クレパス気分

 日帰り出張にスマートフォンを持っていると、電話以外にカメラやパソコンがわりになるので身軽でいいのだけれど、バッテリ切れが気になるので充電用バッテリーパックを持参する。本音を言えばそんなものを持たなくて良いのが理想なので、鞄が重くなるぶん気も重い。

 ネット記事を読んでいたらサクラクレヨンとクレパスのパッケージを模した充電式バッテリーパックが売られていたので買ってみた。これなら子どもの頃、いつもランドセルに入っていたので持ち歩くことが苦にならない。気分というのは不思議なものだ。

▼Hamee (ハミィ) 株式会社

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三河島菜

 ローカルニュースを見ていたら、葛飾区にある都立農産高校生たちが、昭和初期に絶滅したと思われていた三河島菜を、販売可能な量だけ栽培するのに成功したという。仙台藩足軽が種子を江戸から持ち帰り仙台芭蕉菜として広めたものが残っていたそうで、ちらっと映った江戸時代の文献にツケナ、トウナ、シロナの文字が見えたので、それら美味しい野菜の類種なのだろう。

 仙台に持ち帰られて種を保った三河島菜は、江戸時代三河から入植した人たちが持ち込んだそうなので、三河島という地名もそこから来ているのかと思ったら、永禄2年(1559年)に作成された「北条氏所領役帳」に「三河ケ島」の地名が見えるので、家康の江戸入府以前からのものらしい。

|明治初めの三河島|

 三河島菜がツケナ・トウナ・シロナの仲間ということは、秩父名産シャクシナやオタマナなどとも親戚なのだろう。富山ではシロナをよく食べたというが、我が母親はオタマナという言葉をよく口にした。漬物に向く野菜は各地でいろいろに呼ばれ、地域ごとに固有の名がつくということは生活に欠かせない愛着の証拠だろう。わが家はシロナが手に入ると関西風の薄味で煮浸しにする。三河島でふと思いだしたけれど水キムチにしたら美味しいのではないかと思う。

 清水の農家に嫁いだ友だちから初めてヌキナという言葉を聞き、彼女の言うヌキナは大根のマビキナのことだったが、東京ではそういう間引かれた小さな若い芽をツマミナという。何と言っても安いので、子どもの頃は味噌汁の具としてよく食べ、今風に言えばベビーリーフなのだけれど、ベビーリーフとマビキナをくっつけるとちょっと複雑だ。

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玉と棒と春の支度

 駒込駅近くにある若者相手の雑貨店から苔玉を買ってきたが、あっという間に枯れてしまい汚らしい玉と棒のオブジェになった。スナゴケで覆われた球体からオカメヅタが生えていて枯れた仕立てが気に入ったのだけれど本当に枯れてしまった。

 郷里静岡県清水からシクラメンの鉢植えが送られてきたので、もう苔玉の残骸は捨ててしまおうかとも思ったのだけれど、一人世話するのも二人世話するのも手間にかわりはないので、毎朝義父母の住まいの窓開けと掃除とラジオ体操をするついでに、乾かない程度の水やりを続けていた。

|玉に芽吹いたスナゴケ|

 別に祈ったわけでもないのだけれど、最近僅かな変化が起こっており、オカメヅタとスナゴケが微かに芽吹いてきたような気がする。どちらも長さにして1ミリくらいのものなので、これからの厳しい寒さで枯れてしまう可能性もあるけれど、やはり生き物が生きていて、ただの玉と棒じゃないとわかることは嬉しいものだ。春の支度が始まったと思って「ちゃんと育って豊かな緑になりますように」と、今度は本当に祈っている。

|棒に芽吹いたオカメヅタ|

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偏光と世界

 一歳年上の従兄がいて、このいとこと一緒にいる時だけ、人には文系と理系という分類が成り立つのではないかと強く意識した。意識することが分類可能であるような幻想を見せていただけかもしれないけれど、その理系の従兄が中学時代
「おい、光は点だと思うか波だと思うか?」
と聞くので、
「うーん、光は世界を満たす液体のようなものだから波だ」
と答えると困ったような笑いを浮かべ
「うーん、まあ正解だな」
と言った。

 理系の従兄に馬鹿にされないよう質問をはぐらかすには、文学的で持って回った受け答えをするのが効果的で、大学ノートに書き溜めた詩を見せると
「たいしたもんだなあ、俺にはとてもこういう文章はかけないよ」
と真剣に読みながら言うのだった。従兄は従兄で文系の従弟を意識していたのかもしれない。

 母親のボーイフレンドに釣り好きのおじさんがいて、日曜日になるたびに川釣りに連れて行ってくれた。運転しながら小さな川を見つけると、車を停めて竿を取り出し釣糸を垂れてみるのだけれど、夕暮れ時が近いと、さほど釣り好きでない母は
「こんな川に魚がいるわけがないから早く帰ろう」
とよく文句を言っていた。


 そのおじさんが不思議なメガネを持ってきて
「このメガネをかけると水面の反射や濁りが消えて、川底の方までよく見えるんだ。これさえあれば魚がいるかいないかもわかる」
と言い、それが偏光グラスというものだと教えられた。

 光は波なので波形の振幅に方向性があり、その方向が360度いろいろな角度で混じり合ったものがふつうの光の実体だ。その普通の光の、ある方向のものだけしか通り抜けられないようにしたスリットのようなものを偏光板といい、釣り用の偏光グラスや写真用偏光フィルタがそれを利用して製品になっている。

 光の仕組みを写真に当てはめて考えれば、世界というのは様々な角度や切り取り方で眺めると多様な様相を帯びる光景であり、写真撮影の際に角度やフレーミングを変えて撮影するのは、偏光板を通して世界を思い通りに眺めようとするのに似ている。だから複数枚撮った中から良いと思う写真を選ぶ価値判断も生まれるし、撮った人の価値基準が時とともに変われば自ずと写真への自己評価も変化する。写真というのは世界の計算盤に似ている。

「おい、世界は点だと思うか波だと思うか?」
と従兄に聞かれて
「うーん、世界は個々人の見る角度と枠組みで変わる不定型な液体のようなものだから波だ」
と答えたら
「うーん、まあ正解だな」
と言うだろうか。

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駒込の佐藤邸

 JR 駒込駅の南北口は本郷通りのある高台に面しているが、東口は藍染川がつくった谷間にあり、南北口から東口方面に向かうには山手線ホームに沿って坂道を下ることになる。

 JR 駒込駅北口に隣接して駒込駅前交番、染井吉野桜記念公園、都営駒込二丁目アパート、豊島区立駒込図書館、東京都赤十字血液センター駒込出張所、豊島区役所区民ひろば駒込、駒込第三保育園がかたまっている区画があり、ここは1971(昭和46)年まで東京都交通局駒込電車車庫、ようするに路面電車の車庫だった。

 染井吉野桜記念公園をはさんだ両側にある二つの坂道のうち、血液センターの車が出入りするほうの坂道には左側に小さな公園と木立があって、そこを通って北口駅前から続くさつき通り商店街へ下りるのが好きだ。

 この道は昔からあったのだろうかと古地図を見たら道は見あたらず、そのかわりに広い庭のある邸宅があって佐藤邸という。ずいぶん立派な邸宅なので名のある人の住まいだったのだろうと調べてみたが情報がない。仕方がないので「駒込+佐藤邸」で検索してみたら、青空文庫内にある宮本百合子の文章がヒットした。『大正十二年九月一日よりの東京・横浜間大震火災についての記録』という題がついていて、読んでみると宮本百合子の家族や友人が体験した関東大震災の聞き書きメモだ。生々しい出来事の記録には細部があって大変に興味深い。その中で「九月六日に聞いた話」として下記の記述がある。


◎笹川氏来 芝園橋の川に死体が並んでつかえて居、まるでひどい有様で日比谷にも始め死体が一列に並んで居た由。
○看板に、火がぱっとつき、それで家にうつる。それを皆でこわす。
○産婦が非常に出産する。日比谷で、幾人も居る。順天堂でも患者をお茶の水に運び、精養軒へ行き駒込の佐藤邸へうつる迄に幾人も産をした。
◎隅田川に無数の人間の死体が燃木の間にはさまって浮いて居る。女は上向き男は下向、川水が血と膏あぶらで染って居、吾嬬橋を工兵がなおして居る。
◎殆ど野原で上野の山の見当さえつけると迷わずにかえれる。(青空文庫所収「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社より)


「順天堂でも患者をお茶の水に運び、精養軒へ行き駒込の佐藤邸へうつる迄に幾人も産をした」という文章だけが手がかりなのだけれど何度読んでも意味が分からない。

 仕事の合間に時々思い出しては考えていたら佐藤と順天堂で「あっ」と思い当たったので、検索してみたら順天堂大学医学部医史学研究室客員教授酒井シヅさんが書かれた文章にそのヒントがあった。

 関東大震災は1923(大正12)年9月1日11時58分32秒に発生した。宮本百合子の聞き書きにもあるが、火は瞬時に燃え上がったのではなく、間を置いて少しずつ各所で発生して燃え広がっていったらしい。順天堂の木造モルタルづくり病棟は崩壊は免れたものの板がむき出しになり、午後二時頃になって水道橋方面から火の手が迫って燃え始めたという。入院患者を隣接する女子師範いまの医科歯科大敷地に移したが、神田から駿河台を経由した火の手も対岸に迫ったので、歩ける患者は歩き、担架に乗せたり看護婦が背負ったりしてお茶の水を脱出した。神田川に沿って松任町いまの外神田一丁目まで出て左折し、現在都道452号神田白山線と呼ばれる道を辿って上野精養軒前まで逃げて命拾いしたという。そして午後三時には順天堂も焼け落ちたと書かれていた。

 この後のことを宮本百合子の聞き書きで補えば、患者と病院職員は上野の山から駒込の佐藤邸まで、途中で出産してしまう女性もいたもののなんとか無事にたどり着いたわけだ。というわけで駒込にかつてあった佐藤邸とは順天堂大学の基礎を作った人物、佐藤泰然に連なる人々が暮らした佐藤家だったのだろうと思われる。

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文章を耕す

 文字の読み方には深さがある。土地の耕し方も深さによって作物の出来映えに差があるのと同じ事だろう。

 twitter で思想史家の千坂恭二さんがつぶやいておられ、文章というのは浅く読むこともできれば深く読むこともできて、同じ文章を読んでもその深度によって、“読まれた内容”が違っていたりするという。博覧強記の人ですら読むことの深浅に予想外の差があるものらしい。

 本の読み方は同じでも、読みながらなるほどと感心した箇所に傍線を引くのと、抜き書きメモするのでは“読まれた内容”に違いを感じる。おそらく読むとは言葉の記憶を耕すことなのだろう。書かれたものを一語一語清書して書き写すことも違う耕し方なので理解度が違い、それは表土の下に深く鍬が入るような結果をもたらすことになる。

 だがそうやって清書した読書ノートも時間をおいて読み返してみると、なぜこの箇所に感心して清書したのかが思い出せないこともある。それはおそらくまだ耕し方が浅いので記憶の根が張りにくいのと、一冊の本を通した読書体験という時間の連なりから切り離された抜き書きになってしまうと文脈による理解が難しいのだ。

 そんなわけで最近は清書するかわりに、自分の言葉で平易に言い換えてメモすることにしている。書き出しには必ずどういう文脈で感心してメモしておこうと思ったかという前置きをし、難しい術語は辞書で調べて一般的な言葉に置き換えている。本を読んでいる最中は多少頭が良くなっている自分がいても、しばらく経てば元の木阿弥に戻っているので、賢い自分から愚かなる自分への親切はのちになって有り難いと思うことが多い。

 そうやって自分で自分に教えるように書くと耕し方が深いようで根が深く張られて忘れにくい。わかりやすく教えることのできる人間は自分で自分を耕すことで、歳をとっても教師にふさわしくいられるのかもしれない。なーんだ、先生も生徒に教えることで自分の知識と記憶を耕していたのだなと思い、八十歳になって気力が衰えたという手紙が届いた郷里の恩師に、突っ込みどころをちりばめた写真付きの激励メールを書き、大きめに印刷して投函した。

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干支を探す

 ここ数年、年賀状は干支をテーマに手作りしている。来年用は午年に因んで JR 山手線にかかる本郷通りの跨線橋、駒込橋から遠望する富士山の写真にしようと思っていた。

 駒込橋は昔から富士山が見えることで知られていたようで、架け替えられた新しい橋も、欄干にソメイヨシノと富士山をモチーフにした装飾が施されている。ネットで検索するとビルとビルの隙間から微かに見える富士山の写真を公開されている方があり、狙う場所が確認できたので望遠レンズを付けて出かけてみたが、東京の町は次から次へとマンションやオフィスビルが建っているので結局富士山の見える微妙な隙間も失われてしまっていた。

 土曜日は食事介助に通う妻に付き添って大宮の特養ホームまで行くのが恒例になっている。
「困ったな、年賀状用の馬に因んだ写真が今年は撮れそうもない」
などと話しながら特養ホームに着いたら、年末なので少しずつ掃除を始めているのか、卓球台の上に無造作に油絵が置かれていて、浜辺を疾駆する馬の絵だった。

「あったあった馬の絵!年賀状にちょうどいいけど、まさか他人の描いた絵を写真に撮って勝手に年賀状で使うわけにもいかないよね」

と言って笑った。名のある画家が描いたようには見えないので、入所者や家族が描いたものを苑に寄贈したのではないかと思うが、うまくはないけれど妙に元気のよい馬でめでたい。めでたいので来年に備えて飾るつもりかもしれない。

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