだなぁと思った。
 そして母だけ、実はガンではないとわかって退院することになったとき、同室の患者さんたちが同じ窓辺に並び、「よかったね」と言って、帰っていくわが親子に笑顔で手をふってくれた、あの光景を忘れない。
 その36年後の夏、その富士見病院が移転した県立総合病院で末期の膵臓ガンと診断を受けた母は、「36年前に一度あきらめた命ですから何を聞いても怖くありません」と笑ったのだった。その2年後の夏、母は38年前と同じ景色の病室に戻ってきた。
 心電図、CTスキャンなど一通りの検査をして入院完了。入院前の診察ではお腹が痛いと医師に訴えていた母も、病室に入り、ベッドに入って落ち着くと、回診の医師に
「どこも痛くなくて言うことなしです」
などと「えっ?」と驚くようなことを言い、
「点滴などされないようたくさん食べて早く元気になる」
と言って夕食は在宅時の4倍くらいの量を食べるのでびっくりする。その上で
「あんたの作るご飯の方がおいしい」
などと、さらに「えーっ?」と驚くようなことを言うのも忘れず、早くも奇跡の退院、秋の在宅復帰大作戦にむけて足し算を始めた母である。介護者にとっては休戦だが、引き算対足し算の新たな戦いを母は始めている。
 8月4日から母の病室にパソコンを持ち込んで、朝から夕方まで付き添いをしながら仕事をする日々が始まる。母が入院初日の夕食を終えるのを見届けて帰るタクシーの窓から見たさつき通りには清水みなと祭り総踊りの飾り付けが進んでいた。

(2005年8月4日の日記に加筆訂正)

【写真】 タクシーでさつき通りを帰る。

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【母と歩けば犬に当たる……131】

東海道みとり旅の記録
【母と歩けば犬に当たる……131】
 

131|終わりのない夏の手帳 16 ―インターネット

 郷里静岡県清水でひとり暮らしする母親に付き添っての介護生活になって、しまったなぁと思うことのひとつが、実家にインターネットのブロードバンド回線を引き込んでおかなかったことである。
 まさか本気で母の介護用ベッド脇にパソコンを置いて仕事をするなどとは思っていなかったので仕方がない。
「今からでも遅くない、お母さんが一日でも長生きするためのお守りと思って光ケーブルでも引いたらどう?」
などと言ってくれる友人もいるけれど、見知らぬ他人がひとり来ただけで心と体力を消耗している最近の母なので、新たな工事をするのは現実的でない。
 実家には二台のノート型マッキントッシュを持ち込んでおりそれぞれにドコモとDDIポケット(★1)のPHS通信カードを装着している。どちらも定額制なので常時接続可能という料金面だけは豪華な環境なのだけれど、いかんせん遅い。
 それでも仕事のデータは我慢できる範囲でのんびりやりとりしているのだけれど、50メガバイトくらいのデータ量を超えると、観念してデータをCD―Rに焼き、梱包し、送り状を書き、自転車を漕いで浜田小近くのセブンイレブンに行き、翌日朝着の宅配便を手配する。さらに美濃輪町まで足を伸ばして夕飯の買い物をし、戻ってもPHS通信による送信時間の半分以下で済んでしまうので、どうやらその方がかしこい。
 実家一階は電波状態があまり良くないようで、通りに面した壁際でないとドコモのアンテナは立たなくて圏外になってしまう。いっぽう今年になって使い始めたDDIポケットはちゃんとアンテナが立つので、電波状態の悪い一階はDDIポケット、電波状態の良い二階はドコモと使い分けている。
 そうすればどちらも通信可能であるという意味では圏内なのだけれど、高速であることを前提としたデータ通信やインターネット・ブラウズでは実用性においてPHS通信カードは〝圏外〟なのかもしれない。
 通信環境の圏外になってみて面白いことに気づく。
 仕事の資料を探しに清水銀座戸田書店に行ったら、ふとマッキントッシュ情報誌が買いたくなった。そして介護や仕事の合間を見つけては詳細に何度も何度も読んでおり、こういう生活習慣を味わうのは数年ぶりである。新聞も何度も読むし、今まで一度も読んだことのない小浜逸郎(★2)の本が気になり、2冊買ってきたがあっという間に読み終えてしまった。
 どうも東京にいたとき、高速ブロードバンドを使ったインターネット・ブラウズに費やしていた時間が、故郷では紙に印刷されたものを読む時間に置き換わったらしい。インターネットより紙とインクの印刷メディアからの情報を得る方が、読み手の都合に合わせて恣意的な分、より濃密に情報を摂取できるのかもしれないと思う。もしかするとインターネット・ブラウズというのは読んだつもりでいても、実は眺めている状態に近いのかもしれない。

(2005年8月2日の日記に加筆訂正)

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★1 DDIポケット
通信事業者。2005年ウィルコムに改称した。

★2 小浜逸郎
小浜逸郎(こはまいつお)。1947年生まれの評論家。

【写真】 近所の公園にも踊りのやぐらが立った。

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【母と歩けば犬に当たる……130】

東海道みとり旅の記録
【母と歩けば犬に当たる……130】
 

130|終わりのない夏の手帳 15 ―八月のクマゼミ

 8月1日午前8時50分、月見公園(★1)にてこの日記を書く。
 7月27日に訪看さん(★2)が採血してくれた母の血液の検査結果を聞きに市立清水病院に行く途中、なんとなく深呼吸がしたくなったので月見公園へ寄り道した。朝の静かな公園で……と思ったらものすごいセミの声で、今までの人生で最大音量のセミの声を聞いた。
 この時期、清水で鳴くセミはクマゼミでありシャーシャーシャーシャーと鳴くセミの声を聞くと「ああ清水!」と思うのだけれど、今年のシャーシャーシャーシャーは爆発的にやかましい気がする。
 セミの鳴いている樹木の下に立ち止まって見上げていると、時折枝を飛び立つセミの飛翔が見られるものだけれど、月見公園の街路樹のまわりはセミがブンブン飛び回って、樹木に巨大なハエが群がっているようである。凄い音を聞き凄い光景を見た。ただただ激しい。
 月見公園から清水病院めざして裏道を進んだら古びた公営アパートがあった。
 清水市南矢部第一アパート。昭和34年竣工、竣工時の清水市長は鈴木平一郎である。東海地震発生時にはかなりやばそうなわが実家が昭和29年築なので、清水市南矢部第一アパートは5年も新しいけれど、築45年でコンクリート住宅もこれくらい年季が入るんだなぁと興味深い。
 昭和34年というと東京オリンピックの5年前であり、当時東京で住んでいた下町は、むき出しのドブが路地路地にあり、汚水の中でイトミミズがうようようごめき、ときおり犬猫の死骸があったりして、野球のボールを落としたりすると洗わずに使うのもためらわれた。ゴミ箱はまだ大型ポリバケツ登場の前で、懐かしいふた付き護美箱が各家の前にあった時代である。
 清水市南矢部第一アパートは廊下の両端にダストシュートがあって2階・3階の住民が1階までゴミ捨てに降りなくて良い仕組みになっており、当時としてはハイカラだったのだろうと思う。昭和34年頃に住んでいた木造アパートはトイレが汲み取り式で2階の住人の排泄物は数メートル等加速度自然落下をする仕組みで、高すぎて〝おつり〟がもらえないようになっていたが、このアパートは昭和34年にすでに水洗式だったのだろうか。だったら目が眩むくらいさらにハイカラである。
 午前9時4分、市立清水病院が近い。県道沿いに大きな犬小屋があり、地区の共同防災倉庫なのだけれど、住居だとしたら非常にこぢんまりした家である。そういう小さな家に大きな犬の絵が描いてあると犬小屋に見えてしまうのが不思議だ。
 病院で11時近くまで待って主治医の説明を聞き、重いペダルを踏んでもと来た道を引き返す。空には見事な入道雲が湧き上がり、夕立の予感がする。月見町フレッピー清水野菜村で今夜のビールのつまみに枝豆を一袋買って帰る。3時過ぎから断続的に激しい降雨。

(2005年8月2日の日記に加筆訂正)

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★1 月見公園
静岡市清水区月見町にある児童公園。コンクリート製のタコ形滑り台がある公園で通じる。
★2 訪看さん
母の訪問介護に入っているヘルパーさんたちは、訪問看護師のことをそう読んでいた。介護職を介護さんと呼ぶのと同じだろうか。

【写真】 月見公園、清水市南矢部第一アパート。

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【母と歩けば犬に当たる……129】

東海道みとり旅の記録
【母と歩けば犬に当たる……129】
 

129|終わりのない夏の手帳 14 ―フレンチトースト

 スーパーマーケットで子ども連れの若い母親が、
「今夜何が食べたい?」
と幼児に尋ねていた。
 昭和三十年代以降の子どもたちはたいがい、
「カレーライス!」
と答え、ちょっと前の子どもたちだと
「ハンバーグ!」
と答えたものだけれど、その子どもは何と
「ヴィシソワ〜!」(★1)
などと言う。なんかかわいくない。
「よーし、お前はおかずは冷たいクリーム状のスープでいいんだな?ほんとうにヴィシソワーズをおかずにご飯を三杯お代わりして食べるんだな?」
「お母さーん、ヘンなオジサンが怖いよ〜」
などという会話をしたくなる。
子どもに今夜何が食べたいかをたずねて、ご飯を食べるためのおかずの名を答えない時代なのだろうか、そういう育て方をしているのだろうか。ご飯が消失してパンが主食になっているのだろうか。
 命をかけて、食べられない苦しみと格闘するわが母であり、
「お昼は何を食べたい?」
と聞くと
「台所に○○さんにもらったパンの端っこが転がってるから、冷蔵庫に古いジャムでもあったらぬって枕元に置いといてくれればいいよ」
などと投げやりに答えたりする。息子としてはもうちょっと栄養のあるものを食べさせたいのだけれど、
「本当にそれが食べたいんだよ」
と強弁されるとその通りにしてやることもある。
 そういう日に限って午後からケアマネさんやヘルパーさんやホーカン(訪問看護師)さんが来て、
「お昼は何を食べましたか〜?」
などと聞くのでドキッとする。
「はい、台所に転がってたパンの端っこに古いジャムを塗ったものを食べさせてもらいました」
などと老いて病んだ母親が言うのを聞けば、だれだってなんてひどい息子だろう!と思うに違いないのだ。
 むかしフレンチトーストを作ってやったら美味しいと喜んだことがあるのを思い出し、近所の静鉄ストアで買った「紀ノ国屋のアンカット食パン」を一番高い「黄身が箸でつかめる卵」と「特濃低温殺菌牛乳」に浸してバターを敷いたフライパンで焼き付け、みなとマーケットで買った「地元産の蜂蜜」をたっぷりしみ込ませてやったらおいしいとよく食べる。
 案の定、入浴介助にやってきたヘルパーさんが、
「お昼は何を食べましたか〜?」
と聞く。
「フレンチトースト」
「すごーい、洒落てる〜!うちなんかカップ麺だったんですよ〜」
「ええ、息子がおいしい卵と……」
などと母が受け答えしているのを聞いてホッとしている自分がいる。
 子どもに 
「今夜何が食べたい?」
と人前で聞いてしまい、
「台所に転がってるパンの端っこに古いジャムを塗ったもの〜!」
などと答えられるより
「ヴィシソワ〜!」
と言われてお母さんは心の中で苦笑しながらホッとしていたのだろうと思う。

(2005年8月1日の日記に加筆訂正)

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★1 ヴィシソワーズ
西洋ネギとじゃがいもを炒め、ブイヨンを加えて煮、裏ごしして生クリームで伸ばしてから冷やすという、手のかかるつめたいポタージュ。

【写真】 梅を干す家。

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【母と歩けば犬に当たる……128】

東海道みとり旅の記録
【母と歩けば犬に当たる……128】
 

128|終わりのない夏の手帳 13 ―洗濯ネット

 洗濯ネットというものがあって、女性は洗濯機での洗濯の際、衣類をナイロン製の網に入れて洗濯をするらしい。
 とくに女性のストッキングや肌着は嗜虐的に思えるほど過度に繊細なので、そのまま他の無骨な洗濯物と一緒に洗うと傷むのかもしれない。
 女性のストッキングや肌着を洗濯ネットに入れて男の無骨な洗濯物と隔離する必要のある暮らしになってから、本格的な洗濯を自分でしたことがなかったので、母の介護が始まり、生まれて初めて洗濯ネットを使った洗濯をする。
 洗濯機のそばにある袋から洗濯ネットの一つを何気なく取り出したら鈴が付いている。
 どうして鈴なんかが付いてるんだろう、下着泥棒よけのお守りかしら?とよく見たら、なんと鈴ではなく高校時代に息子が着ていた学生服のボタンをつけているのだった。
 洗濯ネットを使ってみると洗濯の最中に袋の口のジッパーが開いてしまうことがあり、隔離したはずのストッキングや肌着が外に出て問題を起こしたりしていることがあった。母はボタンとゴムの輪を取り付けて、洗濯中に袋の口が開かない工夫をしていたのである。
 それはそれでなかなか良い工夫だと思うのだけれど、よりによってどうして息子の学生服のボタンでなくてはいけないのだろう。ひょっとして第二ボタン(★1)だったら、と思うと相手が母親だけに不気味である。
 そんなことを考えながら二槽式洗濯機の中でカランカランと音を立てて回る金色のボタンを眺めていたら、このボタンをつけてまじめに過ごした三年間がなかったら、いまの自分はなかったようにも思うので、確かに問題行動防止のお守りとしては御利益があるかもしれないと思ったりする。
 美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋に行ったついでに清水小学校(★2)を覗いたら、清水みなと祭り地区踊りの櫓(やぐら)が組まれていた。昔は清水みなと祭りというと、地区ごとそれぞれの広場に櫓が組まれて踊りの輪ができ、それらこそが清水みなと祭りの中心行事だった。市内に散在する踊りの輪、その一つひとつが地区の中心であり、祭りの夜の下で絡み合って、目に見えない大きな輪になっていたのを懐かしく思い出す。
 炎天下、母が急に買って来いと言いだした押入箪笥をかついで汗だくになって歩いていたら、すれ違った見知らぬ老婆に、
「あんた帽子をかぶんなくちゃだめだよ」
と注意された。故郷という大きな輪の中にいる気がして嬉しかったりする夏である。

(2005年7月30日の日記に加筆訂正)

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★1 第二ボタン
昭和30年代に公開された戦争映画から来ているといわれる、卒業式に制服の第2ボタンを好きな人から貰う風習。
★2 清水小学校
明治7年、清水町上二丁目に明徳館と称して開館し、公学校となって昭和22年六三制実施により、清水市立清水小学校となった。

【写真】 清水小学校のやぐら。

 

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【母と歩けば犬に当たる……127】

東海道みとり旅の記録
【母と歩けば犬に当たる……127】
 

127|終わりのない夏の手帳 12 ―ボケとツッコミ

 携帯電話のストラップの端につけて衣類などを挟んで留める小さな樹脂製のクリップがあり、非常にしっかりできていてこれを考えた人は偉いなと思う。
 母が携帯電話を取り落とすのでストラップの端にそれをつけてやったのだけれど、どうしてもはずせなくなったと言う。どうして急に外し方を忘れたのかしらといぶかしみながら何度も教えたら、母は指の力が極度に落ちてクリップのロックがはずせなくなっていたのだった。
「まぁ、やり方は間違っていないから指の力が戻れば外せるようになるよ」
と励ましの声をかけたら、母は小さなクリップを耳にあて、
「もしもし」
などと言う。試しに息子の携帯に電話しようと思ったのだと言い、母の頭の中でストラップの両端にある小さなクリップと携帯電話が入れ替わってしまっていたのだ。
 こういう関西の漫才によくある笑いの基礎構造(★1)が大好きで、下積み生活のながいベテラン漫才師たちは、とっさにこういう笑いを連発して見せてくれるものである。漫才なら無邪気に笑えるけれど、病気の母親に真剣な顔してこれをやられるとドキッとし、その衝撃は笑いではなく恐怖である。お母さんがぼけた!
 母親が真剣な顔して行う奇妙な行動で、息子がドキッとさせられ恐怖に陥る場面は、落ち着いて思い出すとどうしてギャグに似ているのだろう。
 母は一日に三度目覚ましをかけて薬を飲んでいたのだけれど、朝起こしたらベッドの足もとに目覚まし時計が転がっている。どうしたのかと聞いたら、時計の開け方がわからないと言うのでどうして時計を開けたいのかと聞いたら、開けたら中から玉が出てくると言い、玉とは何かと追求したら薬だと言う。確かに決められた時刻にベルが鳴って薬がコロコロと出てくる目覚まし時計があってもいいけれど、そんなパチンコ台みたいな目覚まし時計はない。
 母は一日に何度か電子体温計で検温するのだけれど、体温計がケースから取り出せないと唸って力んで引っ張っているので、見せてごらんと手を出したら、それは既にケースから取り出した体温計そのものだった。
「お母さん、体温計はケースから出てるよ」
 検温を終えて体温計をケースに戻そうとしたら入らないと言うので、見せてごらんとのぞいたら、母は体温計ケースではなく体温計ケースのフタに体温計本体を突っ込もうとしているのだった。
「お母さん、そんなに長い体温計がそんなに短いフタの中には入らないでしょう」
 最近の若手漫才師だと
「なにボケてんねん!」
などと頭をひっぱたくところだけれど、ベテランの漫才師だと平然と無視してしゃべくりを進行しつつ笑いの爆発力を高めるという高度な芸もある。
 老いた親の後頭部をひっぱたいてはいけないのはもちろんの事、「なにボケたこと言ってんの!」とか「もーっ!しっかりしてよっ!」とか、直情的に言葉を発してはいけない。そもそも人はみな、笑いと恐怖が渾然とした世界に生きているのかもしれないことを肝に据え、平然として淡々と母の相方を勤める。
 やがて来る人生最後の大いなる爆笑のために。

(2005年7月29日の日記に加筆訂正)

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★1 関西の漫才によくある笑いの基礎構造
ボケにある程度つきあっておいて、ふいにつっこみに転じる。
たとえば「そうそう、これを耳に当ててもーしもーし…ってなんでやねん」という基本パターン。のりつっこみという。

【写真】 母に命じられてお世話している梅干

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【母と歩けば犬に当たる……126】

東海道みとり旅の記録
【母と歩けば犬に当たる……126】
 

126|終わりのない夏の手帳 11 ―自分のことは自分で

 母親の介護をしながら炊事、洗濯、掃除をしてみると、家事がたいへんな仕事であることを、人生半ば過ぎのいま身をもって思い知る。
 炊事、洗濯、掃除が自分でできなくなった母は、息子の介護を受けながらときおり腹を立てると、
「自分のことは自分でするからいいよ!」
などと投げ捨てるように言う。投げ捨てるように言った後、壁際に寝返りを打ってふて寝している後ろ姿を見ると、自分のことは自分でしたいんだろうな、としみじみ思う。そして自分のことを自分でしながら、さらに夫や子どもや親のことまでやってくれた女の偉大さを思う。
 男女の別に関わりなく人間は自分のことは自分でするのだけれど、女の方が自分のことを自分でしなければならない仕事が多い分、自分のことを自分でする能力に長けているのではないかと思うし、ちょっとだけフェミニズムすれば、男はそういう女に依存しつつ体面を保つために会社社会を作って、自分のことを自分ですることから逃避してきたのではないかと思う。
 まわりの女性を見ていて、老いたり病んだりして心が壊れるとき、そのきっかけは自分のことを自分でできなくなった現実を受容すること、その不安と悲しみが原因ではないかと思うことが多い。
 自分のことが自分でできなくなった犬と、何でも自分でできそうな犬、それぞれの身体を掻いてやると、前者はすぐに腹など出してひたすら気持ちよさそうにしているのに対し、後者は掻かれながら後ろ足をしきりに動かしたりする。他人に掻かせながら自分が掻いているつもりになっているのであり、本当は自分のことは何でも自分でできるんだぜ、と言いたげなまじめくさった顔をしている。掻かれながら後ろ足で宙を掻いている犬を見ると笑ってしまう。
 自分のことを自分でできなくなった義母や母を見ていると、今まで自分がやってきたことを他人にやってもらいながら、少しは自分でやっている、自分も少しは役に立っているという体面を保つために周りをうろちょろして、非常に邪魔に思うことが多い。
 子どもは自分のことを自分でしながら親の介護までしているわけで、それがかつて自分のことを自分でやりながら他人のことまでしてくれた母親であるが故に情けなくて腹立たしく、自分のことを自分でできなくなったうえに助けてくれる他人の邪魔をするのか、などと腹が立ったりするのだ。
 自分のことをやってくれている他人の周りをうろちょろすることができなくなったわが母は、介護用ベッドに寝ながら息子に指図して、やることなすこと文句をつけるので、この人は自分が情けないあまりに息子をいびることで発散しているのだろうか、と思うことが多く、だったら自分でやれよ!などとひどいことを言いそうになって言葉をのみこむ。
 郷里に戻り完全同居介護になって3週間も経つと、そういう母親とうまくやっていくコツが身に付いて来た。母親がうるさいことを言い出すと、ああ、また後ろ足で宙を掻いているんだな、と思うことにしている。
 今週に入って意識の混濁があり言動がおかしくなった母である。
 観察していると一日に飲む薬のコントロールや各種税金の支払いや現金の管理などという、辛うじて自分でやっていたことがうまくできそうになくなったことへの、不安と悲しみが一因ともなっている気がする。
「お母さん、これは僕が担当しようか」
と声をかけるとあれもこれも任せると次々に不安の種が出てくるのであり、そういうものを少しずつ取り除きながら、上手に後ろ足で宙を掻かせて、自分でやっているかのような感覚を尊重してやるわけで、自分のことを自分でしながら他人のことまで自分でやるという180度回転して巡って来た役回りに奮闘している。

(2005年7月28日の日記に加筆訂正)

【写真】 熱帯夜。日本平で花火が上がっている。

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【母と歩けば犬に当たる……125】

東海道みとり旅の記録
【母と歩けば犬に当たる……125】
 

125|終わりのない夏の手帳 10 ―順応

 子どもの頃に罹る病気は良くなる病気が多く、大人になると良くならないままの病気が増え、年をとると悪くなる一方の病気を抱えて人は生きるようになる。
 在宅での終末ケア。
 悪くなる一方の病気を抱える親を介護する。悪くなる一方の病気といっても直線的に悪化していくわけではなく、カクッと悪くなってその状態がしばらく横ばいになって続き、まぁ、こんな調子を少しでも長く維持できればいいかな、と思っているとまたカクッと悪化する時が来て、こんな状態でこれからは介護が続くのか…、と家族は暗澹たる気分になる。
 それでも人は慣れるもので、まぁ、こんな調子を少しでも長く維持できればいいかな、とまた思えるようになる。そんな頃合いを見計らったかのように、また病人の状態がカクッと悪化する日が来るわけで、そうやって人は「また」と「また」でできた階段のように、段階的に死を受け入れる心構えを身に付ける、といううまい仕組みになっているのかもしれない。
 週末の介護帰省が在郷のまま定住介護となり、それでも大量の介護サービスが入る水曜日ぐらい日帰りで上京できるかなと思い直し、まぁ、こんな調子を少しでも長く維持できればいいかな、と思えるようになった日曜日あたりから母の具合がまたカクッと悪化し、日帰りであっても上京などとんでもないという状況になってきた。
 そんな暗澹たる気持ちで迎えた月曜日の朝。
 ヘルパーさんによる朝の身体介助が入る時間帯を見計らって、2週間ごとの処方箋をもらうため、ひとり自転車に乗って市立病院に向かう。早朝から元気のよいセミの声を聞きながらの病院行きは、夏が好きな介護者にとって貴重な息抜きと心の特効薬のひとつになっている。
 旧久能道を南南東に走り、花みずき通りを右折し、北矢部町から県道駒越不二見線に出て市立病院に向かう。
 県道に出る手前で昔懐かしい匂いがし、しばらく走ってから、あっ、イチジクの匂い!、と香りの正体を思い出し、それにしてもあんなにイチジクが匂うのは変だなぁと思って引き返したら、通り過ぎた道沿いは大きなイチジク畑だった。
 イチジク畑を初めて見たがなかなか面白い構造になっている。
 びっしりとイチジクの葉が生い茂った畑に、びっしりとイチジクの幹が並んでいるわけではなくて、一本のイチジクの幹から枝を横に這わせ、横に這った太い枝から幹のように垂直な枝が立ち上がって一本の木のようになっている。イチジクの枝というのは人間がそうしたいと思う形に従順に従う特性があるらしい。
 なるほどなぁ、と感心するとともに、家の裏手や庭の隅に植えられていたイチジクが食べたくてこっそり近づき、祖父母に「蛇が出るぞ!」と脅かされていた子ども時代を思い出し、むせ返るようなイチジクの匂いに陶然としてしばし憂さを忘れる。
 思ったより早めに薬の処方箋がもらえたので、もと来た道を引き返す途中、ヘルパーさんが帰られるまで少し時間があるのに気づき、上清水町大小山慶雲寺で蓮の花を眺めてずる休みする。
 境内に入ると蓮の花がたくさん咲いていて池でもあるのかと思うが、枯山水のようになっていて蓮を植えた小さな鉢が並べてあるだけである。大きな池に伸びやかに咲いている蓮のように、小さな鉢に植えられた蓮もまた伸びやかで美しく、蓮もまた環境への順応力に優れているのだろう。
 原因がわからないが意識が混濁して言動のおかしくなった母の昼食の世話をする。
母が眠ったのを確かめ、二階の部屋に上がって深呼吸し、市立病院訪問看護ステーションに電話して担当看護師と相談する。痛み止めのモルヒネによるものではないかと思ったのだけれど、肝機能の低下にともなってそのような症状が出ることもあるという。看護師を通じて担当医師の意見も聞け、水曜日の訪問看護で採血検査をしてもらうことにした。
 看護師や医師の意見を聞き、明日の予定も立ったら少しは緊張もやわらぎ、悪ければ悪いなりに、まぁ、こんな調子を少しでも長く維持できればいいかな、と思えるようになって、また少し現状に順応している自分に気づく。ついでに冷蔵庫にビールがないことにも気づいて、上半身下着姿のまま近所の酒屋に走り、地域におっちゃんとして順応している自分にも気づく。

(2005年7月25日の日記に加筆訂正)

【写真】 イチジク畑。

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【母と歩けば犬に当たる……124】

東海道みとり旅の記録
【母と歩けば犬に当たる……124】
 

124|終わりのない夏の手帳 09 ―洗濯物干し

 大学に通った4年間はアパートでひとり暮らしだったので、炊事、掃除、洗濯も自分でやった。
 母の在宅介護をしながら、ひとりの人間が一日に出す洗濯物の量について考える。子どもは汚すのが仕事だから仕方ないなどと、子育て中のお母さんは洗濯物の山を前にして笑っているが、老いて病む人もまた汚すのが仕事と言えるかもしれない。
 病気の母だけでなく、息子は息子でまた汗っかきなので夏場は洗濯物製造器のようである。朝起きて母の体調を見て声かけし、清拭を手伝い、目覚ましのお茶を準備し、朝食を作り、そのあいだに洗濯機を回し、給仕しながら朝食を食べ、後かたづけをし、洗濯物を干し、下肢マッサージをしている頃には汗だくになり、洗濯機の脇にまた洗濯物がひと山できる。
 晴れの日だと2階ベランダ物干し場に洗濯物を干して爽快になるのだけれど、雨だと気持ちよく乾かないので洗濯を取りやめ、2日も雨が続くと、仕方なしに部屋干し覚悟で洗濯をする。
 晴れた日の屋外も、雨の日の屋内も、親子ふたりが出す夏の洗濯物を干すには物干し竿の本数が足りない。バスタオル、タオルケット、シーツなど、大きめの洗濯物が多いからだ。
「そうだ、お母さん、メリーゴーラウンドみたいな物干し器がなかったっけ?」
と聞くとたくさんあるという。さっそく取り出し、こまごました洗濯物はそちらに干すととても効率がよい。学生時代にも使っていたはずなのに、あらためてこの道具を作った人は天才だと思う。凄いなぁ、タオルも手ぬぐいもハンカチも、パンツも靴下もパンティも、くるくる物干し器を回転させながら限られた空間にたくさん干せてしまう。ノーベル賞並みとは言わないけれど、人類に多大な貢献をした大発明だと思う。
 そう考えると、洋服を掛けるハンガーを考えた人もまた天才だ。
 シャツを干す際、ハンガーに掛けると骨と筋だらけになった自分に着せているような気分でちょっと嫌だけれど、襟元や肩の線を整えながら干すと、効率も良いし取り込んでたたむのも楽である。洋服ハンガーの歴史は古そうだけれど、発明した人はどこのどいつなのだろう。ノーベル賞並みとは言わないけれど、人類に多大な貢献をした大発明だと思う。
 そう考えると、洗濯ばさみを考えた人も天才だと思う。
 子ども時代に使った洗濯ばさみは竹でできたやつであり、やがてアルミをプレスしたものにかわり、そのうち化学樹脂を成型したものに替わったけれど、原理としては同じ形の部品を二つ組み合わせ、金属のバネで挟みつけるわけだ。たるんだ皮ばかりになった自分の身体をつねっているような気分でちょっと嫌だけれど、洗濯ばさみがなかったらどんなに不便だろうと思うと、ノーベル賞並みとは言わないけれど、人類に多大な貢献をした大発明だと思う。
 「♪た〜けや〜、さ〜おだけ〜」
とちょっと気乗りがしないというか、恥ずかしげというか、下手くそというか、そんな女性の声の録音テープを流しながら売りに来る物干し竿移動販売車が実家近くを回っている。
「○○年前と同じお値段で販売させていただいております」
という竹竿は昔と同じ竹ではなく樹脂製なのではないかと思うのだけれどどうだろう。
 小学生時代は竹製物干し竿の晩期にあたり、どの家庭にもあった竹製物干し竿に薄緑色の樹脂カバーをつけてくれる商売が流行っていた。
 自宅にあった竹竿を持って行くと筒状の樹脂被膜を男性用避妊具のように装着してくれ、ヤカンの沸騰した湯をかけると瞬時に縮んで竹竿にフィットし、非常に精巧にできた樹脂製竹竿のようになり、ある程度竹素材の寿命を延ばすことができたのである。
 あれを男性用避妊具装着法に応用したらぴったりフィットするものの、装着するときは熱いだろうと思うとちょっと嫌な気分なのは別にして、古びた竹竿が新品の樹脂製のようになって大喜びしていた人々の顔が目に浮かび、ノーベル賞並みとは言わないけれど、人類に多大な貢献をした大発明だと思う。
 大汗かきが出した洗濯物を部屋干ししたりすると、どうしても特有の嫌な臭いがするようになり、部屋干し専用の洗濯用洗剤なども売られている。
 母は二槽式洗濯機やバケツなどに水を張り、生協で売られている重曹と穀物酢をちょっと入れ、前夜洗濯物を浸しておいて翌朝洗濯すると、嫌な臭いは全くしなくなると言う。試してみたら本当に納得のいく洗い上がりで、これは凄いと思い、一体どこで知ったのかと聞いたら雑誌で読んだと言う。
 なんだか自分に重曹と食酢を振りかけて漬け込んでいるようでちょっと嫌な気もするものの、ノーベル賞並みとは言わないけれど、夏に大汗をかく人類に多大な貢献をする可能性のある大発明かもしれないと感心している。

(2005年7月24日の日記に加筆訂正)

【絵】 WindowsMobileのPocketPCで描いたウチワ。

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